「美人○○」と「女性○○」

前日の記事の続きです。


美大講師」を「美人講師」と一瞬見間違って恥ずかしくなった理由は、今思うと二つある。
一つは、「おまいさん、いい歳こいてどんだけナルシシズムに汚染されとんだ」。これについてはそう説明はいらない(というか恥ずかしいのであまり詳しく説明したくない)。
もう一つは、それが芸能週刊誌であっても、「美人○○」などという言い方に疑問を感じないような心性が、自分の中にあったのか‥‥という恥の感覚である。


たとえば最近話題になった美人という職業 - 雨宮まみの「弟よ!」のこの下り。

「美人○○」って、ホメ言葉のように見えるけど、雑誌の記事などでそう書かれている場合、かなりの確率で蔑称として使われていることが多いように思います。実力を認めている場合は、たとえ美人であってもいちいち「美人」とは書かないでしょう。美人○○、なんて、一見ホメてはいても軽く見ている場合がほとんどだって、わかる人にはわかるでしょうから。


ぐはぁぁぁぁ‥‥‥。死にました。もうおまいさんフェミニストぶるのやめれ。美人でないのに勘違いして喜ぶ不美人も阿呆だが、「美人○○」という言葉の偏向ぶり(?)に鈍感なのはもっとダメな気がしてきた。


上記記事では、「美ともうひとつ別の才能、ダブルで成功をおさめている者への(男の)嫉妬」という観点も指摘され、身近な例が挙げられていたが、ずいぶん嫉妬深い男性がいるんだなあとは思った。
私の夫など常々、「美人で優秀、すばらしい!美人○○大歓迎」と言っている(しかし微妙な美人に「美人○○」とつけられていると散々貶す一方、○○の部分がそれほどでもないと見ても自分好みの美人なら許容している。そして「イケメン○○」は嫌いらしい)。


「美人○○」は意外と、「蔑称」ではなく慣用句(的褒め言葉)として、衒いなく使っている場合もあるような気がする。
たとえばテレビの旅の番組でよく使われている「美人女将」。「女将」は相対的に美人率は高いだろうが、「女将」ときたら「美人」とつけるのが決まりであるかのような馴染み具合である。「美人女将」。もはや「新鮮野菜」みたいな意味の無さすら感じる。
でも「女将」は男じゃなれないから、「美人」とされても男は嫉妬しないだろう。「美人女将」は、やはり男性を喜ばせる言葉であり、オヤジ週刊誌臭がする。「美人インストラクター」「美人講師」もそうだ。
つまり、サービスや教えを直接受ける職業や女性のみの職業においては、「美人○○」は(男性にとっては)単純に嬉しいが、そうでないジャンルの場合は「ま、美人だからそこまで行けたってこともあるよね」的な嫉妬が混じってくるということか。どうせ美貌を武器に成り上がってきたのだろうと。
実際そういうことも中にはあるかもしれないが、いずれにしてもオヤジ週刊誌臭い発想が「美人○○」にはつきまとう。


今でもたまに使われる言葉に、女性作家、女性アーティスト、女性弁護士などがある。わざわざ「女性」をつけていた理由は、「元々男が多い分野で、女性なのにやってます」といったニュアンスを強調したいということだった。
これは文脈によって、差別的表現になる場合とならない場合があるので、一概にダメという見方は私はしていない(例えば「タクシーでは女性ドライバーが増えている」とか)。
で、「女性」がさまざまな分野で当たり前になってくると、「美人」だ。美醜が問われないところで「美人」という観点を入れることは、「男の嫉妬」以外のどういう効果をもたらすのか。


普通に、賞賛になることもあるだろう。余計な賞賛かもしれないが、ついそう書きたくなるくらいの天は二物を与えた美人だったら、やはり媒体や書き手によってそう書かれることは避けられないでしょう。美しいものは何によらず褒め讃えたいというのは、人情としてある。
美人で尚かつ○○として成功している人は、そこらにゴロゴロいないから珍しさもある。世間の目は下世話なものだ。
それに対して、ずっと美人だと見られ続け言われ続けてきた当人は、ウザいと思いつつも「ふん、またか」てなものであろう(経験ないので想像だが)。
そのあたりは「わざわざ美人などとつけてバカにしてるの?」「○○のところをちゃんと評価してるの?」と怒るより、「またか」でサラリと流す方を私は好む(経験ないので想像)。


むしろ、それを見た他人が「これってなんか厭な感じ」と思うところに鍵がある。
「厭な感じ」というのは、「女性○○」に主に女性がしばしば感じる「なぜ?仕事に女も男もないのに」という違和感と似ている。「女性○○」は「○○(男性)」と区別するために、わざわざ一方のみの性をクローズアップして使われる言葉である。
じゃあ「美人○○」は何からの区別なのか。
「美人」であることをクローズアップするからには、「非・美人○○」との区別ではないか。 
美人作家、美人アーティスト、美人弁護士など「美人○○」な人々がいるということは、その背後に「美人」の範疇には入れられない女性の作家、女性のアーティスト、女性の弁護士達がいるということである。
彼女達の中から美人をあえて分かつ言葉が「美人○○」。


つまり「美人○○」という言葉は、当の「美人○○」に焦点を当てているかに見えて、「美人ではない女性○○」の存在を暗に示している。
「なぜ?この仕事に美人も不美人もないのに」「美醜ではなく○○を評価されたいと思ってこの仕事をしているのに、ここでも美醜をあげつらうのか?(いや醜はなくて美だけだが) 女の容姿が問われない場所はこの世界にないのか?」という、「非・美人○○」の遣る瀬なさを喚起してしまう言葉なのである。



なんてネチネチとほじくるのも、おまいさんが「美人○○」でないからだろ? そうですがなにか。
美人は好きだが、「美人○○」という言葉を見ると「女は外見」というこの世の古い掟を知らされるようで、正直言って切ない。
いやそんな掟があるかどうかは知らぬ。「美人○○」という言葉が、掟を前提にしているように見えるだけ。でもそんなことをいちいち言うと「ブスの僻みか」と思われそうなので、黙っているのです(もう書いてしまったが)。


上の記事について「備忘録」として書かれた美人○○ - smallpineの日記/サブタイトル模索中から。

不美人にとって「美しくなりたい」というのは「欠点を無くしたい」「弱点を無くしたい」に近い。欠点というのは、ここがもっとこうだったら良かったのに、という箇所のことで、弱点というのは、どんなに正しいことを言っても「ブス!」と言われたらそれ以上言い返せない(それでも言い返すと、内容に対してではなくブスと言われたことに対して言い返していると変換されてしまう)ステージに引きずり込まれる、理不尽だけど、そんな付け込み方をさせるのは他ならぬ自分自身のコンプレックスゆえであるという自業自得状態のこと。まあなんというか、つまり、ネガティブから逃げたいだけだ。


ぐはぁぁぁ‥‥。また軽く死にました。
しかし思い出してみると、私も似たようなことを書いたことがあった。

 一方、女は常に美醜で判断されてきた。ブスな女は昔は「これでは嫁の貰い手がない」と嘆かれ、どんなヒヒオヤジのところでも黙って嫁がねばならず、その次には「器量が良くないんだから、一生懸命勉強していい学校に入ってちゃんとした仕事に就くんだよ、男なしでも生きていけるように」と言われたものである。
 そして頑張って財力や地位を得たり、仕事で高い能力を発揮したり、才能を世に問うていたりしても、「でもあの人ブスじゃん」という言葉を耳にしたが最後、女の心の奥で何かが崩れ去る。崩れ去ったことは表には見せぬが、ブスの一言で片付けられるのは努力してきた女にとってあまりにもやるせない。
『モテと純愛は両立するか?』より「ブスに純愛は可能か」(2006/夏目書房


こんな思いも、「他ならぬ自分自身のコンプレックスゆえであるという自業自得状態」なのだろう。自業自得にして自縄自縛。


そこから抜け出すには、こないだ書いた「マッチョ」と「ウィンプ」の何故何故論の結論に無理矢理あてはめて考えると、美人/不美人という上下関係などないかのように振る舞え、ということになる。あったとしても「ない」と。答は自分がもっているのだから。掟と答が違っても知ったことか。そのくらいの勢いがなくて、○○で頭角を現すことなどできますか。


○○に賭けているなら、「美人○○」と呼ばれる人も呼ばれない人も、きっとそう思っているに違いない。
長いわりに平凡な結論に落ち着いた。