「ミソジニー」といかに付き合うか

「非モテ」と言うより「ミソジニー」の問題のような - NC-15
お前ら今日からミソジニーって言葉使うの禁止な - AnonymousDiary


ミソジニー」は女性嫌悪、女性蔑視の意。男性→女性だけでなく、女性→女性もある。男性嫌悪は「ミサンドリー」(Wikipediaの解説)。
検索していたら、約一年前のこんな記事を見つけた。
マスメディアでの男性批判が、男性を女性嫌悪に走らせる - ARTIFACT@ハテナ系


ミソジニーで思い出したのが、内田樹の『エイリアン3』の分析だ。

エイリアンシリーズの中で興行的に失敗だったとされる3は、ヒロインのリプリーが「常習的・遺伝的な性犯罪者」のみが収監されている囚人星に漂着し(2で助けた子供と仲間は死亡)、そこで囚人達の強烈な反発、憎悪、セクハラに晒され、最終的には彼らと共にエイリアンと闘うという物語である。全編暗いトーンで殺伐としたムードが漂い、リプリーにはこれでもかというほど災難が襲いかかる。
以下、引用部は『女は何を欲望するか』(内田樹径書房、2002)収録の「エイリアン・フェミニズム 欲望の表象」から抜粋。

 一九九二年のこの第三作は前二作に比べると、あまりに暗く、あまりに希望がない。それは全編にみなぎる「女性嫌悪」(misogyny)の瘴気のためである。
 この映画で女性嫌悪はむろんフェミニストからすぐに指弾されるようなあからさまな仕方では表現されていない。それは陰微な仕方で、フェミニズムを「懐柔」し、それに「迎合」するような話型を通じて表現されている。


髪を切られて丸坊主になり、男性囚人と同じ服を着せられるヒロイン。そこには「女らしさ」はかけらもない。ただ一人のインテリである医師とセックスしたのも、必要な情報を引き出すためであって、そこに「恋愛関係」はない。しかも医師はすぐにエイリアンに殺される。
やっとのことで囚人達の支持を取り付けエイリアンと闘うリプリーに、男性の部下達に指示する女性上司のような威厳や余裕は描かれない。さらにエイリアンの子を「妊娠」してしまった彼女は、「会社」(軍需産業)に抗して壮絶な最期を遂げる。
紅一点のリプリーは、囚人達には「平穏な生活を乱す者」として捉えられている。女は禍いを呼ぶ「邪悪」な者なのである(エイリアンを連れてきてしまったことがその証左だ)。ホモソーシャルに入り込んできた「有能」な女性は、女性性を剥奪され「いじめ」の対象になり悲惨な運命を辿るのだ、という解釈が成り立つ。


内田樹は、この映画にはフェミニズムの広がりによって既得権益を脅かされたアメリカ男性のミソジニーが現れていると指摘した。

 自立を求める女性、男の子供をはらむことを拒絶する女性は、徹底的にファルス的な暴力にさらされ、子供を失い、友人を失い、美貌を失い、性生活を失い、夫を殺し、子供を殺し、自分も死ぬことになるだろう。この映画はそう予言している。ファルスと闘う女性はすべてを失うだろう。これがこの映画の発信するあからさまなメッセージである。そして、この映画の作り手たちは自分たちがそのようなメッセージを発信していることをおそらく自覚しておらず、それがアメリカの男性観客の「悪夢」を映像化してみせたのだということにも、おそらく気づいていない。


[中略]


 しかし六〇年代以降「右肩上がり」に推移してきたアメリカのフェミニズムに対して、アメリカ男性の側に根深い悪意がわだかまっていること、そして「父権性社会の規範を無視して自由にふるまう女たちのもたらす災厄」を描いた物語が近年集中的にマイケル・ダグラス主演で映像化されているという徴候は指摘しておく必要があるだろう。マイケル・ダグラスはこれらの一連の映画で、当代のハリウッド・スター女優を次々と「殺し」、男性観客にカタルシスを味わわせた(殺されたのは、キャサリンターナーグレン・クローズシャロン・ストーンデミ・ムーア、グイネス・パルトロウ)。
 このような映像に「女性嫌悪」の徴候を指摘することは難しいことではない。その背後に潜む不安や欲望を暴露することも、それについて教化的な言説を編むことも、場合によってはそのような表現の規制を求めることもできないことではない(『氷の微笑』に対しては上映禁止運動が試みられた)。しかし、そのような非難、批判、告発、暴露、断罪といった身ぶりをいくら繰り返そうとも、「抑圧された悪意」はそれをより巧妙に隠蔽する別の物語を迂回してゆくだけで消失するわけではない。


内田樹フェミニズムに対して捩じれた視点(時に反動的な)をもっている人であり、そもそもこの本自体がフェミニズムに引導を渡す主旨のものなので、アメリカのフェミニズムの「成果」がミソジニーを誘発したとも読める。
もちろんフェミニストがそんなことを目指していたわけではないが、急速に広まったフェミニズム思想が既得権をもった男性達を不安に陥れたことは確かだろうし、急進的なフェミニストの言動にミサンドリーを見て取り、それにミソジニーで反応した男性もいたかもしれない。



ネットに現れるミソジニーは、しばしばアンチ・フェミというかたちを取っている。非モテブログの一部でも、そうした言説を目にしたことがあった。実際ここでも非モテ男性から、「フェミニズム非モテを抑圧しているのではないか」とのコメントをもらったことがある。さまざまな権利を獲得し「強者」となった女性が「弱者男性」を追いつめているのだと。その際よく上野千鶴子の発言「童貞はオナニーして死ね」が持ち出される。
上野千鶴子は「強者」であっても、フェミニストのすべてが、まして女性のすべてが「強者」ではない。だが「女性の権利拡大によって男性は抑圧されている」と強く信じている男性の女性嫌悪、女性憎悪を解除することは非常に難しい。


「弱者男性」とは、『エイリアン3』では囚人達に当たる。彼らのリーダーは黒人でありマルコムXを模して描かれている。彼はリプリーを憎む囚人達を諌め、彼女と共にエイリアンと闘うことを呼びかける。そのエイリアンを操ろうとしているのは「会社」(白人男性達)だ。女性と「弱者男性」を抑圧しているのは「強者男性」という構図になっているところは、フェミニストへの(表面的な)配慮だろうか。
だが、囚人のほとんどはエイリアンに殺され、リーダーは最後にリプリーをエイリアンから庇って死に、リプリーは自殺に追い込まれる。たった一人生き残った囚人(最後までリーダーに反抗していた最もミソジニーの強かった者)は、「会社」の人間に拉致連行される。
女性と「弱者男性」が束になって闘った結果が、無惨な敗北なのである。それもこれも、リプリーが囚人星に来なければ(女が男社会に入って来なければ)起こりえなかったことになるのだ。
反発し合っていた男女を、共通の「敵」のために一旦結束させておきながら、その闘いを報われないものとする。いろいろな意味でやりきれない結末である。


非モテの中では、フェミニストとはほぼ正反対のタイプの女性に対しての反発のほうが多いかもしれない。ジェンダー規範を内面化しており、「強者男性」(経済力、ルックスetc)を求めると公言し、「弱者男性」である非モテには軽蔑の視線を送る女性だ。
そうした女性が非モテ男性全般から反発されるのは当然のことだが、「所詮、女とはそういうものだ」との思いが強い場合、特定の女性への不信、あるいは女性ジェンダーへの嫌悪が、女性全体への不信、女性嫌悪に繋がってしまう。女性ジェンダーと距離を置く非モテ女性と共闘することもない。


ミソジニーを露にする非モテ男性は非モテ全体から見ると小数派のようだが、男性の女性に対する一つの心理の「顕われ」としては、ある意味象徴的なものにも思える。彼らにとって女性は「父権性社会の規範を無視して自由にふるまう」者であり、男性を脅かし傷つける存在なのだろう。ミソジニーは女性恐怖と隣り合わせだ。
内田樹の言葉を援用すれば、「その背後に潜む不安や欲望を暴露することも、それについて教化的な言説を編むことも、場合によってはそのような表現の規制を求めることもできないことではない(最近は言動が「過激」な非モテに対する「ガイドライン」を求める声もある)。しかし、そのような非難、批判、告発、暴露、断罪、そして防衛といった身ぶりをいくら繰り返そうとも、「抑圧されたルサンチマン」はそれをより巧妙に演出する別の言説を迂回してゆくだけで消失するわけではない。」 
批判、断罪する者が女性の場合、ますますミソジニーを加速させることもありそうだ。



私はそれ以外の男性(非モテ、非・非モテに限らず)に、ミソジニーが皆無だとは思っていない。というより、男性のジェンダーミソジニーは刻み付けられており、普段は良識や配慮によって表面化しないようコントロールされているのではないかと思う。
一般には、マッチョな男性ほど表に出やすい傾向にあるが、「あいつはミソジニストだ」と決めつけるフェミっぽい男性の内面、無意識に、ミソジニー要素がないという保証はない。
こんなことを書くと、それはミサンドリーだと言われるかもしれない。確かに自分の中に、男性嫌悪や男性恐怖の感情が起こることはある。またレイプ被害者が強いミサンドリーに囚われて苦しむといった話はよく聞くし、レズビアンフェミニズムの一部にも根強くあると言われる。男性においても、「傷つける性」としての自らの男性性を嫌悪するあまり、女性に対して禁欲的になる人はいる。


だが私の中にはミサンドリーの感情と共に、ミソジニー的感情もある。街や電車の中などで、傍若無人なおばさんや若い女に苛つき「女ってこれだから‥‥」と心の中で呟き、「でも自分も同類か」と厭になるといった些細なことを初め、「女特有」のナルシシズムや狡さに気づいた時の滅入る気分、自分の内なる女性性への嫌悪感情はこれまで時々味わってきた。
誰でもそうした負の感情にどこかで折り合いをつけて生きているだけであって、状況が変わればどれかが強く表に出てくることはあり得るのではないかと思う。


負の感情など持たずに生きていったほうが、生きやすいに決まっている。しかしこの社会で何も怒りを感じず、ヒステリーも起こさず生きていくのは、至難の技である。「抑圧されている」と感じる人ほど、その感情は強くなる。男女の関係、位相が複雑化している中で、ミソジニーミサンドリー)が社会の「徴候」、個人の「症候」として現れることは充分あり得る。
ネットに現れるミソジニーミサンドリー)的言説を抑圧し封殺し無理してなくそうとしても、それはまた形を変えて回帰してくるだろう。下手をするともっと悪い形で。確信犯的なミソジニー言説は目立つので批判しやすいが、一見それとはわからない外見をまとった振る舞い、無自覚な言葉の中に潜むもののほうが、根が深いかもしれない。かといって、「ミソジニー」「ミソジニスト」とレッテル貼りされるのではないかと萎縮していたら、何も書けなくなる。


私達はさまざまな「自由」の分だけリスクを負わされた。自分や他人のミソジニーミサンドリー)とどう付き合っていくかは、「ガイドライン」以前に個人的な問題としてあるように思う。


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