私たちの「祭り」、その失敗と責任 - 『ポケットは80年代がいっぱい』(香山リカ)を読んで


カバーの紹介文から引用しよう。

一九八一年、サブカルチャー勃興期の渋谷。
伝説の”自販機雑誌”『HEAVEN』の編集部が、
香山リカの出発点だった。
「新人類」「ニューアカデミズム」「テクノ」「ニューウェーブ」「スキゾキッズ」など、
数々のキーワードを生み、多くの才能を排出した
八〇年代サブカルチャーの現場を描く、
おしゃれ・キュート・アヴァンギャルドな八〇年代クロニクル。


78年、北海道から東京に出てきた香山リカが、自分の嗅覚を頼りに動いていった結果、成り行きでえらくディープな人々と関わることになり、さまざまな場や出来事に巻き込まれてゆき、それらやや「異端」な香りのする環境と自分の周囲の一般大学生感覚とのズレに悩み‥‥といった、80年代前半ニューウェーブ周辺の体験記である。


東京ニューウェーブに憧れる地方の女の子が上京‥‥で、岡崎京子のマンガ『東京ガールズブラボー』を思い出す人もいるかもしれない。「テクノ」や「ニューウェーブ」は当然重なっているが、この本に描かれているのはそっちのキラキラ感とはやや異なるアンダーグラウンドな世界。香山リカの目線はサカエ(『東京ガールズブラボー』のヒロイン)と違って、巻き込まれつつもどこか醒めたところがある。
読後感としては、「おしゃれ」「キュート」とは微妙に違った(「アヴァンギャルド」は近いとして)。


香山リカというと、精神科医の経験を生かした文化、社会批評を初め、政治時評も多い。何冊かは読んだが、思想的に興味を惹かれるところまではいかなかった。正直なところ最近は、優等生のクラス委員的にも思える「リベラル左派」の護憲発言にも飽きていた。
しかしこの本は、いろいろな面で興味深く読めた。


一つには、60年生まれの香山氏と私が同世代で、やはり70年代後半に地方都市から上京し、80年代前半の東京の、なんか知らないけどマイナーで危なそうでクールで強烈な磁場をもったサブカルチャーに触れていたという個人的事情がある(私は香山リカより3年早く82年の春に名古屋に戻ったが、東京のソレが忘れられなくて数年間は頻繁に上京していた)。
山崎春美、タコ、YMOクラフトワークヒカシュープラスチックス戸川純EP-4ゼルダ、イヌ、フールズメイト、フリークス、ブレードランナー‥‥。
次々出てくる固有名詞に、だんだんみぞおちのあたりが痛くなってきた。被っている。ほとんど当時の私の「文化圏」と被っている。法政大学でやってたギグとか一緒に見ていた可能性がある。ビックリハウス工作舎、構造と力、GS、週刊本‥‥あーまたみぞおちが。


もっとも私は美術に傾倒していて、香山リカのようにサブカルチャーの現場に直接関わることはなく、もっぱら観客としてそれらのものに接していた。「祭り」のような狂騒感。いろいろなものが目の前で解体されていく様にワクワクし、自分もいつかそれに参加するぞと思っていたのだった(実際名古屋に帰ってパフォーマンスやインディーズ系のバンドを少しの間やっていた)。
しかし85年の「プラザ合意」あたりを境に、前の80年代と後の80年代(いわゆるバブル期)で、目に見える「文化」は様変わりした。
医師国家試験のため10日ほど引きこもっていた彼女が久しぶりに渋谷に出て、「ハマトラ」(ニュートラなどと共に80年代中〜後期を代表するいささか保守的なファッション‥‥男受けは良かった)を目撃し、「自分の時代は終わった」ことを実感するシーンはなまなましい。
それにしても、親の買ってくれた三軒茶屋のマンション住まいだった香山リカと、南池袋の四畳半一間で過ごした私の(家の)経済格差‥‥。
まあおばさんの思い出語りはここらでやめとこう。



80年代前半のサブカルチャー周辺のトンがった空気と、90年代を経て2000年代の現在との「違い」を、今の香山リカはどのように捉えているのだろうか。
比較的控えめな調子でユーモアも交えて淡々と語られる回想からは、それはわからない。巻末の中沢新一との対談の中から、興味深い発言を拾ってみる。

あの頃って、主体などないとか、主体も他者にすぎなくて、構成されているものなんだとか、さんざん言われてたじゃないですか。私なんかはそれを真に受けて、ああ、そうなんだと思っていたのに、その後になって急に「自分探し」とかが流行って、一気にみんながそっちの方向に行ってしまったでしょう。じゃあ、あれはいったいなんだったのか、って‥‥。

[‥‥]逆に、80年代が「砂上の楼閣」だったと言うといいすぎかもしれないですけど、実際は何も積み上げられていなかったということはないですか? あと、私たちの責任ということで言えば、中沢さんやYMOの人たちなんかがいろいろ言ってくれて、それを私たちが読みといて、あ、これはラカンのここから来ているんだな、とか、バロウズはいいよね、とか言っていたのが、YMOが「散開」して、みんながそれぞれの場に戻ってしまったら、私たちからは何も紡ぎ出せなくなってしまった。[‥‥]

[‥‥]あの頃の文化的風土がずっと続いていれば、たぶんこんな風にならなかったんじゃないかな、という責任を、私なんかはちょっと感じるんです。それは私たちだけが持っている空気で、そうだよね、みたいに言い合っているけど、結局、下の世代に全然伝わらなかったから。[‥‥]


今頃何を言ってんだ、と苛立った「下の世代」の人もいるかもしれない。反省が遅過ぎると(その反省の結果が「9条を守ろう」なのだが)。
中沢新一は対談の中で、「僕ら(もう一人は浅田彰)が脱領土化をやり過ぎた。壊し過ぎてしまった」と言っていた。そうなのだろうか。
「脱領土化」「解体」をやり過ぎた、のではないと思う。それを徹底できなかったのである。徹底する前に消費された。消費の圧倒的な力と速度に負けたのだ。
すぐに消費される程度の「軽さ」だった、あるいはそう受容されたとも言えるかもしれない。それが「団塊の世代」と一線を画し、70年代の空白を埋めるのに必要な「軽さ」であったにしても。


さまざまなものが薄められ毒を抜かれていく景色を、私も砂かぶりで見てきた。おまえは見ていただけか。もちろん見ていただけではなかった。
10代終わりから20代前半の自分の脳髄(「ポケット」ではない)にトラウマのように焼き付けられた「マイナーで危なそうでクールで強烈な磁場をもったもの」から、私は一生自由ではないだろう。
でも自分の中に、何かを確実に壊し、作り、伝えたという実感はない。ないまま25年余りも悶々とし、過去の遺産を食い潰し、取り返せない時間だけが過ぎた。私の顔にはたぶん何かが延々と堂々巡りした跡が残っている。


香山リカは80年代文化人にラブコールを送っているが、今再びあの頃の「文化的風土」を呼び戻して本当に意味があるのかは疑問だ。政治的(もちろん「左翼」の)メッセージを込めたとしても、元「新人類」のノスタルジーに陥る危険がないか。
「脱領土化」「解体」ですべてはフラットに‥‥とは「スキゾキッズ」の戯言だった。現実の世界はフラットにはならなかったし、「ポストモダン」は到来していない。


バブルの洗礼を受けていない80年代のコアな部分は、違ったかたちに書き換えられるべきだと思う。書き換えられるような「文法」「話法」が必要なのだ。それがどういうものか具体的に述べる能力が私にはないが、わかりやすい「リベラル左派」とは異なる、もっとアクロバティックな話法だと思う(たぶんもうやっている人はいる)。
もっとも香山リカが言うように、体質的に「右」には行けないことはわかりきっている。結局逃げ場はないということだ。最初からなかったんだけれども。
おまえこそいろいろと気づくのが遅過ぎる。


最後に中沢新一香山リカのやりとりから。

中沢 90年代の後半ぐらいから、80年代のいろんなものを腐す、いろんな80年代批判が出てきて、もっともだなと思うことも多かったんですけど、その批判がニューアカ以前の時代まで届いてないから、感情的な反発で終わっちゃってるな、という感想を持ちました。香山さんは言ってみれば80年代の「脱構築原理主義者」なんですよ。でも、原理主義者はそんなに多くない。原理主義は世の中の一割くらいじゃないですか。


香山 そうかなあ。私の弟も原理主義者ですよ。その頃まではアリスとかを聴いていたけど、全部捨ててましたよ。原理主義者なら、テロを起こせばいいのか、「80年代自爆テロ」を(笑)。


なんか楽しそうなんですけど‥‥、80年代的なものを「自爆」と共に葬り去る覚悟がないのだったら、笑いながら語っちゃいけない気がするよ、そういうことは。そのあたりがちょっとひっかかる。
この後、中沢新一が「ぼくも最近はテロリストだなんて言われてて(笑)」と合わせているのだが、私なら真顔で香山リカに訊ねたい。
「"誰"を巻き添えに自爆したいですか?」と。