「処女性」と欲望をめぐって(id:usauraraさんへ)

処女と娼婦と少女に熟女 - 兎美味し蚊の山
usauraraさんが、こないだの記事(女はそこにはいない。女はどこにもいない。)を取り上げて下さっているので、レス代わりにエントリ立てることにします。


まず、現実では処女を賞賛、欲望しなくても、アニメなど虚構の中の若い女性キャラの「純粋さ、一途さ、ひたむきさ」(つまりピュアってことか)を賞賛する言葉としてなぜか「処女性」が使われている、という基本認識は共有ということで、以下。

で、「昔からあるものだからしょうがない」と言うのか、「昔からあるが意識は変わるべきだ」と言うのか。
私は心の中で「しょうがない」とは思うけど、言葉にするなら後者にしておきたいなと思いました。
そう言うと当事者男性からの反撥を招きがちですが、「お前が未熟なせいで〜出来ないんだ」という
ウィンプ叩きの語法に依らず、社会全体の変革という方向で語ると問題意識の共有が可能ではと思うのです。


男性による「処女性」礼賛が昔からあるものだという点について、それはジェンダーの問題なのか、セクシャリティの問題なのか、その両方なのかということがあります。
usauraraさんはジェンダー、つまり男女関係に関するこれまでの社会のあり方や慣習が個人の内面に及ぼす問題であり、ならばアニメキャラに対して見られる「処女性」への欲望も、「社会全体の変革という方向」の中で意識改革できるはずだというご意見ですね。「しょうがない」部分はあるけど、「意識は変わるべきだ」と。


「意識が変わる」とはどういう状態を指すのでしょうか。「処女性」などを求める欲望そのものを抑制する、ということでしょうか。もしそうであれば、それは無理だと思います。欲望そのものはセクシャリティに関わることであり、制御できません。
ここでジェンダーセクシャリティを切り分けることの難しさはありますが、私はセクシャリティにより重点をおいています。このことがたぶん、usauraraさんとの発言上の微妙な差異になっているかと思います。
ちなみに件の記事こちらで批判されました。私のコメントを参照して下さい。

それから冒頭「処女と淫乱の二者択一とは!」とあきれておられた部分ですが
これは両極の象徴として用いられている過ぎないと思いますので、現実の女の実態は
殆どがグレーゾーンにあることが前提されているのではないでしょうか。


ululunさんの記事は、あくまで虚構(アニメ)の中の女のキャラについての話です。私は、「現実の女の実態は殆どがグレーゾーンにあること」くらいは知っているであろう書き手が、アニメキャラの話ではあまりに極端な設定をすることにちょっと驚いたわけです。

難しいのは「フィクションならばこれこれであるが、現実ならばこれこれであるとは考えていない、
二次元と三次元は完全に切り離しがされているのだ」という言説の確かさなんだと思います。


私は(オタク男性の心中を想像してみると)そこに確かさなんかないのではと考えざるをえません。
この場合切り離しがなされているのは「行動」です。
現実にこれを行えばどういう結果になるか、その予測がきちんと出来て抑制をしているとは思います。
しかし欲望は実在と重なり合っている。
[中略失礼]
このように言っても「いや、生モノと消費コンテンツとは全く別物と認識しているのだ!」と
彼らは主張するでしょう。それはほとんどが原初的な己の欲望に無自覚なだけだと私には思えます。
(これは思うだけです。自覚とか無意識下とか言い出せば水掛け論になるので言い争う気はない。)


「欲望は実在と重なり合っている」のですが、「実在」(例えば処女)から都合のいいイメージだけを抜き取った理想化された概念(例えば処女性)に欲望していると言ったほうが、より核心に近いかと思います。
で、女へのこうした概念やイメージ付けをやめろと「言う」ことはできるのですが、実現はほぼ不可能だと思います。いみじくもusauraraさんは「原初的な己の欲望」と言われました。「原初的」であればなおさら無理でしょう。そしてそれは「処女性」に惹かれる種類のオタク男性だけでなく、男性一般という話になるでしょう。
(と言うと、「自分は処女性になど微塵も欲情しない」という男性は出てきそうですが、個々の嗜好の話をし出すとキリがありません。「処女性」礼賛は古くからあるものですし、男性のセクシャリティの中にある一つの根強い傾向としての話です。オタク男性のすべてが、とか、男性のすべてがという話はしてませんので念のため)


欲望そのものについて規制はできません。できるのはせいぜい、「処女性」に対する欲望を、少女の「純粋さ、一途さ、ひたむきさ」を愛でる平和な心であるかのように主張するのは、恥ずかしいと自覚してもらうことくらいだと思います。
なぜ恥ずかしいのか。
いくら処女に「性」をつけて「処女性」と呼び、処女と分けて定義したところで、それはもともと現実の処女に男が求めた「純粋無垢」のイメージ、男の支配欲を喚起する存在のイメージをそのまま引きずっているからです。「純粋無垢」なピュアなものに手をつけてはならないという自制と、それを汚してみたいという欲望とは、表裏一体です。


しかしusauraraさんが記事の最後で指摘されているように、こうした性的に無知で未熟な者を支配したい暴力的な欲望がどこかにあることを、アニメキャラの「処女性」を「純粋さ、一途さ、ひたむきさ」として礼賛する男性は容易に認めようとはしないと思われます。
「萌え」に性欲は決して含まれないという意見も見たことがあります。対象が少女のキャラクターであれば、含まれないはずはないと思うのですが、たぶんそこで自分のセクシャリティの有り様に直面したくないという強い防衛心が働いているのではないかと思っています。


誰だって人に晒したくない、自分でさえあまり直視したくない欲望の一つや二つ、持っています。そもそも性欲そのものが、さまざまな差別意識にまみれています。「暴力性」もそこに刻印されています。それは「処女性」にだけではなく、すべての女性イメージに対する欲望の中に多かれ少なかれあるでしょう。
ただ性の商品化が問題視されるようになったこの社会では、そうした女性への欲望を堂々と開陳すれば顰蹙を買い、下手をすると女性蔑視者と看做されかねないというだけです。
いや、「だけです」と言うのは冷淡な言い方ですね。単なる二次元のファンタジーであっても、欲望である限りは現実とリンクしているのではないかと、セクシャリティの対象物とされた女性が不快に思うのは当然です。そこまで明確に自覚した上で発言している男性は少ない気はしますが。


sho_taさんによれば「処女」も概念でしかなく、女(という概念)への欲望を語ることは「文学史上の永遠のテーマ」です。これについて、「まあそうなんでしょうね」としか私は言えません。だから一部のオタク男性もアニメキャラの「処女性」について語りたがるんでしょうねと。
usauraraさんはこの記事をブックマークしていらっしゃいましたが、どうお考えでしょうか。