考える「負荷」と語りのパフォーマンス

今週から後期の授業が始まった。ほぼ2ヶ月ぶりに、数十人から場合によって数百人の初対面の人々の前で、ジェンダーセクシュアリティを巡るあれこれの話をせねばならないと思うと、授業第一日目の前夜は超緊張。何回繰り返していても、「自分が喋ることについて私はいったい何をどこまで知っているのだろう」という不安が抜け切らない。不安と緊張で不眠になる。


そういう「ちょっとしんどい」状態で講義室に入って喋り出すと、それまで0に近いメモリを指していた気力メーターの針が、一気にプラス方向に振れることにはなっている。喋っているうちに、ジェンダーセクシュアリティについて突然クリアに見渡せた!ということでは全然ないが、そのままマックスに近いところで90分×2を乗り切る。終わるとまた0に近いところまで戻る。たぶん脳内で何か変な化学物質が分泌されているのだろう。
「今日は心身共に絶好調」(そういう時はあまりないが)の場合、語り手特有の妙な全能感に囚われて、いつまにかマックスからレッドゾーンに突入し収拾がつかなくなって焦ったことがあった。気力も体力も充実してやる気まんまんで授業に臨むより、「ちょっとしんどい」くらいでやったほうが、ましな結果になるような気はする。


‥‥という話を予備校講師の夫にしたら、昔のこんな体験を話してくれた。
ある時、彼は出掛けからお腹の調子が悪かった。調子の悪いまま授業に臨み、「うぅ腹痛えよ(汗)」と思いながら必死で気力を振り絞って乗り切った。そしたら授業後、学生に「今日はいつもよりわかりやすかった」と言われたと。
つまり、お腹が痛いせいでいつものようにベラベラとまくしたてることができず、少し間をとったゆっくり気味な喋りになった。それが学生にとっては、普段より丁寧で聞きやすい講義であったらしい。それで、これまではハイペースで詰め込む傾向があったんだなと気づいたわけである。身体的な「負荷」が語りの見直しに繋がったという話。


こんなことも言っていた。
講師になりたての頃は誰でもそうらしいが、あれも喋ろうこれも教えようと綿密な授業計画を練り完璧なノートを作り、それを元にみっちり内容の濃い授業をやったつもりになるものだ。ところが学生は話についていくのに精一杯で、考える暇がない。考えるという「負荷」をかけられないまま時間が過ぎてしまう。講師は思う存分喋り倒したという自分の達成感と満足感ゆえに、学生を置いてきぼりにしていることに気づかない。
準備万端で仕事に臨むほうが、失敗を避ける意味ではもちろんいいに決まっている。けれども、その万全の態勢が、と言うより「万全の態勢ができている」という意識がわずかな慢心となり、脚を掬われることになるのである。
そういうことが私にもあった。むしろノートにメモったことは一旦忘れて、改めてその場で考えながら喋るくらいで丁度良かったりした。


完璧な計画を立てると後はその通りに実行するのみとなるから、そつのないスムースな進行をすることはできる。そつがないということは、進行している側はあまり頭を使わなくて済んでいるということだ。使っているのは、いかに時間内でつつがなく計画通りに終了するかという頭。そうした喋りは、聞いている人の中に「ひっかかり」を生まない。
ひっかかり、つまり聞き手の内の何かが刺激されて自ら考え始める契機は、話者がまさに話しているその最中に、何事かを新たに思考しながら言葉を繰り出しているようだ、という感触から生まれる。
語りのパフォーマンスとは、流暢な喋りや気の効いた小咄やジョークやスッキリするオチではなく、話者が喋りながら、喋っている内容について吟味しつつ脳みそをフル回転させていることが、一つ一つの言葉やフレーズや間合いからビンビンと伝わってくる、ということに尽きる。そうしたパフォーマンス性のない語りは、いくら情報が詰め込まれていても薄っぺらく退屈なものになる(おそらく文章も同じだと思う)。


などということも最近ようやくわかってきたのだが、これを理想的なかたちで実現させるのは難しい。
教室にいる学生の大半は、流暢な喋りや気の効いた小咄やジョークやスッキリするオチといったサービスを期待している。芸術系の大学生にとって一般教養の講義はおよそそのようなものである。私も学生時代そうだったからわかる。他人の語りを通して、考える「負荷」を負うという構えが最初からできている学生は、2割もいない。その2割弱を半期で5割強までもっていくのが目標。
私も「負荷」を負っている。それは、「ジェンダーセクシュアリティについて私はいったい何をどこまで知っているのだろう」という不安だ。不安が語りに「負荷」をかけている時だけ、脳みそのフル回転が促され(変な物質も出て)、幾分はましな話ができているのだろうと思う。