小津「結婚」映画における娘の選択

一ヶ月ほど前の、内田樹の研究室の記事。
『秋日和』と『すーちゃん』


小津安二郎の50年代から60年代の作品でしばしば描かれた、「娘を結婚させる話」についてだった。
小津の映画で娘たちは一様に、周囲の勧めに抗して「まだそんな気になれません」と結婚を先延ばしする。当時も現在と同じような非婚志向はあったかもしれない。が、それを大人たちが「無理押し」して結婚させる「成熟圧」とでも言うべきものが機能していたのだろう(今はそれが失われたが)‥‥という考察。
これを読んで『晩春』以降の小津作品で、娘の結婚話が出てくるものを改めて観直してみた。
以下、「成熟圧」に負けて勧められた縁談を受け入れるのは ○ 、受け入れないのは ● (「娘の結婚」がメインテーマではない作品も含むが、内容要約はそこに絞った)。


○『晩春』(1949)‥‥婚期を逸しかけた娘(原節子)を叔母(杉村春子)が心配し、見合いを勧める。男寡婦の父(笠智衆)は再婚すると嘘をつき、娘を嫁がせようとする。娘は父の再婚話に反発し、見合いを渋るが、最後に父に諭され縁談を受け入れる。
●『麦秋』(1951)‥‥上司からもちかけられた縁談を父(笠智衆)からも勧められる娘(原節子)。一時はその気になりかかるものの、最後はそれを断り、思いを寄せる相手のところに嫁ぐ。
●『お茶漬けの味』(1952)‥‥叔母(小暮実千代)が姪(津島恵子)を見合いさせようとするが、押しつけられるのを嫌がる姪はその場から逃げ出し、叔母の怒りを買う。叔父(佐分利信)を通じて知り合った男性(鶴田浩二)とは仲良くなる。
●『彼岸花』(1958)‥‥父(佐分利信)が娘(有馬稲子)のお見合い話を進めている最中、娘に結婚を約束した相手がいることを知り、激怒。娘は父に反発し関係が悪化するが、最後に父が折れる。サイドストーリーとして父の友人(笠智衆)の娘(久我美子)の駆け落ち話もある。
○『秋日和』(1960)‥‥亡き友人の美しい未亡人(原節子)とその娘(司葉子)をそれぞれ結婚させようと、旧友たち(佐分利信ら)が画策するも、母子ともに積極的でない。娘は一人身になる母を案じ、母の再婚話に反発するが、最後に母に諭され縁談を受け入れる。母は再婚しない。
●『小早川家の秋』(1961)‥‥未亡人の義娘(原節子)を再婚させようと義父(中村鴈治郎)の義弟(加東大介)が縁談をもちかけるが、話が進まない。末娘(司葉子)は見合いの相手がいるものの、札幌に行った大学助教授(宝田明)に思いを寄せている。最後、未亡人は独身を通し、末娘は札幌に行く決心をする。
○『秋刀魚の味』(1962)‥‥男寡婦の父(笠智衆)は友人たちから言われて娘(岩下志麻)に結婚を勧めるが、娘は反発。実は思いを寄せる相手がいたのだが、相手が婚約していたとわかり失恋する。最後、娘は見合いで嫁いでいく。


未婚の娘が最終的に周囲の勧める縁談を受け入れて結婚するのは、『晩春』、『秋日和』、『秋刀魚の味』。
見合い話を断って恋愛結婚を選ぶのは、『麦秋』、『彼岸花』、『小早川家の秋』。「無理押し」の成功率は約50%だ。
『お茶漬けの味』の津島恵子に至っては、お見合いの会場からとんずらして叔父の佐分利信鶴田浩二に遊んでもらっている(バツイチで登場する時の原節子はいずれも再婚話を断っているが、これは初婚と分けて考えるべきかもしれない)。


見合いを勧める大人たちと渋る娘。その間に割り込んで、頑固親父にいっぱい喰らわせたり、強引なおじさんたちを丸め込んだりする「第二の娘」がたまに登場する。『彼岸花』では、京都の旅館の娘で機智に富んだ策略家の山本富士子。『秋日和』ではちゃきちゃきの下町の現代っ子岡田茉莉子
この二作は一連の「結婚」映画の中でもとりわけ面白く、どちらも佐分利信が頑固親父、あるいは強引なおじさん一味の一人として、「第二の娘」に翻弄されている。困っているおじさんの役がよく似合う佐分利信(『お茶漬けの味』でも、妻の姪の見合いすっぽかしを諌めつつ、結局は彼女の肩をもつ立場に立たされてしまい、妻との間が一層険悪になる)。


見合い話は、大抵「上昇婚」である。少しでもいいところに嫁がせたい、娘に経済的な苦労をさせたくないという親心。『彼岸花』で有馬稲子が選んだ佐田啓二はいいとこのぼんではないので、有馬は必死に自分の決意の固さを父に訴える(「私には私の考えがあります!」と)。結局、佐分利信の「娘を結婚させる」という計画は、自分の思惑に反したかたちでしか成就しないのである。
「成熟圧」はあるものの、親の決めた見合い結婚は拒絶する娘と、それに頭を悩ませる親。見合いで結婚した世代の母(田中絹代沢村貞子)が「わたしたちの時代とは違うわねぇ」といった台詞を呟くのが印象に残る。旧世代と新世代のメンタリティや考え方のズレが、小津「結婚」映画の要だ。


だが、そこに通低する結婚観は、笠智衆(父)と原節子(娘)の初共演である『晩春』で既に、笠智衆の口からはっきりと語られている。
見合い相手との結婚を一旦は承諾した娘が、父との最後の旅行で「あたし、このままお父さんといたいの。どこへも行きたくないの。お嫁に行ったってこれ以上の幸せがあるとは、あたしは思えないの」と駄々を捏ね出す。
それに応えて父は、老いた親元を離れて結婚し新しい生活を作っていくのが「歴史の順序」というものだと釘を刺した上で、こう諭す。「そりゃあ結婚したって、初めから幸せじゃないかもしれないさ。結婚したら幸せになれるという考えが、むしろ間違っているんだよ(以下略)」。ここの笠智衆の台詞は『晩春』の中でもっとも長い。
結婚に幸福が保障されているわけではないのだよ。それは二人の努力次第なのだよ。‥‥まったくもって同感ですわ。この作品が作られた1949年(昭和24年)当時は、見合い結婚のほうが圧倒的に多かったが、恋愛結婚でもそれは同じであろう。
恋愛結婚の数が見合い結婚を抜いたのは1966年頃。もしかするとそのあたりから、「結婚して幸せになる」「結婚こそが幸福である」という価値観が強まっていったのかもしれない。