I さんのお墓参り

この間の日曜日、昔の知人 I さんのお墓参りに行った。9年前に51歳で亡くなったので九回忌。でも私が行くのはこれが初めてである。


I さんとは、25歳くらいの頃、高校時代からの友人が彼氏と一緒にやっていた居酒屋で初めて会った。友人は、「こちら、私の大好きなおじさんの一人の I さん」と紹介した。
I さんは立派な額と子どもみたいな目をしていて、黒ぶちの大きな眼鏡にチョビ髭で、昔の西洋の喜劇役者みたいな一目見たら忘れられないユーモラスで暖かい風貌の人だった。私より10歳上だから、まだ30代半ばだったと思う。父親になったばかりで子育てが面白いと言っていた。穏やかな素朴な人柄が、周囲の人に慕われている感じだった。
私は高校時代になぜか「わかめちゃん」という、ここに書くのも恥ずかしい渾名をつけられており、その店でも友人が「わかめちゃん」を連発するので、I さんも最初から私のことを「わかめちゃん」と呼んだ。I さんは、当時友人と私のやっていたおバカバンドのライブにも、ちゃんと律儀に来てくれた。


そんな感じで2年くらい経ったある夏の終わり頃、I さんが、友人と私ともう一人の常連のSさんを、飲みに連れていってくれるという話になった。店を休めることになった友人は「わーい、ダブルデートだ」と喜んだ。ダブルデートって、そういう関係じゃないけども。それはともかく、いつもその店で会うだけだった I さんが、私たちを外に誘ってくれたのは嬉しかった。
行った店は、友人の居酒屋より更に小さいカウンターだけの店だった。客は常連さんばかりらしくとても賑やかで、私たちが座ったらカウンターはほぼ満員になった。元気のいいおばさんが一人で切り盛りしていた。I さんは回りの人に私たちを紹介してくれた。


三人ほど置いた隣に、同年代くらいのあまりパッとしない小柄な眼鏡男子がいて、左右の人の話を同時に聞いているのか落ち着き無くキョロキョロしていた。時々突然スツールから立ち上がり、素っ頓狂なことを言ったり歌謡曲を歌い出したりし、その度回りの人が茶々を入れたり笑ったりする。
売れないお笑い芸人みたいな人だなぁと思って見ていると、友人が私を突つき、「あいつ、なんか面白いよね。ちょっとからかってやろか」と言い出した。私は内心「え〜?」と思ったが、友人は「もしもし、そこの人。そ、あなたのこと。こっち来て飲みません?」とその眼鏡くんに呼びかけた。「え、オレ?」と虚を突かれたような顔をした彼は、回りの人から「呼ばれたぞ。早く行けー」などと言われ、照れたような顔で席を移動してきた。


そこで何を話したのかよく覚えてないが、I さんとSさんの二人は先に帰り、友人は「私、店やってるんだけど、これから一緒に来ない?」と眼鏡くんに言った。ノリのいい人なのか、眼鏡くんは後輩らしい連れの若い男の子と一緒についてきた。店に着いて喋っていて、彼が私と学年が同じで、所属の部署は違うが同じ予備校で働いている非常勤講師だということがわかった。それでしばらく職場の話で盛り上がり、盛り上がったついでに今度またこの店で飲む約束をして別れた。
まさかそのパッとしない眼鏡が、3ヶ月後に自分の夫になるとは、その時は夢にも思っていない。
I さんがあの日、私と友人をあのカウンターの店に連れて行って、そこにたまたま彼がいなければ、私たちはおそらくずっと知り合うことはなかっただろう。


夫は、I さんとは私より古い知り合いだった。それで結婚後も I さんと顔を会わせる機会は時々あったのだが、I さんはやがて大学の数学の先生になり、夫も私も何かと忙しくなって、次第に前ほどは交流がなくなった。昔の知人や友人たちが集まるパーティなどで会うと、I さんはいつもニコニコしながらビール片手に寄って来て、「わかめちゃん、元気か。お酒飲んでる?」と言った。
I さんは肝臓癌で亡くなった。お葬式には、夫だけが行った。その後、特に親しかった友人たちが毎年、命日の近い日曜日にお墓参りに行っていて、夫は一回参加した。でも私は義理を欠いて、ついに一度も行かず仕舞いで過ぎてしまった。


例のカウンターだけの居酒屋は去年近くのビルの中に引っ越し、同じおばさん(もうお婆さん)が切り盛りし同じような顔ぶれが通っているらしかったが、先週夫が行った時に「今年の I さんのお墓参り」の話になった。店から電話をかけてきた夫は言った。
「おまえも誘ったらってみんな言ってるけど、どうする?」
「そうだねぇ、I さんのせいで変な奴と知り合っちゃって、23年も結婚生活を送るはめになりましたって墓前に言ってこないとね」
「おう、墓に向かって恨みツラミを並べろやww」
電話の向こうで何人かゲラゲラ笑っているのが聞こえた。
というわけで、私も初めてお墓参りに参加することになったのである。


I さんのお墓は岐阜県の I さんの実家のすぐ近くにある、こじんまりとした墓地の隅にあった。 I さんの御母堂はまだご健在で、毎日息子の墓に通っているらしく、私たちの行った時は花瓶に活けられたばかりの菊があった。
墓石を水で清め、花を供え、蝋燭に火を点し、順番に線香を上げる。
墓に向かって手を合わせ、「今まで来なくてごめんなさい。私、I さんとほとんど同じ歳になっちゃった。その後もなんとか別れずにやってます。いつまで続くかわからんけどがんばってみるわ」と心の中で言った。