「子育ては義務」を巡っての揉め事を見て

バカがものを考えると大変なことになる件 - 消毒しましょ!
b_say_soの代弁をしてくれた人がいたので何を言いたいのか分かったのだが、まああああこりゃあダメだwww バカは子供なんぞ作らんでよろしいw てゆーか作るなアホwwww - 消毒しましょ!
横にいる女にこのエントリを見せたら終始厳しい顔をして読んでいたのだが、時折むっとしたり哀しげな顔をしたり、はたまた軽蔑したかのような表情を浮かべたわけだw それをニヤニヤしながら観察していたら、キッとこっちを睨んだので、慌てて逃げ出したわけだw - 消毒しましょ!
「育児が義務化されたら大変なことになる」と高らかに宣言しておきながら出産が義務化された場合のことをだらだらシミュレートしているバカがいたのでその誤謬をdisった途端に産みたくても産めないだの育てたくても育てられないだの自分は不幸だのなんだのとキチガイ女二人に絡まれてさあ大変シリーズが始まったわけであるが、鶏肉で何の料理を拵えようかというときに玉子焼き!とか言われても困るんだよ実際wwww - 消毒しましょ!


まだあるがこれだけで充分だ。なぜここまで揉めているのか最初見えにくかったのと、罵倒の応酬(上記記事内で引用されているのでそちらを参照されたし)に怖れ戦いて口を挟むのを遠慮してしまったが、やりとりを読み直してやっと整理できてきたので、今更だが書いておきたい。


まず発端となっているKoshianさんの記事について。
AntiSepticさんは、「出産と養育を混同している」として突っ込んでいたが、ブコメをいくつか見る限りではその意味が通じてないようだった。確かに記事のツッコミ方がちょっとわかりにくい。関連記事を読み直した上での私の読解は以下。


麻生発言=自分語りは明らかに「結婚、出産(とそれに伴う子育て)は国民の義務である」と取れるようなものだったから、本人も失言と気づいてすぐひっこめた。これと、赤木氏の話とは、レイヤーが違う。
赤木氏の元の論理は、「個人が自らの幸福を追求するために子供を産み育てる行為」と「個人が自らの幸福を追求するためにタバコを吸う行為」に大きな違いはない、つまりいずれも趣味であるというもの。この人のこれまでの主張からして、「相手を見つけて結婚できてある程度以上の所得もある人しか子供持てないだろ。子供持つってもはや贅沢なんだよ」と思っているので、それも含めて趣味という言葉を使ったのだろうと思われる(記事の主旨は子育て批判ではなく、過度な嫌煙批判)。
この記事に対しかなりの数のコメントがついたが、その中に「子育ては義務」という意見が幾つかあった。「子育てを趣味だと思ってやれるか。子供を作ったら養育するのは親の義務じゃないか」と。まあ普通の意見である。だがこれは実は、赤木氏への反論になっていない。赤木氏の言っているのは、「子供をもつという選択それ自体が趣味的なものだ」ということだから。
ところが、その反論を受けた赤木氏はインタビューで、「子育てを義務とするのは怖い考え方。それでは自発的ではない行為になるし、責任は親より社会に行ってしまう。趣味の方がより責任をもって行える」と言っている。「子育ては趣味」があまりに大きな反発を受けたために、とりつくろおうとしておかしなことを言っている感じを受けた。「趣味」と「責任」を結びつけるのも何だか不自然だ。
もし何か言うとしたら、「確かに子供を作ったら、育てるのは親の義務になるだろう。しかし子供をもつこと自体は義務ではない。もちたい人がもつのだ。当然、子育てもそこに含まれる。それを指して趣味と言ったわけだから、『(子供を作ったら)子育ては義務』と、違うレイヤーで返されても答えようがない」といったところになるのではないだろうか。


Koshianさんの記事タイトルは「子育てを義務ととらえると大変なことになる件」だが、その内容は実質、麻生発言を念頭に置いた「出産が義務化されたら大変なことになる件」になっていた。「出産と養育を混同している」というより、麻生発言と共に赤木氏の「子育てを義務とするのは怖い考え方」発言にも触れたので、そっちにタイトル(と記述の一部)が引っ張られているように見えた。もしタイトルが「出産が義務化されたら大変なことになる件」で、麻生の発言だけ取り上げていたら、「そんなあり得ない想定などしても無意味では?」という突っ込みしか来なかったように思われる。
AntiSepticさんの記事ではこれ以外に、赤木インタビューでのずれた発言について、「子供を作ったら子育ては趣味ではなく義務」「子育ては愛情をもって為されればいい」という極めて常識的というか凡庸と言ってもいい意見が示されていた。



最初にブコメでb_say_soさんから「同じ穴の狢」(未だに「何と」かは私にはわからない)と書かれたのは、AntiSepticさんのコメント欄の発言の方だった。先にhygienicさんの発言から引用する。
http://d.hatena.ne.jp/AntiSeptic/20090517/p2#c1242551988

hygienic うーん。子育ての負担が重く感じられ過ぎて、いざとなったら安心してぶん投げれるようにならないかなぁ、とは思ってしまう。現実にぶん投げるような人間にはなりたくないとも思うけど、そういう思いは親に育児を放棄された子供への過剰な同情と偏見につながりそうだとも思う。(私だけかもしれない)


AntiSeptic どこにぶん投げるのだ。国営の施設でも作るのか。税率上がるぞ。そこでは誰が働くのだ。暇になった主婦か。だったら最初から自分で育てろ。ぶん投げられた子供の気持ちはどうなるのだ。一生のトラウマだ。日本では血縁幻想が強いから、父母の育てられた子供とそうでない子供との間に一種の階級が生じるぞ。そろそろ一生DINKSで行くか作るかの決め時だな。ひとつだけ言えるのは、出来てしまえば、ネットでぐだぐだ言っているような暇はなくなる、ということだ。いい意味でも悪い意味でも。


hygienicさんは記事の主旨とはずれて、子育てを巡る現実の状況について語りたかったのかもしれないが、これだけでは具体的な問題まではわからない。
それはさておき、現在既にある児童養護施設に子供が引き取られるケースとして考えられるのは、親が死んだか蒸発してしまったか、障碍者になったり養育が困難なほどの精神的、身体的疾患を患ったか、極度の経済的困窮(生活保護や児童福祉手当の受給が適用されることが多いかもしれないが)か、育児放棄や虐待していることが警察に通報されてソーシャルワーカーが介入したといったことであろう。
夫が育児に協力的でないとか、仕事と育児の両立がしんどいとか、食べていけないことはないが経済的に余裕がないとか、子供のことを愛せないといった理由で、扶養、及び養育の放棄が認められることは難しいだろうと思う。
つまり親に生じた問題によって子供の心身の健康が著しく損なわれることになったり、生命の危機に晒されていることが周囲に認識されない限り、親子はなかなか分離されないのである。それがこの社会における親と子の基本的な関係である。もし「国営の施設」を作ったとしても、その点については同じだと思われる。


で、”問題”のAntiSepticさんの発言。
仮に各市町村に国営の児童養護施設ができれば税率が上がることは予測されるが、親の養育放棄を原因とした税率アップについて国民的合意を得るのは大変だろう。そこの職員として子育ての手が離れた専業主婦の人が当てにされることも予測はできるが、これも論議を呼ぶだろう。‥‥といった懸念が含意されている。もちろん、そんな「国営の施設」を作らねばならない状況(=あちこちで親が養育放棄する/せざるを得ないような状況)は好ましくない、という前提で書かれているのは明らかである。
その後に書かれているのは、「血縁幻想」とそれに伴う差別があることの指摘である。事実認識としてはそう間違っていないと思う。要は、「子供が深い傷を負い、差別に遭うような環境に、簡単にぶん投げられるのか?」と問うているわけである。
これは「差別の再生産」になるのだろうか。そう読み取る人もいるだろうし、読み取らない人もいるだろう、としか私には言えない。読み手の意識によって変わる箇所である。
それ以前にこのコメントは、hygienicさんの発言の「いざとなったら」の「いざ」を、親に生じた問題によって子供の心身の健康が著しく損なわれたり生命の危機に晒されるようなところまでは行かない程度のものとして受け取っていたから出てきたはずである。もし「いざ」がその先まで行っていたら、親が「安心してぶん投げる」どころか、無理矢理にでも親子を隔離し子供を保護すべきなのは当然と考えられるからである。
いずれにしても、AntiSepticさんのコメントの中にある基本的な考え方とは、「子供をもつ/もたないという選択は自由である。しかし子供を作ったら養育するのは親の義務である。そのくらい、子供を作るとは重大な責任を負うことであり、その自覚を問われることでなくてはならない」という、一般的な共通認識として了解されているようなことになろう。


では、それがなぜ批判の対象になるのだろうか。
現在、「子育ての負担が重く感じられ過ぎて」いる傾向はあるし、よく問題にもされる。例えば教育費に金がかかり過ぎて家計を圧迫しているとか、教育費以前の貧困問題があるとか、男性の育児参加が立ち遅れているとか、子育ての責任が母親だけに押し付けられがちだとか、育児に悩む母親が孤立しがちであるとか、女性の仕事と育児の両立が困難な状況がまだあるとか、親が養育放棄するに至る過程には社会構造的な問題も関与しているとか、親権に阻まれてそこでの子供の救出、保護が遅れがちだとか。
それらは個別にあるいは連関して解決されていくべき問題である。引用したやりとりではそこまで細かい話は出ていなかったが、もし出たとすれば、「じゃあ解決するにはどうしたらいいと思う?政治に働きかけたり周囲の意識改革を促していくしかないよね」という結論になるはずだ(それに近いことは後の方の記事で書かれている)。


つまり、一方に親の養育義務があり、一方に子供を作り自分で育てたいという願いがあるのなら、「いざとなったら安心してぶん投げられるよう」な公的機関を夢想する以前に、「ぶん投げ」なくても自分で最初から安心して育てられるような公的私的な環境整備がどうやったら実現するのかを考える方が、順序として先だということである。
子供をもちたいのに「子育ての負担が重く感じられ過ぎる」のであれば、子供をもつのを諦めるか、子育てにとってより良い状況を作るべく(産む前からでも産んだ後からでも)公的私的に動いていくかの、どちらかしかない。でなければ、「子供は社会の財産だから産まれたら一律親から引き離して、公的機関で皆平等に養育すべき」という意見を主張するか。親が養育放棄せざるを得ない状況を良くないと思ったり、親に虐待されたり養育放棄される子供を生み出したくなかったら、事実上この三つしか選択肢はない。
そうしたことを具体的に書かずに、子供を作る前から「いざとなったら安心してぶん投げられるようにならないかなぁ」と言えば、素朴に、最初からそんな考え方でいいの?との反応を呼ぶのは普通ではないだろうか。だから「ぶん投げてどうするのだ」「だったら最初から自分で育てろ」となったのである。
以上のような文脈で私はこのやりとりを読んだのだが、一方で、男性が女性にそういう発言をしているという発言者の性別に、過敏に反応する人はいるかもしれないとは思った。で、実際いた。



「(前略)世間にあふれる「子育ては義務」は産んでない人間は関係ないのではなく「産んで育てろ」という圧力であり 育てる義務の大きさに産む段階で躊躇しているから政治家が勘違いのウケ狙いしてくるんだと思ってましたが。」とのletterdustさんのコメントがあった。
なぜ突然「世間にあふれる「子育ては義務」」の話になるのかわからなかったが、それは作っておいて自分の身勝手で養育放棄する親に向けられる言葉であって、産んでない人間に「産んで育てろ」というものではないはずである。またAntiSepticさんの言う「子育ては義務」は、「子供を作ったら養育するのは親の義務」という原則論であって、麻生の漏らした言葉の真意「親になるのは人の義務」ではない。
確かに、「結婚して子供を作りなさい」「結婚したんだから早く産みなさい」「人は親になって一人前」は今だ抑圧的な言葉として存在するし、それを内面化している政治家がたまに「勘違いのウケ狙い」したりする。が、だからといってこの時代にどれだけの人がその「圧力」に負けて、結婚したくもないのに結婚し、子供が欲しくないのに産んだりするだろうか。かつてあった圧力=社会規範が今は幾分薄れてきているという認識を私はもっているが、それは間違っているのだろうか。


「育てる義務の大きさ」というのも、言葉としてわからない。育てる義務は基本的には親にあるのであって、大きいも小さいもない。「育てる責任の大きさ」「育てる負担の大きさ」なら理解できるし、それによって子供をもつことを「躊躇」する気持ちもわかるつもりだ。未来は予測できない以上、経済問題から仕事との両立から夫の育児参加、子供を愛することができるだろうかといったことまで、不安は際限なく生まれてくる。
そして、現実問題として親に養育の遂行が不可能になれば、社会が育てる仕組みになっている。その仕組みがうまく機能していないということなら、やはり「じゃあ解決するにはどうしたらいいと思う?(以下略)」という話になる。
出産は奨励されているのだから、その結果生じる子育ての責任や負担の半分は社会にあるはずなのに、保障や補助があまりに不十分だということであっても、やはり「じゃあ解決するには(以下略)」という話になる。


しかし、この記事及び先のコメントでAntiSepticさんの言っているのは、そうした「出産や子育てを巡る状況論」ではない。「親には養育義務があるという原則論」なのである。それはあくまで原則であって、「親がいさえすれば子供は幸せなのだから、どんな状況であっても、親から子供を引き離すべきではない」などという主張はされていない。
そこに、「世間には「産んで育てろ」という圧力がある」「育てる義務の大きさ」といった観点をぶつけても、レイヤーが違うのだから噛み合うはずがない。


もし原則論を言い募る姿勢に、規範を振りかざして現実に起こっている問題を等閑視する保守的かつ抑圧的態度を見て批判したいのなら、「女性が子育てを『ぶん投げ』たくなる要因について、考察したことがあるか。それが親の身勝手だけには還元できない、貧困や父親の育児不参加などの問題によって母親が追いつめられた結果である可能性について、考えたことがあるか。それらのすべてが親の自己責任で、個人で解決しなければならない問題だと思うか。もしそうでなければ、施設出身の子供に差別があることを理由に『だったら最初から自分で育てろ』と言うのは、いささか乱暴な物言いではないか。そうした発言がどういう効果をもつのか考えたことはないか」といったところから具体的に始めるべきだろう。なんか典型的な指摘の仕方だが仕方がない。
そこに論点を絞らないから、別のところでつまらない揚げ足を取られ、やたらバカを連発したツッコミを返されるのである。ただ、この記事もツッコミどころが今一つわかりにくい。話のレイヤーがこのように違ってるよと言えば済むことだ(後の記事で書いていたが)。


一連の記事の中でAntiSepticさんの言っていることは結局、「子育ては親の義務」と「子育てを巡る状況について問題があるなら、具体的な解決策を探すべきだ」という二つである。別に面白くも何ともない、誰でも言える平凡な意見である。結婚と子育てについての記事を書いた時、突っ込まれて議論したことがあるので、この人はこの件については現実的且つ常識的なこと以上のことは言わないなという感じがしている。またそれ以外でも、基本的にコンサバティブな志向という印象だ。
今回の揉め事を離れて考えれば、批判者の現状を憂える気持ちや(一部の)男性への不信は理解できるし、「出産や子育てを巡って女の立たされた状況は、男にはなかなか理解されないだろうな」という諦観は、子供のいない私も少なからず持っている。更には、政策担当者でもないのだから、不満を吐露したり怒りを表したりするだけでもいいではないかとも思う。少なくとも私は「愚痴を垂れるな」とまでは言えない。
AntiSepticさんの批判者は、「おまえら男は出産も育児も他人事なんだよ」「現状を変える気も金を払う気もないうえに、自分の利権だけは手放そうとしない」(論証がなんだあほかよ - 牛蒡)、「見たいものしかみない保守ジジイ」「絶対善の体言者にでもなったつもりか?」(馬鹿はどっちだwwww - 国語の成績が悪い)などと、お決まりの無責任で無自覚な男性像を相手に当てはめて非難していた。
こうした点から、一連の応酬が「保守的な男性の発言に潜む無責任さと偏見に、敏感な女性が怒った」というよくある構図にしか見えなかった人は多かったかもしれない。しかし丁寧に読めば、議論のレイヤー、論点が最初から食い違ったままヒートアップしているのである。



というわけで実はここからが書きにくいところだが、最終的に、なぜ二人の批判者がそれぞれのブログやブコメで、あそこまで激烈に反応したのだろうかということである。その理由は、AntiSepticさんの(二人を批判した)一連の記事の「理屈」ではなく「罵倒」の方に、批判者が強く反応したからではないかと思う。
なぜなら、AntiSepticさんの記事に対して、分析し陥穽を突き論理で返して叩きのめすということが行われていないからだ。返されているのは、その理由が論理的に明らかにされていない非難と罵倒と皮肉と嘲笑(と自分語り)である。それで返すということは、相手の批判記事に、非難と罵倒と皮肉と嘲笑だけを見ていたからではないか(理屈ではなく)。それがあまりに強烈だったから、毒をもって毒を制す式に、さらに強烈な言葉で返さざるを得なかったような感じに見える。


こういうケースは、AntiSepticさんの記事への反応で、これまで何回か見てきた。罵倒記事に罵倒混じりで返した場合、反論として成立していないことが多かったように思う。それは書き手が罵倒されて感情的になっているからである。
もちろん公然と罵倒されるのは、大変厭なものだ。そこにwがつくともっと厭だ。ちょっと気に喰わない記事や発言への罵倒を傍から見ているのは痛快でも、それが自分に向いてきたらムカつくのは当たり前だ。
しかしそのムカつきに呑み込まれてしまうと、論点を押さえることができなくなり、相手の思う壺になるのである。もう水を得た魚のように細かな記述の矛盾やら何やらに逐一突っ込んできて、書き手の心理まで残酷に暴きたてようとするであろうことは、これまでの記事から目に見えているし、実際そうなった。
AntiSepticさんの記事は罵倒とwが多いから、一見感情が剥き出しになっているように見えるが、そこにあるのはほとんど理屈だけである。私から見ると罵倒表現なんかおまけだ。理屈にはそれを上回る冷徹な理屈で返さねばならない。説得力はそこにしか生まれない。
私もちょっと感情的になりやすい質だから、自戒を込めて書いておく。



●追記(ブコメの幾つかにお返事します。追加があるかも)

id:KoshianX ちげーよ。子育て中断の原因なんて様々だろ。病気したり死んだりすることだってある。その時の子供のケアは不十分なんじゃねーの、って話だろ

「って話」なのですか、この揉め事の肝は。それ以前の問題だということを指摘していたのですが。

id:WhiteMute ”こういうケースは、AntiSepticさんの記事への反応で、これまで何回か見てきた” じゃあ書き方が悪いんじゃないかなー。まあケンカふっかけて勝ちたいわけだから、むしろ誤解させたいんだろうけど

罵倒ぶりがすごいなと思ったことはありますが、「誤解させて」「勝ちたい」ということはいくら何でもないでしょう。

id:complex_cat 罵倒芸風自体は個人の勝手だしそれにも多様性あるが,そこまでして論議しにくくなる表現をわざと使う意図がどこにあるのか,ここまでの第三者の解説が必要(ご本人も要請してた)な状況を思うとよく分からなくなる。

「議論しにくくなる表現をわざと使っている」とは思わないです。というかそれってどういうのですか? また、解説を要請はされていません(突然名前は出されたけど)。

id:letterdust 「虐待」を入れるなら精神的理由で育てられないで福祉を頼るのはありだと思うけど。さすがに普段他人にセクハラだセクシストだイチャモンつけてる人が「差別されるよ」って言い方どーよ?も論点に入れてください。

(前半)育児ノイローゼとかですね。「あり」だと思います。(後半)ご自分でエントリ立ててなさったらいいと思います。レッツトライ。

id:pollyanna 感情に訴える書き方で注目を集めて、感情に基づいた反駁を受けたら「感情的(悪い意味で)」と非難するのはヨクナイ。逆撫でされた感情を論理で解きほぐす負担を、感情を害された側に押しつけるのは不当な気がします

「感情に訴える」(罵倒とか)だけを見て、指摘の内容について答えや批判を返さず反発や罵倒だけしたら、それは「感情的」になると思います。元の記事に罵倒表現しかないのだったらそれでもいいですけど。

id:chazuke 理屈「だけ」で片がつくように思われている点で間違いがあるような。私はネットが「言葉しかない世界」とは思わないし。

理屈を言っているのだからまず理屈で返さないと議論にはならないということです。理屈「だけ」ではない大切なものがあるのなら、そのことを内容に即して丁寧に言わないと伝わらない。

id:funa07 どうして消毒さんは伝わりにくい表現を使おうと思うのだろう。相手への逃げ道を提供?あえて敷居を設けて負荷を課してる?それともなにか伝達性を犠牲にしても穏やかに書きたくない理由があるんでしょうか?

「伝わりにくい表現を使おう」とはまったく思ってないでしょう。今回は細かく突っ込みすぎてわかりにくい箇所があったように思いましたが、いつもはクリアでわかりやすいし、あれだけの罵倒を使いながら内容の伝達性も高いと思います。

id:tari-G いや、「ひどい罵倒しかできない頭の弱い保守オヤジ」への罵倒として「レイヤー」は完全に噛み合っていたでしょ。|このテーマで家父長制といった論点自体スルーなのもちょっと疑問。

「ひどい罵倒しかできない頭の弱い保守オヤジ」という価値判断の元に罵倒しているだけなら、レイヤーの噛み合いもクソもないでしょう。少なくとも相手の発言を分析して「ひどい罵倒しかできない頭の弱い保守オヤジ」と言える根拠を客観的に述べねば(それは非常に不十分だったと思う)。|記述が長かったので誤解されている方が多いのですが、この記事のテーマは育児問題(家父長制と関連)ではありません。

id:keijis 「理屈にはそれを上回る冷徹な理屈で返さねばならない。」、今回の件では確かにやるならもっと理詰めでやる必要があった点では同意だけど、方や理屈好きな大野氏ならできるかもしれないけどさと穿っても見てしまう。

「冷徹な」ってのはちょっと大袈裟だった感じもしているのですが、要は文脈を把握し論点を確かめながら丁寧に読むだけです。その程度の労力も掛けないで突っ込みなどできないです。今回の件では、あの角度からいくら理詰めで書いても「そんな話はしていない」で突っぱねられたとは思いますが。