「お上よ、もっとエロを規制してくれ!」とエロメディアの作り手が言ってたりする

ここ数週間、エロゲ*1規制問題関連記事を毎日のように目にしている。何か書こうかなと思って見ているうちに、もうほとんど論点が出尽くしてしまっていて、まだ議論が継続中のところはあるものの、「もういいか」という気になっている今日この頃(今月末に出る本では、今回の件と関係の深いことを書いていますので興味のある方は是非)。


私の入っているジェンダースタディーズ系のMLでも、「レイプレイ」がイギリスの国会で問題にされたことやイクオリティ・ナウが声明文を出したこと、山谷えり子自民党議員が規制すべきといった発言をしたこと、『世界日報』がそれに追随していること他、関連情報は出ていたが、特にそれで何か議論が始まったわけでもなく。
国内のフェミニストジェンダー論者の間では、「エロゲを初めとしたポルノに女性差別あるいは蔑視的視点があるのは改めて指摘するまでもないことだが、法的規制には反対、あるいは慎重に」といった空気が支配的であるように思った。
いずれにせよ、「過激な性教育」批判や伝統的家族の賞揚といった言説の「反動」ぶりで名高い山谷えり子以下の保守派の主張に、フェミニストがそのまま組みすることができないのは自明だろう。


この問題で幾度か名前の上がっている反ポルノの論客であるキャサリン・マッキノンが主張していたのは、「男女の権力関係がセックスの様態に反映されており、そこでは男性が求め男性の関心をそそる表現や感じ方がスタンダードとなる」ということだった。その例として、女性が強姦されて快感を覚えているように描かれたポルノグラフィが挙げられ、それが現実の女性蔑視、女性差別を強化しているとされる。
マッキノンの考えに従えば、現実のジェンダーが解消された時に「男女平等」なセックスが誕生することになるが、それが具体的にどういうものになるのかはっきり示したものを私は読んだことはない。マッキノンに対しては、フェミニズム内でも異論は多いようだ(特に若い世代のフェミニストは、マッキノンやドウォーキンを「保守的」「禁欲的」として批判している)。
このあたりのアメリカでの事情はこちらの記事で少しわかる。
フェミニズムにおけるポルノグラフィ否定論と肯定論の意外な近さ - macska dot org
一応、マッキノン擁護のテキストも(少し古いもの)。
キャサリン・マッキノンの擁護


ざっと見たところでは、女性差別という点については「国家に検閲や規制を委ねるのではなく、対象の批評、批判を通してさまざまな議論を喚起していくべき」という"リベラル"な意見が目立ったように思う。
その批評の中には、流通するポルノを多様に読み替えていく試みも含まれるだろう。例えばどれだけ猥褻な描写があろうと、「それ以外の多様な読み」の可能性に向かって開かれている(とされる)文学作品のように。文学を持ち出さなくても、もちろんマンガでもいい。


で、湧き起こった疑問。
巷で「使用」されているエロゲには、そうした「多様な読み」がどれだけ可能なのだろうか。
例えばエロゲファンの人で、ただ抜くためだけに「使用」するのではなく、作品としていかに工夫が凝らされているかとか、エロ以外のノイズがいかに散りばめられているかとか、従来のエロ描写に対してどんな違いがあるかとか、それがエロの豊かさにどう貢献しているかとか、そういった批評的な読みをする人はどのくらいの割合でいるのだろうか。
またそれが、どれだけ言語化され、エロゲファン以外の人に(も)向かって発せられているのだろうか。


amazonのサイトで18禁ゲームのレビューを読むと、確かに批評的なことが書いてあったりはする。しかしそれは、そのゲームを購入しやってみないと確認できない。つまり、小説やマンガを読む人口(まではいかなくてもそれ)に近いくらいの人々がエロゲを楽しんで初めて、「対象の批評、批判を通してさまざまな議論を喚起していく」ことができると言える。しかしエロゲはそこまでの市民権を得ていないようにも見える。
世間一般の認識は、「女の人がレイプされる場面があって、それ見て興奮するんでしょ。やだやだ」とか「そんなもん規制したっていいんじゃね?」くらいのものかもしれない。ならば、「女性差別的な視点が……」などと言わなくても、「青少年の健全な育成にとって多大な弊害がある」とか「性犯罪を助長する怖れがある」といった、大衆にとってわかりやすい言葉でもって、一挙に規制強化に向いていく可能性は高いだろう。
これに対して、「性表現を社会の中でどう取り扱うか、どのように位置づけるか」というふうに問題を立てるのか、「それ以前の表現、流通の自由」として問題を立てるのかでも、論じるベクトルは微妙に違ってくる。ただ「批評だの議論の喚起などはどうでもいい、ただ貴重な娯楽を奪わないでほしい(業界の人なら生活手段を奪わないでほしい)」という要求だけでは、おそらく太刀打ちできない。


ちょっと前に、『エロの敵 今、アダルトメディアに起こりつつあること』(安田理央雨宮まみ翔泳社、2006)という本を読んだ。エロメディアの変遷について、一貫して送り手の立場から流れを詳細に追ったものである。

初期のエロメディアにはさまざまなカルチャーが混在しており、それが消費者の求めに応じて徐々にエロ一本になっていく様子から、児童ポルノ規制、ネットの影響までが、主に紙媒体を中心としてエロ業界を見て来た人の目から語られている。私はエロ雑誌の購読者ではなかったが、『SMスナイパー』や『写真時代』はよく覚えているので、かつてのエロメディアの百花繚乱ぶりとその後の変容については興味深く読んだ。


このあとがき「エロの敵はどこにいるのか?」に、「ケータイバンディッツ」(ミリオン出版、2006年9月号)に掲載された座談会が紹介されていた。漫画家の江川達也、ライター/AV監督のラッシャーみよし、AV監督の村西とおる、エロティックVシネマ監督の中野貴雄、筆者の安田理央の5人が、エロ雑誌について語り合うという記事の引用である。見出しは「お上よ、もっとエロを規制してくれ!」。

‥‥‥ではエロメディア復活のためにはどうしたらいいんでしょうか?
みよし「もっと規制をしていくとか? 逃げ場つくっておけばその方向に進んでいくからね」
安田 「だから今、唯一の規制に近いのがロリータでしょう。だから逆に求心力を持っちゃって、ロリ人口が増えてるんじゃないかな」
江川 「そうそう、だから規制はもっとガンガンすべき。日本人はビミョーなクリエイティビティがあるからね。そこからきっと何かを編み出すよ」
みよし「正常位以外禁止とか。たぶんすごい正常位が生まれますよ」
村西 「乳首は禁止とかもナイスですね〜」
中野 「(笑)みんなにヤマンバメイクをさせて素顔をわかんないようにするとか」
江川 「平安時代みたいに顔すら見せないとか」
‥‥‥もはやエロ本規制の話どころじゃないじゃないですか!
江川 「ムチャクチャなこと言ってますけど(笑)、とにかくそういった規制が想像力を生むんですよ。だからこれからはお上の規制に期待しましょう」


エロゲ規制反対派の人が怒り出しそうな内容かもしれないが、エロ飽食時代においてエロの価値暴落を懸念する先行世代の、一周回った韜晦の言葉だろうと思った。少なくともこの本の書き手は、エロがどこにでもあり、いつでも手に入るありふれたものとなってしまうことで、「価値」を失うだろうという考え方を示している。
エロとは抑圧、制限されて初めて強力かつ純粋に発現するものだという、ある意味古典的な美意識。ポルノを社会の中に極めてマイナーなものとして位置づけた上で、隙間を縫うように表現や流通の自由を模索していく(今までもそうだったから)ということのようだ。
ここには、ポルノに女性差別を指摘する言説との全面対決、あるいはそれからの批評や批判を、巧妙に回避しようとする無意識の計算があるような気がしないでもない。

*1:流通している言葉がエロゲなのかエロゲーなのかよくわからないけど、ここではエロゲで。