マイケルの被り物

仕事が休みのお昼前、何気なくテレビをつけたら、マイケル・ジャクソン死去のニュースが飛び込んできた。50歳。同い歳だ。合掌。


マイケル・ジャクソンは私にとってはまず、MTVの人だった。1984年、日本で深夜に放映されるようになったMTVを、当時バンドをやっていた私はしょっちゅう見ていて、そこでマドンナもカルチャー・クラブシンディー・ローパーマイケル・ジャクソンも知った。聴くのと同時に「見る音楽」としてあった、あの当時の欧米のポップ・ミュージック。
マイケルの鼻が徐々に小さくなっていき、肌が徐々に白くなっていった時、あれだけ成功したのに「白人になれない黒人」というコンプレックスにそれほど苛まれていたのかなとも思った。五年前に書いたある記事の終わりでマイケルの顔について触れたので引用。

顔とのつき合い方を踏み外したために、常軌を逸してしまったマイケルの顔。どう見ても、白人になり損ねたのは確かだが、年齢も性別も不祥になってしまった顔。
なぜそこまでになったかということはいろいろ言われているが、一番はっきりしていることは、マイケルが圧倒的に写真に撮られる側の人だということだ。写真写りはスターにとって、自分はスターだという認識を持続させるために欠かすことのできないような鏡。その自惚れ鏡の中から、彼は出られなくなってしまったのだろうと思う。


その鏡に映っていたのは、全盛期の途方もないエネルギーを発散させていたスーパースターではない。かといって歳相応に円熟した大物歌手でもない。若く美しくあろうと異常な努力と改造を重ね、誰も到達できない斜め上の方向に行ってしまった異形の人だ。でもそれで正しかったんだと思う。
この10年ほど、たまにメディアで見るマイケル・ジャクソンは、分厚い被り物を被っているようであった。その被り物の下に素顔はなかったのだろう。