ジジェクの『羅生門』分析について(AntiSepticさんへの私信)

私信の前に:下記リンク先(含コメ欄)を読み黒澤明監督の『羅生門』をご覧になった方(できればジジェクの『ラカンはこう読め!』も)以外には、何が書かれているのかわかりにくい内容であることを最初にお断りしておきます。またジジェクのテキストについての私の認識や書き方に、誤謬や不備などあれば指摘して頂けると有り難いです。


『ラカンはこう読め!』の日本語版序文にある『羅生門』解説の一部が疑問な件 - Ohnoblog2
まあだヤカンで湯を沸かしていたんスすか大野さん - 消毒しましょ!
いやぁ、映画ってほんっとうにいいもんですねw - 消毒しましょ!


AntiSepticさんへ
安易に「規範」を使ったのは良くなかったですし、自分のコメントもそれに引っ張られていたところがあるので、再度一から説明し直します。
とりあえず「規範」=<大文字の他者>、象徴的契約という認識は外して下さい。<大文字の他者>はまず、語りのパフォーマティヴなレベルに現れます。これを語られた物語内容のレベルと一緒くたに説明をしたのも、混乱の元だったようです。
改めて書くと、ジジェクのこの本では<大文字の他者>とは何か、それがいかにして現れるかが重要なテーマの一つとなっており、冒頭の『羅生門』もそのためのネタです。登場人物の言動から文学的なテーマを解き明かすようなことが目標とされているわけではありません。

語りのパフォーマティヴなレベルで現れる<大文字の他者>について

当事者三者の話はそれぞれ、「自分だけが知っているのではなく、(当事者の)皆が知っている」こととして話されています。こうした語りの内に想定されているのが、<大文字の他者>=仮想的な「わたしたち」あるいは「みんな」です。文脈によって「神さま」が代入されることもあります。
観客から見ると、語り手が変わるに従って物語の差異が加算され、<大文字の他者>の共通基盤は崩壊していきます。最後に四番目の語りによって、つまり三者が知っていて隠していた最も身も蓋もない醜い事実が実際に話されることによって、彼らが<大文字の他者>を信じているふりをしていたことが明らかになります。


我々の日常のコミュニケーションによくあるのはこうした振る舞いである、というのがジジェクの指摘のポイントです。つまり物事を「自分だけが知っているのではなく、皆が知っている」暗黙の了解事項として話し、本当のことはあまりにも身も蓋もないので言わない約束になっている、そのようにして<大文字の他者>は仮想的に維持されているということです。それが「文化」というものの極端な現れだとジジェクは書いています。


映画では、三人の前で第四話の語りが行われそれが真実であると認定されたわけではありません。しかし、ジジェクは第一から第四までの話を、ある出来事を抑圧しようとして(なかったふりをし自我を防衛して)現れたさまざまな症候と、その後遡及的に見出されるトラウマという、精神分析の過程に当てはめて考えているのではないかと思います。
三人の話があたかも現実に起こったことのように再現されること、三者がそれぞれ自分の話(及び「わたしたち」や「みんな」)を信じているかの如く振る舞っていること、これはいかに防衛形成が完璧であったかということを表しているようです。もしかしたら三人は、自分の話が真実であると本当に信じて話していたかもしれません。
いや普通の解釈では、体面や保身のために嘘をついているということになると思いますよ。しかしそれぞれの心的現実の中では、実際にあった出来事があまりに醜いものであったがゆえに、自分のナルシシズムを満足させる幻想にとって替わっていた。そちらの方が「真実」となっていた。と見ることも可能です。少なくとも、そういう見方が精神分析的読みだと私は捉えています。
では、なぜその出来事は三者にとってそこまで外傷的であったのか、について次に。

語られた物語の順番について

元記事では引用していませんが、四つの物語をジジェクは、レヴィ=ストロース的な意味での神話の母型の四つのヴァージョンだと書いています。人類学者レヴィ=ストロースは様々な部族や神話の収集研究の中で、共同体(親族)の基本構造を女の交換だとしました。四つの物語は、男性間で女という財が一方から一方へ移動する話、つまり「女を巡る男同士の闘い」というパターンのヴァリエーションと看做せます。


さらに、「語られる順番」には意味があるとジジェクは言います。つまり四つの話は単にある事実についての異なる反復ではなく、なにかの推移が描かれているということです。これは精神分析的見方である以前に、映画というメディアの特質を意識したある意味当たり前の見方です。
フラッシュバックや同じ出来事の語り直しがいくらあろうと、映画の物語の時間そのものは不可逆的です。シーンの展開、シークエンスの順序は、見る者の心理に何らかの効果を生むことを期待されて積み重ねられていきます。従って最初の盗賊の話と次の妻の話、武士の話をそれぞれ独立した並列可能な「点」として捉えることはできません。それは一本の不可逆的な「線」と見るべきです。


ジジェクはその線に、「男の権威の弱体化と女の欲望の前面化」が表われていると書いています。言い換えると、「象徴秩序の弱体化と享楽の前面化」です。象徴秩序は<大文字の他者>が機能するところです。また享楽とは、快感原則を越えた痛みに近い非常に強度の高い経験のことです。「女の欲望」の根原にあるのは他者の享楽と言い、自他の境界を曖昧にしようとするものとされていますが、ここでは大雑把に象徴秩序以前の規範も道徳もない剥き出しの欲望と考えていいと思います。
「女を巡る男同士の闘い」という観点から見ると、後になるほど、男の振る舞いからは所謂「男らしさの規範」が減じ迷いが見られるようになり、女の振る舞いはずうずうしく気まぐれで挑発的になっていきます。
もちろんそれらのすべてに自己の保身のための計算を見ることもできますが、最初の話から順に見ていくと徐々に互いの利害や感情が複雑に絡み合い、明らかに印象が様変わりしています。悪党だが堂々としていた盗賊は意気地なしに、倫理を重んじていた武士は俗物に、男の権威を尊重していた妻は自分勝手な女に。それぞれ<大文字の他者>から見てあってはならない振る舞いをしていました。
これは精神分析的に読むと、個人の象徴秩序への参入過程を逆に辿っているようにも見えます。ジジェクがそう書いているわけではないですが。


以上です。
読み返すとまるで三流大学の学生の作文で、何故私がジジェクのテキストを面白いと思っているのか伝わっている自信がありませんが、書けば書くほど重要な何かを取り逃がしていく気がするので、これでやめます。
ラカンを援用してジジェクの書いていることは、いい意味でもっといかがわしくてエロくてパフォーマティヴです(下ネタも多いですが論理展開が)。後はどうか実際に本を当たって確認して頂ければと思います。



羅生門』は閉塞的な状況における人間関係とその心理があまりによく描かれているために、どうしても観察がそちらの細部に引っ張られてしまい、いきなり前知識もなしに<大文字の他者>について理解する例としては少し難しい気がしますので、最後にジジェクが度々出す有名な小咄を紹介しておきます。


「自分のことを穀物のタネであると信じている男が精神病院に連れてこられる。医師たちの懸命の努力で彼は治癒し(自分はタネではなく人間であることを信じられるようになり)退院する。しかし彼はすぐに恐怖に震えながら病院に戻ってくる。医師は彼に『いいかい、君はタネではなく人間なんだ。知っているだろ?』と言い聞かせる。元患者は答える。『もちろん私は知ってますよ。でも、ニワトリはそれを知っているでしょうか?』」
彼は<大文字の他者>なき世界を独りで生きているのです。



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