ヒーローなき時代の暴力と絶望と「父」の現れ - 『グラン・トリノ』と『ノーカントリー』

この10年くらい劇場で新作映画を観る習慣がほとんどなくなってしまい、もっぱらレンタルDVDのお世話になっている。最近見たDVDの中から、近年の話題作二本。『グラン・トリノ』(2008、監督:クリント・イーストウッド)、『ノーカントリー』(2007、監督:ジョエル・コーエンイーサン・コーエン)。

グラン・トリノ [DVD]

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ノーカントリー スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD]

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いずれの作品も、テーマは暴力である。アメリカ映画の定番とも言えるテーマ。暴力に否応なく巻き込まれる人と、助けようとする人が描かれる。巻き込まれる人は若く、助けようとする人は年老いている。
そうした共通点を除くと、この二つの作品は実に対照的だ。「希望vs絶望」と言っていいくらい対照的。個人的には、最近一番泣かずにはいられなかったのが『グラン・トリノ』で、一番怖かったのが『ノーカントリー』。同じく暴力を描いて一年違いだが非常に評価の高かった作品の、異なる世界観が興味深いので比較してみる。

「父」から「息子」へ ・・・ 『グラン・トリノ

あらすじ紹介(ネタバレあり)。
朝鮮戦争の退役軍人で妻に先立たれた元自動車整備工の老人ウォルト・コワルスキー(クリント・イーストウッド)は、自分の住んでいる地域にアジア系移民が増えてきたことを苦々しく思う典型的なアメリカの人種差別主義者であり、「古き良き時代」の保守的な価値観と生活スタイルを崩そうとしない頑固者である。
ウォルトは、所有するヴィンテンジカー(グラン・トリノ)を、ギャングの少年達にそそのかされて盗もうとした隣のモン族の少年タオを銃で威嚇して追い払うが、少年達(こちらは黒人)に絡まれていたタオの姉スーを助けたことから家族に感謝され、その暖かい人情に触れて、これまで敬遠していた隣家の移民達との交流が始まる。


ウォルトはタオにさまざまな仕事を教えて一人前にしようとし、タオもウォルトを頼り慕うようになる。独立した実の息子達に疎まれているウォルトと父親のいないタオは、言わば疑似父子である。その有様を快く思わないモン族の少年ギャング達はタオに暴力的な嫌がらせをし、怒ったウォルトが報復した結果、タオの家には銃弾が撃ち込まれスーは集団暴行を受ける。
自身の「正義」の怒りが最悪の事態を招いたことを知ったウォルトはついに、自らギャング達の銃撃を浴びることによって彼らを法の裁きに委ねるという賭けに出る。彼の死をもってそれは「成功」し、愛車グラン・トリノはウォルトの遺言により、実の家族ではなく「息子」のタオに譲られる。
「目には目を」式に理不尽な暴力に徹底抗戦でもって応じた「ダーティ・ハリー」のヒロイズムから30年、イーストウッドは丸腰で銃の前に立つ勇気によって暴力の連鎖に決着を付けようとする老いたヒーローを演じた。


この映画のメッセージについてよく指摘されたのは、「テロとの闘い」という「正義」を掲げつつ暴力の連鎖を引き起こしているアメリカ=ブッシュ政権(当時)への、批判が込められているということである。確かに人種差別主義者で好戦的だったウォルトの「闘わない」という選択によって招かれた死(他殺だが実質自殺に近い)は、イラクのみならずアメリカという国が蹂躙してきた非白人に対するアメリカ白人の「贖罪」を示唆していると見ることは可能だ。
物語の中でスーがウォルトに説明するように、モン族はベトナム戦争アメリカ側につき、停戦後アメリカに移住してきた人々である。他のアジア系移民と同様アメリカでの彼らの境遇は厳しく、白人を敵視する貧しいギャングの少年達の荒みっぷりは、根強い人種差別と貧困から生まれたものだと言える。ポーランド系移民を祖先に持ち生涯ブルーカラーだったウォルトは、決して裕福ではないがその社会構造を維持してきた側に属している。だから彼はモン族の少年達に撃たれる理由はあっても、撃つことはできないのだ。


一方でウォルトは、「息子」や「娘」を暴力から守らないわけにはいかない。なぜなら彼は「父」だから。「父」として振る舞った以上、その責任は果たさねばならないからだ。こうして、「父」の立場を重んじる老人は、身を投げ出して「息子」たちの最後の盾になる。
ミリオンダラー・ベイビー』でもそうだったように、イーストウッドは古典的な「父」の倫理を貫徹する。それは崇高な行いとして感動的に描かれ、エンドロールと共にイーストウッド自身の歌が静かに流れる美しいラストシーンは、「父」の価値観が血の繋がっていない「息子」に引き継がれたことを示している。

「父」の不在 ・・・『ノーカントリー

ノーカントリー』(原題:No Country for Old Men)は、これとは逆のことを描いている(以下ネタバレあり)。
時代は1980年。凶悪化する犯罪を憂える年老いた保安官エドトム・ベルトミー・リー・ジョーンズ)のモノローグから始まる。ベルの父もその父も保安官だった。昔は拳銃なんか携帯しなくても良かったと。
次いで、かなりエグいタッチで描かれる殺し屋アントン・シガーの連続殺人。彼がこの血まみれのサスペンスで一貫して、暴力=恐怖と悪の象徴として登場するであろうことが、この冒頭の場面で強く印象づけられる。
場面は一転し、荒野で狩りをしていた元ベトナム帰還兵のルウェリン・モスは偶然、マフィアの麻薬取引に絡む殺人現場を目撃し、札束の詰まったブリーフケースを持ち逃げする。モスはどこにでもいる極普通の小悪党だ。にも関わらず帰宅後、一人瀕死の状態で水を求めていたメキシコ人のことが気になり、つい水のタンクを持って現場に戻ったところをマフィア一味に見つけられ、やっと逃げおおせたものの、その後マフィアに雇われたシガーに執拗に追われることになる。


物語は、追うシガーと逃げつつ応戦しようとするモスの息詰まるような攻防戦を中心に進んで行く。常人には不可解なルールを踏襲しつつ殺戮を一切躊躇わないシガーの不気味な存在感は圧倒的で、保安官ベルはすっかり脇に押しやられており、モスとシガーの闘いの行く末にのみ、観客の関心が集中するような演出である。
ところが、妻と落ち合うはずのモーテルで、モスはメキシコマフィアにあっさり殺される。モスの妻カーラと交わした夫の身の安全を保証するという約束を果たせず、状況にすっかりついていけなくなったベルは、半身不随の元保安官エリスを訪ね、引退を決意する。一人残されたカーラを殺害したシガーは、直後に偶然交通事故を起こし、腕に重傷を負ったままその場から消える。引退したベルが家で妻に、父親の夢を見たと話しているシーンを最後に、唐突な感じで映画は終わる。
殺伐としたバッドテイストが特色のコーエン兄弟の作品の中でも特にブラックな後味で、同じく警官(婦人だが)が事件を追う『ファーゴ』のような"解決"を期待するとまったく当てが外れる。


伝統と規範と正義を重んじる実直で古風な人間という点で、ベルはウォルトと似たメンタリティを持っているように思われる。彼は職務を忠実に果たそうとし、顔見知りだったモスに対してなんとか保護者たる「父」たらんとする。だがその努力はまったく実らない。モスは深い痛手を負いつつベルの庇護は求めないし、殺人鬼シガーには悪運がついて回る。さらには息子ほど年の違う部下との間にも、世代差ゆえのズレが生じている。『グラン・トリノ』にあったような、さまざまな壁を越えた人間関係の深まりはここにはない。
繰り返される無軌道で無造作な凶悪犯罪に、ベルは世の中が変わってしまったと憂い、自分には力が足りないと嘆くが、元保安官エリスは「もともと暴力的なこの国では何も止められない。変えられると思うのは思い上がりだ」と嗜める。
つまり状況はあまりにも絶望的であり、原題『No Country for Old Men』が示すように、ベルがウォルトのような威厳ある「父」として振る舞える場所はどこにもないのである。


だからベルは、冒頭でかつての「父の時代」を息子として回想し、ラストシーンで「死んだ父の出て来た夢」を息子の立場から語るのだ。見ている者はモスとシガーの緊迫した攻防に気を取られるが、この物語の肝は老いた保安官ベルを通して確認される「父」の不在にある。
ベルが見た夢は二つあり、若い頃の父にお金をもらったが無くしてしまうという短い夢。もう一つは、山道を馬に乗って顔を伏せた父が自分を追い越して行く、きっと先で父は焚き火をして自分を待っているだろうと思ったというものである。
前の夢は、父の時代に受け継いだ価値観は通用しなくなったというベルの世代の喪失感を表している。後の夢についてはさまざまな解釈が出ているが、原作の小説に沿った読みを示したノーカントリーの結末の夢の意味 - ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記では、「とうに死んだ父親が先に着いて待っている場所とはあの世で、彼が歩み続ける雪の山道とはこの人生である」としている。
この夢は、非情な現実に対するベルの無力感と、人生への諦観の現れだ。


シガーがアメリカの抱える暴力性そのものだとすれば、ベルの無力さは、アメリカの掲げる「正義」の敗北を意味している。シガーに毅然とした態度を取ったモスの妻(つまり「娘」)さえ犠牲にしてしまい、本来ならベルの世代が「正義」を伝授すべきような少年が、善意からシガーの逃亡を助けてしまう皮肉な場面には、その敗北の深さと状況の混迷ぶりが現れている。
結局ベルが帰ってくるのは、家=自分の妻の元である。今朝見た夢を語る夫を優しく見つめる妻の目は、まるで母親だ。暴力をコントロールできず「父」にもなれないまま「母」の懐に帰還する男。失われた「古き良き時代」を回想し、やがて来る自分の「死」を予感している男。設定80年の物語を2007年当時の実感を込めてコーエン兄弟が描いているのは、衰退していくアメリカの姿である。



悪を糾弾し善と正義を押し進めて物事を解決し、平和と秩序を取り戻す偉大な「父」の役割は、誰も担えなくなった。そうした物語がリアリティを失っていることは、ハリウッドの娯楽作品であるバットマン・シリーズ『ダークナイト』(2008)で、ジョーカーが完璧に主役化し、しかも魅力的に描かれていた点からも伺える。『ノーカントリー』もその現実認識の中にある作品であり、"解決"を回避したからこそ評価されたのだと思う。


これに対して、「父」の役割はあると愚直に提言しているのが、『グラン・トリノ』である。
但しそれは、正義感に燃える強い男が敵を叩きのめして勝利を収めるとか、知と権威の象徴が正しい判断を下して事態を収拾するというような、理想的なかたちでは実現しない。偶然関係ができてしまった成り行き上で、思いがけなく自分が果たすべき真の役割を見出した男の取りうる、唯一倫理的な、だが奇跡的な行動としてしか描かれない。その点に、『ノーカントリー』のこれ以上はない閉塞感を通過した『グラン・トリノ』の説得力がある。


暴力の連鎖や繰り返される悲劇に対して、誰も直接の責任を取ることはできないことになっている。暴力を生き延びさせる構造の一端を私たちが支えているからと言って、じゃあどうしたらいいのか? 私たちはあまりに無力であり、自己の生活を防衛していくだけで精一杯ではないかと。
ベルが手をこまねき諦めた状況に対して、無謀にも「責任は自分が取る」としたのがウォルトの行動倫理である。もちろんそれは見方を変えれば、おせっかいというものだ。ウォルトが隣人のために犠牲にならねばならない理由はどこにもない。
だからこそ、「父」の名は無理にも呼び出される必要があったのだ。