「男ってやっぱり朝出て晩帰ってくるようにできてんのね。よその奥さんは旦那さんが留守だと気楽でいいって喜んでるの。私、不思議だったけどわかったわ」

「晩のおかずは何だい?」
「晩は未定です」
「なにかご馳走して頂けますか?」
(間)
「あ、そうだ、薬飲むの忘れた」
(間)
「散歩に行こうか。それとも‥‥‥しかしもう遅いな」
「でも○○(聞き取れず)か井の頭くらいなら」
「子供みたいだな、いい歳して」
「いいじゃないの」
「君のところにいくらある?」
「もう厭。日曜のたんびに」
「16、17、18、19‥‥ふむ、行くんなら朝飯食ってすぐ支度して出かけるようでなくちゃ。前の晩に決めといて」
「そうよ、どこならどこ行くって」
(間)
「川上さんとこいらしたらどう?」
「もう行きたくないよ」
「行ってらっしゃいよ」
「行かないよ」
「ねえ!」
「しつっこいなあ。さっき君はなんて言った?『川上さん川上さんて、毎日社で顔合わせてるっつぅのに何だってそう恋しがるんでしょうね、日曜くらいうちにいらしたって損はないでしょ、なんのために私がこうしてるんです』、そう言ったね」
「それがどうしたの?」
「どうもしないさ。問題はなんのためにおまえがこうしてるかってことだよ」
「あら、こうしてちゃいけないの?」
「こうしているにもこうしていようがあるじゃないか。俺が新聞を読む。おまえは編み物をし始める。俺が溜息をつく。お前も溜息をつく。俺があくびをする。おまえもあくびをする。俺が‥‥」
「だから私がどっか行きましょって言えば、あなたは何とかかんとか言って」
「よしそれはわかった。だが俺たちは日曜にどっか行くために夫婦になったわけじゃあるまい。もう少しうちにいたって陽気な生活ができるはずだ」
「あなたが話をなさらないからよ」
「話?どんな話がある」
「話はするものよ。あるもんじゃないわ」
「なんだそれは。哲学か。よし、話はするものとしておこう。おまえだって話をしないじゃないか」
「煩いっておっしゃるからよ」
「新聞読んでる時に喋るからさ」
「うそ。寝てからだって」
「眠いからさ」
(間)
「あーあ、これがたまの日曜か。(新聞をめくる)君ねぇ、料理の献立切り抜くなら僕が見ちゃってからにしてくれよ。感じ悪いなぁ」
「忘れちゃうんですもの。だってもうご覧になったんでしょ?」
「滅多に作りもしないくせに」
「あら、予算がみんなオーバーするからだわ。グリンピース一壜だって一番ちっちゃいの35円よ。二人で17円50銭ですもの、ピースだけに使っちゃったら。鮭の切り身にしたら15円でお釣りがくるじゃない」



面白がって長々と書き起こしたが、現代の会話ではない。今から53年ほど前の、原節子佐野周二のやりとり。成瀬巳喜男の映画『驟雨』(1956)の出だし部分である。
言葉遣いがところどころ時代っぽいのと最後のお金の単位を別にすると、今の夫婦の会話と考えてもあまり違和感がない。お互い面と向き合うわけでもなく日常の動作をこなしながらの、やや刺々しいが大した中身のない微妙にズレた言い合いのための言い合い。それを通して、結婚四年目、子供なしのサラリーマン夫婦の倦怠した空気がリアルに伝わってくる。*1
この後、夫は一人で出かけることになり、その背中に向かって妻は、「男ってやっぱり朝出て晩帰ってくるようにできてんのね。よその奥さんは旦那さんが留守だと気楽でいいって喜んでるの。私、不思議だったけどわかったわ」と憎まれ口を叩くのだ。


この原節子小津安二郎の映画での"永遠の処女"風味から比べると、生活感たっぷりでおしゃべりでサバけているが頑固で、女の嫌らしさもチラッと見えて、近親感を覚えることこの上ない。
新婚旅行から帰ったばかりの姪が訪ねてきて夫への細かい不満をぶちまけるのに、「男ってのはそういうものなのよ」と余裕の先輩風を吹かせる一方、そこに帰宅した自分の夫が「しかし男っていうものは‥‥」と姪の夫の代弁を始めると、今度は無闇に苛ついて、さっき聞いた姪の夫の悪口を尾ひれをつけて(半分以上は自分の夫への不満を込めて)大袈裟に言い立てるところも面白い。


田舎から上京し新興住宅地に小さな家を構え、痛む胃を抱えて毎日満員電車に揺られる夫。専業で、つましい生活に漠然とした不満を蓄積させる妻。まだ一般家庭に電話もテレビもない昭和30年代初頭の、高度経済成長期に突入していく直前の家庭の風景である。*2
隣に引っ越してきた歳の差夫婦、よその家の靴や帽子をくわえてきてしまう野良犬、ざーます言葉の近所の重役夫人と奥さん達、口煩い幼稚園園長、夫の会社で始まるリストラ、まとまらない町内懇親会、突如として持ち上がる別居話。
平凡に見える結婚生活の日常が、いかに多くの瑣末で煩わしい出来事から成り立っているかが、さまざまなエピソードの積み重ねで淡々と、時にユーモラスに描かれる。夫婦はたまに険悪な空気を漂わせながらも、決定的な破局には至らないままで物語は終わる。小道具に紙風船の使われたラストが素晴らしい。コミカルだが突き放すようなビターな味わいのこのシーンで、全体がピリッと引き締まっている。
成瀬巳喜男作品は『浮雲』と『めし』しか観たことがなかったが、近くのレンタルビデオ店にかなりまとめて置いてあったので、これから順番に借りていく予定。


ところで、ちょっと気になったこと。
原節子が隣の奥さんと商店街を歩いていると、映画館から出てきた重役夫人らと出会う。路地の奥に見えている映画館は「世田谷文化」となっていて、上映映画の看板に見えるのは「ゴリラ」という字。
‥‥なんてゆう映画でしょ。と思い、1955〜56年頃に公開された「ゴリラ」がタイトルにつく映画を調べてみると、『ゴリラの復讐』というハリウッド映画と、『獣人ゴリラ』というメキシコの怪奇映画と、『漫才学校 第三部 ゴリラ大暴れ』という邦画があることはわかったのだが、今見た映画について、奥様たちは以下のような会話を交わしているのだ。 
「あなたたちも見ていらしたらいいわ。とっても泣けますわねぇ」
「ええ、わたくしも」
「実際ね、ああいうことってあるわね」
「ええもうあなた、子供に頼れない世の中になってきましたざんすわねぇ」
「本当よ、なんのために子供を苦労して育てるのかわかんなくなってきますわよ。子供には逃げられ夫には浮気をされ、ほんとに可哀相」
ちょっと奥様、「ゴリラ」なんとかってのはほんとにそんな映画でしたの? 気になって何度か戻して確認した結果、「ゴリラ」看板の隣に別の看板がチラリと映っていたので、そっちの方だと思われる。タイトルはわからない。
成瀬巳喜男はセット撮影にこだわった人らしいが、あの商店街も一部だけ見える映画館もすべてセットだろうか。どうだか私にはわからないけれども、気取ったざーます奥様の背後にあたかも偶然のように写っている「ゴリラ」の文字に、監督の悪戯気を感じた。

*1:夫が16、17と指折り数を数えるところは意味がわからなかった。それにしてもこれだけ会話が続けば、あながち倦怠夫婦でもないかもしれない。

*2:当たり前だが、『ALWAYS 三丁目の夕日』みたいなノスタルジー映画などより、成瀬巳喜男小津安二郎の撮った昭和30年代のホームドラマの方が何倍もリアルで面白い。