過去ログを読みながら

ブログを書いている人は、自分の過去ログを読み返したりするのだろうか。それとも、書いたら書きっぱなしで読まない人の方が多いのだろうか。
私は時々読み返す。「これはちょっと物足りなかった」とか「この時だから書けたのか」とか「うわぁ‥‥(汗」などと思いながら読んでいると、軽く1時間くらいは経っている。


読んでいて気づくのは、関心のあることについての自分の考えは、既にほとんど書いてしまっているということだ。だから似たようなことをまた書いた場合、微修正はあっても、大筋で言いたいことは大して変わらないことになる。
すると、人の記事を読んで何か書こうとした時、「そう言えばこれに関しては前に書いてるな」と思い出し、当該記事に飛んで確認し、「うーん‥‥これ以上言うことは、もう今更そんなにないか」と諦めたりする。最近、ちょっと諦めが早くなっている。


プロフェッショナルな人は、同じことを言葉を変え言い方を変え、手を替え品を替えて書き続ける。
たとえば内田樹は、ほとんど同じような内容を何度も何度も、同じようなレトリックを使って書いている。教育論にしても家族論にしても、(細かい内容はともかく)その語りはもう馴染みの古典落語を聞いているような安定感。そして古典落語と同じく、何度同じようなことを書いてもそれなりに読ませる技術を身につけている。
‥‥おそらくこういうことではないかと思う。言いたいことは最終的に一つだけで良い(というか、幾つもあったら軸がぶれてしまう)。それについての引き出し、あるいは小咄が五つあれば、一つのテーマにつき、五通りの記事を書くことができる。五つを上手く組み合わせたり、他のテーマと結びつけたりすれば、かなりたくさんのそれぞれちょっとずつ違う記事を書くことができる。
内田樹はそういうことに非常に習熟している書き手だと思う。ほとんどマシーンである。


以前、友人には、あなたの文章は志の低い堕落した立場としての「女」(あえてポジティブな意味で)に自分を置いているのはいいとして、葛藤の痛々しさを伝える努力が幾分足りないと感じる時がある、と言われた。肝心のところで結構あっさり味なのは、私の弱点だ。
女が書く「女」についてのブログ記事は多くが、ヒステリーか自分語りかフェミニズム啓蒙記事(全部ヒステリーの一種か)になる。ヒステリーは"仕様"だから仕方ないが、よほど読ませる技術をもっている場合を除いては、悪い意味で文章がマシーン化する。そういうつまらない記事を書いて、後悔したことがある。
痛々しさを突き抜けて、いつか笑いに至りたい。