大阪府の障害者支援のアート事業がよくわからない件

ラピュタ模倣で最優秀賞取り消し…大阪府主催の公募展:社会:スポーツ報知


短いので全文掲載。

 障害がある人が創作した現代アートを展示する大阪府主催の公募展で最優秀賞を受けた絵画が、宮崎駿監督の映画「天空の城ラピュタ」のキャラクターの模倣であることが10日、分かった。府は受賞者からの辞退の申し出を受け、同日審査結果を取り消した。
 賞を取り消されたのは、大阪府東大阪市の女性(26)が制作した「降りそそぐ光」。数ミリ四方に裁断した布をモザイク状に張った作品で、高い評価を得ていた。
 大阪府障がい福祉室自立支援課によると、1月下旬の審査後、府職員から「『ラピュタ』のロボット兵に似ている」と指摘があり、同課は「ラピュタ」を制作したスタジオジブリに照会。今月3日、電話で「著作物の複製にあたる」との回答があった。
 連絡を受けた女性は「ジブリが大好きなので、モチーフにした」と模倣を認め、受賞を辞退。悪意はなく「著作権について知ることができた。今後の創作に生かしたい」と話したという。
 公募展は、才能を持つ障害者がプロになる可能性を探る府の初めての試み。791点の応募があり、69点を展示作品に選出。最終審査は美術館館長や美術大の教授計3人が担当した。1人が「似ているのでは」と話題にしたが、問題視されずに授賞が決まった。
 同課は「著作権を侵害する作品は応募できないという注意書きを要項に入れていなかった。再発防止のため対策を考えたい」と話している。


掲載されている画像(追記:作品画像はこちらでした→「ラピュタのロボット兵に似てる」現代アート、最優秀賞取り消し…大阪府主催の公募展 - (´A`)<咳をしてもゆとり)を見ると、10人中9人は「あ、宮崎アニメの‥‥」と思うようなよく知られたモチーフ。わざわざ照会すればジブリの方も「著作物の複製」だと言わざるを得ないだろう。これがミッキーマウスだったら‥‥と考えたらわかりそうなものである。*1
しかも何らかの意図や「悪意」(場合によっては批評精神とも言う)が背景にあってあえて誰でも知っているようなモチーフを使うシミュレーショニズムでもなければ、パロディでもない。もしそういう"確信犯"であったら、これを受賞させたことにはいくらかのニュース性も出てくるだろうが、単に「ジブリが大好きなので」という素朴な理由だ。


もちろん既製のモチーフを使って何かを作ることは、悪いことではない。ただそれを「アート作品」として公開するのであれば、著作権法に抵触することもあるという話である。
絵の好きな人が好きなものを好きに描いているうち、なんか出来がいいし周りが褒めるからもっと人に見せたくなって、近くの市民ギャラリーを借りて発表してみた‥‥というような展覧会には、「これ、著作権的にヤバいかな」というものがたまにある。
今回の人もおそらくそういう感じだろうし、著作権について知らなかったのは仕方のないことだと思う。ただそれを通した審査員は、やっぱりちょっとどうなのと思われるだろう。


最終審査をした「美術館館長や美術大の教授計3人」とは誰だろうと思い調べてみると、大阪府のこんなページがあった。


アートフォーラム「現代アートの世界に輝く新星たち」を開催します


トークセッションの出演者として名前がある三氏が、最終審査員だと思われる。いずれも、現代アート業界で知らなかったらモグリと言われるくらい著名な人々だ。なんでこんな初歩的なミスをしたのかな。
たとえば、もしこれが「障害がある人が創作した現代アートを展示する」公募展ではなく、国際的な現代アート展の審査だったら、後から簡単に指摘が出るような脇の甘い審査をしただろうか。既製の○○と似ているという審査中に出た意見を看過せず、もっと厳密にやったんじゃないかなという気がして仕方がない。
つまり、もともと「障害がある人が創作した現代アート」というものを評価すること自体の特殊性があって、その隙間で今回のようなことが起こったのではないかということだ。


先のアートフォーラムのページでも「障がいのある人」と書かれているが、それが精神的障害のある人を指しているのか、それ以外の障害者も含まれるのかは判然としない。いずれにしても「障害がある人が創作した現代アート」はアウトサイダー・アートが念頭に置かれていると思われるので、以下ちょっとその簡単な説明を。


アウトサイダー・アートとは、正規の美術教育を受けておらず、またアーティストとしての専門家意識や知識をもたない人が、自発的に創作した物を指す。古いところでは、フランスの郵便配達夫が毎日石ころを拾っては積み上げ、何十年もかかって作った「シュバルの迷宮」が有名だ。精神病院での芸術療法の産物がアートとして日の目を浴びるようになったことから、精神に障害のある人の創作物もアウトサイダー・アートに含まれている。*2
アウトサイダー・アートというカテゴリーが作られたのは20世紀の半ばだが、90年代の初め頃から盛んにあちこちで取り上げられ、展覧会が開催されるようになった。アート業界の活性化のためにも、それは必然的な流れだった。死後に特異な妄想世界絵巻が大量に発見され、一躍世界的に有名になったヘンリー・ダーガーのもてはやされぶりは、記憶に新しい。
大阪府が、昔からいる創作活動をする障害のある人々のことを「現代アートの世界に輝く新星たち」とまで派手に持ち上げるのも、こうした背景がある。


アウトサイダー・アーティストとは、アート業界で名を成したいという世俗的欲望とは離れたところで、絵を描いたりものを作ったりすることによって自己の世界を構築したり、内的充実や精神の安定を得たりしている人々だから、そこでは当然、「気になるもの」や「大好きなもの」を描くことも盛んに行われる。*3
それが既製のモチーフであろうがなかろうが関係ない。大切なのは、それを描きたい(あるいは描かずにいられない)という当人の切実な欲求を満たすことだから。
そういう日々の極めて個人的な営みを、作品を評価する形式に乗せて外部から優劣をつけ判断、評価し公にしようとする点に、まずなんか無理があるような気はする。


そもそも現代アートの評価軸というものが、一律に決まっているわけでないという状況が一方にある。それでも、多くの現代アート作品には、何らかの企みなりコンテクストなりを読み込むことが可能である。その新しさと手法のマッチング具合を競っているようなものだ。
しかしアウトサイダー・アートにはそういう見方が通用しないから、評価の観点は勢い極めて感覚的な要素に限定されやすくなる。
たとえば、「膨大に手間ひまがかかっている」とか、「異常に描写やタッチが細かい」とか、逆に「とにかく筆遣いや構図が大胆」とか、「とにかく色使いがビビッドで斬新」とか、逆に「色使いがものすごく繊細できれい」とかいったこと。そういうなんらかの"過剰さ"は、アウトサイダー・アートというジャンルが注目されるポイントでもある。


当該作品は「数ミリ四方に裁断した布をモザイク状に張った作品で、高い評価を得ていた」そうで、画像から見る限り、超手間ひま+超細かい+繊細系の合わせ技である。布のテクスチャーと色使いで、テキスタイルのような面白い効果も出ていたのかもしれない。
障害のある人が、自己の表現意欲に突き動かされ、毎日毎日こつこつしちめんどくさい作業を几帳面にやり続けて、繊細な色合いで統一された一つの作品を完成させたその執念。ケタ外れのその情熱。すごいなぁ‥‥。普通の人にはできないなぁ‥‥。モチーフがジブリのアレに似てる? そんなことたいしたことじゃないじゃないか‥‥。
作品を前に、審査員の人々がそういう気持ちに流されたとしても不思議ではない。というか、「障害のある人の創った現代アート」に対して、こういうプリミティブな感心の仕方以外に、何があるだろうか。


ここで「著作権法に触れる」という基準を持ち出すのは、展覧会である以上、やむを得ないことである。であるが、なんかそういうのは無粋というかさ、そんなルールの全然関係ないところであの人達は創作してるんだよね。「大好きだから」使ったっていうシンプルな世界なんだよね。そういう屈託のないところも、アウトサイダー・アートのいいところであって。ダーガーが今生きてたら、あの妄想世界にペニスの生えたナウシカをいっぱい登場させたかもしれないよ。いやだからこれを大目に見ようという話ではないんだけど‥‥。
受賞辞退を前に、審査員の人々はこんな煮え切らない気持ちになったのではないだろうか。としたらそれは、アウトサイダー・アートの非常にプライベートなあり方と、それを審査し優れたものを「現代アート」として流通させようとすることの間の微妙な齟齬に起因しているのではないだろうか。


それにしても、「著作権について知ることができた。今後の創作に生かしたい」というとても素直なコメントをしたその女性は、内心どういう気持ちだったんだろうということが気になる。
大好きなモチーフを使って楽しく創作することが大切なのか、著作権を考慮しつつ作品を発表して評価を得、プロになることが大切なのか。後者を選ぶのであればその人は既にアウトサイダーではなく、普通にアーティスト志向ということになるだろう。
この展覧会があまり発表の機会のない障害のある人々の創作の励みになるのなら良いことだと思う反面、彼女の中で矛盾が生じ、引き裂かれて悩むようなことにならなければいいなぁと思った。



ところで大阪府の障害者支援事業の一環であるこのアート事業について、先のアートフォーラム「現代アートの世界に輝く新星たち」を開催しますの冒頭には、こう書かれている。

 近年、障がいのある方々が創作する創造性豊かな作品が芸術的に評価され、注目を集めています。
 大阪府では、障がいのある方々がもつ芸術的才能に着目し、その作品を現代美術として評価することとあわせ、作品を展示・流通させることで、その収益を作者である本人に還元し、就労支援につなげていくための公民協働のシステム構築が重要であると考え、平成20年10月から各分野の専門家の方々による「アートを活かした障がい者の就労支援に関する提言」をいただきました。
 本年度は、この提言を受け、具体的な事業実施を図るため、「アートを活かした障がい者の就労支援事業企画委員会」を設置し、議論を進めています。


詳しい施策の書かれたところが見当たらないので、公募展をすること以外にはどうやって作品を流通させ、収益を上げるのか、どう「アートを活かした障がい者の就労支援」につなげていくのか、よくわからない。
当たり前のことだが、アウトサイダー・アートが社会的に評価されているということと、個々の作品が実際に商品として流通するかどうかということとは、まったく別の話である。いくら障害者のアートが注目されていると言っても、その手になる創作物であればすべて芸術的な価値があるわけではない。
普通のギャラリストはよほど「宝の山」だと直感しない限り、先の読みにくいアウトサイダー・アートにはなかなか手を出さないのではないかと思うし、これまでも「現代アート」として評価され、尚かつギャラリーが扱いマーケットに乗ったような作品は、全体のごく一部である。つまり「本人に還元」されるものもごく一部に、ということになる。


(障害のない)アーティストでも、その才能や技能だけで食べていくことはなかなか難しい。20年その業界の片隅にいた私から見れば、アートとはもともと「就労」ということからもっとも遠いヤクザな世界だ。
たとえば、普通のアート公募展で大賞を取れば、どこかのギャラリーが注目し、個展が企画され、作品がいくつか売れるということはあり得る。だがそれで直ちに生活が成り立つわけではない。生計のために他の仕事に就くのが普通だ。
同じように、障害者のアート公募展を大阪府が主催して、受賞者にどこかのギャラリーが注目し、個展が企画され、作品がいくつか売れるということはあるかもしれないが、それでその人が「就労」したとは言わない。


アウトサイダー・アーティストとしてかなり成功したと言えるジミー大西は、吉本興業が完全に企画戦略を立てて体制固めをしていた。*4 芸能人だから特別だったとしても、もともとアーティストという意識を持たなかった人が一人前のプロになるのには、きめ細かいバックアップを必要とするはずである。
「公民協働のシステム構築」とは、具体的にどういうバックアップ体制なのだろう。公募展で受賞した障害者の作品を、民間の施設やギャラリーが積極的に買い取るということだろうか。1、2回ではなく継続的にでないと、「就労支援」にならないだろう。


この展覧会の公募の呼びかけ文も、同じようなことが書いてあるが具体性がない。


「現代アートの世界に輝く新星」発掘プロジェクト!

 大阪府では、障がいのある方々が創作される想像性豊かな、芸術性に溢れる絵画等の作品を「現代アート」として評価し、これをマーケットにつなげていくことによって 、その収益を作者である障がい者の方々に還元できるようなシステムの構築を目指しています。


「想像性豊か」? 普通、「想像力豊か」か「創造性豊か」では‥‥ということは措くとして、

 障がいのある方々の創作活動は、楽しみながら豊かな心をはぐくむことができ、生きがい作りや自己実現にも資するなど、自立と社会参加のために大きな役割を担っています。


「生きがい作りや自己実現にも資する」ことと「自立と社会参加」との関係が不明だ。表面的な美辞麗句が並んでいる印象。

 ※障がいのある方々が創作される作品を、「アール・ブリュット」あるいは「アウトサイダーアート」といったカテゴリーに含め、社会に普及させようという取り組みが広がりをみせていますが、これらの定義は障がいのある方々捜索するアートのすべてを含むものではなく、また二本にはこれを専門に扱うマーケットも存在しないことから、このプロジェクトはこれらを「現代アート」として捉えることにしています。


「捜索する」は「創作する」、「二本」は「日本」の間違いか(ここまでミスがあると、まともに取り組むつもりなのか疑いたくなってくる)。
文章もなんかおかしい。誰かから注目され評価された作品がアウトサイダー・アートとして世間に紹介されるのであって(これは普通のアートでも同じ)、障害のある人が創作する作品のすべてが「社会に普及」するわけがないではないか。
日本にアウトサイダー・アートを「専門に扱うマーケット」が存在しないことと、大阪府のプロジェクトが障害者の創作するアートを「「現代アート」として捉える」ことの関連性も、さっぱりわからない。マーケットがなくても「アウトサイダー・アート」って名称はあるんだから、そう言えばいいはずだ。そういうラベリングによって注目されるということもあるだろうし。
そもそも、それらを全部「「現代アート」として捉える」のなら、わざわざ「障がいのある方々が創作される」という形容詞をいつまでもくっつけているのは邪魔になるのではないだろうか。でもそれをくっつけてないと、障害者支援という行政のお題目が宙に浮くことになる、と。


アウトサイダー・アート。障害者就労支援。アート支援。
誰も反対しないものを安易に結びつけた、なんかいろいろ無理を抱えたプロジェクトに見える。そういうプロジェクトに、アート業界の人も「これはちょっと難しいんじゃないの」と思いつつ、行政からのお金が回ってくるのを当てにして、ホイホイ乗ってしまったりするのだろうか。

*1:80年代後半だが、ミッキーマウスをモチーフにして少し有名になった日本人画家がディズニーに見つかり、すべての作品差し押さえ&莫大な著作権使用料請求という憂き目に遭ったことがあった。

*2:こうした、対象を「アウトサイダー」として命名し評価するその視線が、西欧近代以降のアートの価値観を内面化し、その中心から周縁を「特異点」として見いだすという、いわば差別的な視点になるのではないかという批判も一部にある。もっとも大阪府が「アウトサイダー・アート」という言葉を使っていないのは、そういう批判があるからというより、「障がいをもつ人々」限定の展覧会にその名称を被せにくいということかと思う。

*3:ちなみに草間彌生はれっきとしたインサイダー・アーティストに登録されているが、統合失調症を病んで水玉の絵を描き始めたという経歴は、むしろアウトサイダー・アーティストのものだ。細かい単純作業の繰り返しでパラノイアックに空間を埋め尽くすのは、メンヘル系アウトサイダー・アートの傾向の一つであり、今回受賞を辞退した人はどういう障害の人なのかわからないが、作品はよく似た系列に見える。

*4:『アーティスト症候群』(2008、明治書院) に詳述した。