「観」ではなく「論」を交わすこと

simplemindさんのところで、ここ最近の記事に書いた「セックスにはある種の暴力性が含まれる」とか「あらゆる性関係はSMである」など、一部で???を喚起しているらしいテーマについてやりとりさせて頂いた中で、「あー‥‥」と思ったことがあった。


私の最初のコメントで「simplemindのセックス観については特に異論を挟むつもりはないのですが」(「さん」つけ忘れ)と書いたことに対し、レスの中で「共通認識をベースにして(セックス観ではなくて)「セックス論」を交わしたかったのですが」と言われた。*1
‥‥‥まったくもってその通りです。


「セックス論」を交わしていたのは十分認識していたにも関わらず、私は相手の意見を「セックス観」という個人的なレベルに押し込めるような書き方をしていた。
記事を通読した時点の、何が共有できていて何が違うのかはっきりわからなかったというモヤモヤによって、「観」に安易に答えを求めようとしていたのだと思う(それが私の早とちりであったことは、simplemindさんがコメントで整理して下さってわかった)。



「観」は他人との共有可能性はあったとしても、基本的にはその個人のもの。
「論」は共通認識を求めて、あるいは議論のたたき台として提出されるもの。


非常にプライベートな行為であるセックス、あるいは性についての語りは、すべて個人の「観」に過ぎないのではないかと言う人もいるだろう。
確かに、話者の個人的なセックス観がその人のセックス論にまったく影響しないということはないだろうし、セクシュアリティ性的嗜好、性別、環境、世代なども語りに関係してくることは多いと思う。
だがそこを自覚しつつ、それを超えて「こういう見方ができるのでは」という認識や仮説を提示し、擦り合わせをしながら対話することは不可能ではない。そこで改めて浮き彫りになることもある。


私が性についての「論」に拘るのは、さまざまな性の事象に通低する普遍的な事実のようなものがもしあるのなら、それに少しでも近づいてみたいからだ。
なぜ欲望は満たされることがないのか。あらゆる性関係はなぜ非対称性を帯びているのか。人の存在の根源には「ある種の暴力性」が刻み付けられているのではないか‥‥etc。
性について重要な洞察や知見を残している人々から学ぶのはもちろんだけれども、自分の言葉でも探ってみたい、「論」を構成してみたいという欲求がある。


「論」めいたものに、「自分はそんなふうに思ったことがない」という「観」でしか反応が返ってこないことがある。性を巡る話題に関する限り、そういう反応の方が多いかもしれない。*2
しかし「論」は、個別の感じ方や「観」に異を唱えるものではない。そんなことはできない。多様性がある、人それぞれで違うなどということは大前提として、それでも尚かつ「こういう見方ができるのでは」というのが「論」だ。どちらがいい悪い、上か下かという話ではなくレイヤーが違うのだ。
だから「自分はそんなふうに思ったことがない」という意見について、「論」を言った側は、「そういう感じ方も当然あるでしょうね」としか言えない。そこで話は終わりになる。


「一般化するな」というのもよくある。「一般化するな」と言いさえすればすべての「論」の腰を折ることができるかのように。「自分はそんなふうに思ったことがない」の発展形が「一般化するな」かもしれない。これも話が性に関することだと、頻繁に出てくる。
だが、どんなことでも一切の一般化や抽象化を避けて、個々の実感や「観」だけに帰することにしたら、対話や議論は成立しない。共通認識も理解も歩み寄りもない。古い地図の上に新しい地図を描くこともできない。
「一般化するな」という異議が意味をもつのは、「○○とはこういうものである」(○○には「人間」「国家」「社会」「男」「女」「子ども」「表現」など何でも入れてください)という「論」が、その言明のうちに当の○○に属する人々の立場を一律に抑圧し、○○についてのそれ以上の議論を「上」から封じようとする場合である。

*1:これを含むコメントを後で誤って消してしまったということで、改めてこちらで再掲して下さっている。

*2:私も、「私とはかなり違う感じ方や考え方をする人だな」と思うことはしばしばあるし、その逆もある。「観」のやりとりが楽しいこともある。