レイプ・ファンタジーについてのメモ

こちらのコメントの中で、id:font-daさんがご自身のテキストのことを教えて下さったので、早速掲載誌『フリーターズフリーvol.02』(2008)を入手して読んだ。
タイトルは『「レイプされたい」という性的ファンタジーについて』。ストレートです。


思春期にヤオイを愛好し、<攻>男性が<受>男性をレイプする同人誌で自慰をし、やがて成長と共にヤオイを忘れヘテロ・セクシュアルな恋愛に没頭していった自身の経緯を振り返り、若い女性がレイプ・ファンタジーに求めたものの一つの形を描き出そうとするものだった。
font-daさんは先のコメントに「大野さんと、ほとんど同じようなことを言っているので、特に面白みはないかもしれませんが。」*1 と書かれていたけれどもそんなことはなく、<攻><受>双方の観点からの構図を精神分析の「転移」の枠組みを借りて考察している点を含め、やや生硬なところはありつつも自分語りを自分語りで終わらせない論の展開に独特な牽引力があり(エラそうですみません)、興味深く読んだ。


精神分析家と患者の「転移」関係についての説明の後の、テキストの中核と思われる箇所から一部引用。

 このように、精神分析では、分析家が患者に、面接の中で<本当の私>を与える。同様に、ヤオイのレイプ・ファンタジーでは、<攻>が<受>に<本当の私>を与える。それは、<攻>を愛し、セックスに溺れる<本当の受>であるという解釈をするのだ。<攻>の分析はこうだ。<受>は<攻>とセックスをして快楽を得たかった。しかしその欲望は「男同士だから」という理由で抑圧されている。抑圧された欲望を<攻>は察知して先取りし、無理矢理セックス(=レイプ)してやるのだ。


[中略失礼]


 これは、もっとも軽蔑されるレイピストのレイプ・ファンタジーとまったく同じ展開である。すなわち、レイプされる者は、レイプされることを通して、レイプを欲していた自らを発見し、「もっと犯して!」と叫ぶというファンタジーである。ヤオイという形式を借りて変奏しているものの、私は欲望の中核にレイプ願望をもっている。私の持つレイプ・ファンタジーは<私>殺しのファンタジーである。それは、私は目の前にある「この私」を殺し、他者の中で「別の私」として生き直したいという願望である。[…]
(p.157〜158)


この「別の私」は<本当の私>(「理想的な私」ではなく、「私すらも知らない<私>」)としてイメージされるものだという。一方、殺したかった「この私」とは、異性に「「愛させる」という誘惑の技術のみを手に入れてしまった私」だ。
思春期の、男に媚びる「女」になりたくない、「少女」のままでいたいという願いと、沸き上がってくる性欲との葛藤の中で、ヤオイのレイプ描写は私の知らない<本当の私>を引きずり出してくれるファンタジーとして機能した。「この私」を殺し「「女」の部分を消す」ことを選んだ自分を仮託するのに、ヤオイの<受>は、「「女」っぽい形状を持ちながら、「女」性を持たない、という「非女」として描かれている」点で相応しかったと。
自分にとってヤオイとは、「異性愛制度に参入し、男と愛し合う異性愛女性になるための、イニシエーションの役割を果たした」と、font-daさんは最後の方で書いている。*2



個人的に印象に残ったところを。
「2 レイプによる癒し、というファンタジー」の章の最後で、ヤオイが虚構であり、レイプが実際に自分の身に起きないファンタジーであるからこそ、つまり「この私」は現実には殺されないからこそ、安心感の中で遊ぶことができるのだ、という箇所がある。
この「虚構だからこそ」という点はレイプ・ファンタジーを楽しむ女性に共通していると思うが、興味深かったのは、この段の最後の註の中で引用されている大澤真幸の文章だ。以下、註4から(” ”で括った箇所は強調点が付いている)。

大澤真幸は『自由の条件』(講談社、二〇〇八年)の中で、「なぜ、レイプはおぞましい犯罪なのか」という問いを立てた。大澤は、レイプがほかの犯罪よりも残酷なのは、「性行為を望まない女性の意志に反する性行為を強いる暴力だから」(三九五ページ)であるという、一般的な解答では説明しきれないとする。大澤は、お互いの意志に反さず、合意の範囲でのみ行われるセックスは、相手の身体を利用した自慰にすぎないことを指摘する。そして、他者の意志に反さず、合意の不可能性を担保するために、「男であれ、女であれ、人は性的な関係の中で、自分の意志に反するような形で相手に扱われることを、すなわち、他者に『暴力』的に扱われることを、欲してすらいる」(三九六ページ)と述べる。大澤の主張は次である。
「われわれは、むしろ、次のように考えるべきではないか。人は潜在的に自身の身体が乱暴に扱われることを欲望しており、”まさにそれゆえにこそ”、こうした潜在的な欲望を文字通りに実現したかのように装うレイプは一層おぞましいのだ、と。だから、レイプの悪、レイプの犯罪性は、一般の犯罪や違背行為とは反対側にある。一般の犯罪や違背行為は、被害者の意志に反する行為と看做される。それに対して、レイプは、ある意味において、被害者の潜在的な意志や欲望をそのまま外的な現実の上に実現してしまうがゆえに、一層悲惨な犯罪を構成することになるのだ。」(三九六ページ)
(p.161)


この(ジジェクを下敷きにしているに違いない)議論喚起的な文章が註として挿入されていることで、テキスト全体に奥行きといい意味での複雑さが加わっているように私には思えた。


註ではこの後に、やはりというか何というか、「レイプという悪」について(も)語っているジジェクの映画『スラヴォイ・ジジェクによる倒錯的映画ガイド』(二〇〇六年)が挙げられている*3 のだが、私はその映画を観ていないので、『ラカンはこう読め!』の方から関係のありそうなところを引用する。


ジジェクは「精神分析フェミニズムがどうしても合意できない究極の一点」として、「強姦(とそれを支えているマゾヒズム的幻想)」を挙げ、次のように述べている(” ”で括った箇所は強調点)。

このように、女性も強姦される幻想を抱くかもしれないと示唆した瞬間、次のような反論が飛んでくる。「それは、ユダヤ人は収容所でガス室送りになる幻想を抱いているとか、アフリカ系アメリカ人はリンチされることを幻想している、と言っているのと同じだ」。この見方によれば、女性の分裂したヒステリー的立場(性的に虐待され搾取されることに不平を述べながら、一方でそれを望み、自分を誘惑するよう男を挑発する)は二次的である。しかるにフロイトにとっては、この分裂こそが一次的であり、主体性の本質である。
このことから得られる現実的な結論はこうだ -----(一部の)女性は実際に強姦されることを空想するかもしれないが、その事実はけっして現実の強姦を正当化するわけではないし、それどころか強姦をより暴力的なものにする。ここに二人の女性がいたとする。ひとりは解放され、自立していて、活動的だ。もうひとりはパートナーに暴力をふるわれることや、強姦されることすら密かに空想している。決定的な点は、もし二人が強姦されたら、強姦は後者にとってのほうがずっと外傷的だということである。”強姦が「彼女の空想の素材」を「外的な」社会的現実において実現するからである。”


[中略]


結局、フロイトからすると、強姦をめぐる問題とは次のようなことだ。すなわち、強姦がかくも外傷的な衝撃力をもっているのは、たんにそれが残忍な外的な暴力だからではなく、それが同時に犠牲者自身の中にある、犠牲者によって否認されたものに触れるからである。したがって、フロイトが「[主体が]幻想の中で最も切実に求めるものが現実にあらわれると、彼らはそれから逃走してしまう」と書いたとき、彼が言わんとしていたのは、このことはたんに検閲のせいで起きるのではなく、むしろわれわれの幻想の核がわれれにとって耐えがたいものだからである。
(p.98〜99)

*4


ジジェクってつくづくやなこと言うオッサンだよな。まあフロイトラカンもそうだから仕方がない。



すんなりと抵抗なく頭に入ってきてストンと落ちる文章、イライラや不安を掻き立てない文章は「癒し」だ。そういものが脳に必要な時もある。
一方、こちらの神経に変な感じで接触してきて、それが何なのか気になって仕方ない文章には、たぶん私の知りたくないことが書いてある。いや、知りたくないと思っている何かに繋がることが。
そして困ったことに、それは大抵、重要なことなのだ。経験上。
ということで、今回の記事は人の文章の引用ばかりで終わりです。



フリーターズフリー vol.2 (2)

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<自由>の条件

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ピアノ・レッスン [DVD]

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ピアニスト [DVD]

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ラカンはこう読め!

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*1:参照:レイプファンタジーというおかずについて、極個人的に

*2:その意味で、レイプ・ファンタジーの「機能」の仕方が私とはやや違うように思った。私のオカズは男→女のレイプ描写であり、そこでは他の選択が不可能な暴力的な状況が、愛とか駆け引きといった現実的な世界を忘れさせてくれるというメリットがあった。私のレイプ・ファンタジーは現実のヘテロ恋愛とは「別腹」だったので、イニシエーションではなかった。

*3:ここで、ジジェクが『ピアノ・レッスン』(ジェーン・カンピオン監督、1993年)の女主人公を引き合いに出していると書かれているのだが、これは『ピアニスト』(ミヒャエル・ハネケ監督、2001年)の間違いではないだろうか。「彼女は、性暴力被害者である。そして、大量に暴力的なポルノグラフィを視聴している。彼女はセックスのパートナーに、自らが持つレイプ・ファンタジーを書き出し、実現するように求める。しかし、それが実現することこそが、彼女を致命的に傷つける」。『ピアノ・レッスン』のヒロインは終わりの方で夫に暴力をふるわれるが、それ以外はまったく違う。『ピアニスト』のヒロインは確か性暴力被害者という設定ではなかった(母親に支配されていた)はずだが、その他は当てはまっている。『スラヴォイ・ジジェクによる〜』でググったところ、少なくとも『ピアニスト』は引用作品として紹介されていたようだ。ただジジェクは時々平気でその手の混同や(意図的かと思えるような)間違いをするらしいので、実際に彼の映画を見ないと正確なところは確認できない。ちなみに私は『ピアノ・レッスン』『ピアニスト』、どちらの映画も大好き。

*4:この後の夢と「現実界」の話は、こちらの記事で書いた。