レイプ・ファンタジー、レイプ、レイプ神話と性差別

サイドバーのohnosakikoブックマークのところが、ポルノレイプレイプレイプエロゲバカレイプレイプエロゲバカポルノ‥‥となっていて正直気が滅入っている大野です。自分でつけてるブクマだから仕方ないけど、授業に来る新一年生に自分のブログアドレスを教えるのにはちと勇気が必要、という意味で。つっても初日の掴みで、去年の「レイプレイ」騒動や「東京都青少年保護条例改正」騒動の話をして、散々「レイプ」という言葉を使ってしまいました‥‥。


さて、AntiSepticさんの例の記事のブクマ数がやたら伸びているのですが、こうなっている大元の火元は私です。一連の流れは以下の通り。


3/27の当ブログ記事
レイプ・ファンタジーについてのメモ
○ この時点でのコメントは、雑誌に掲載されたテキストを記事で引用させて頂いたfont-daさんのみ。
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4/8のはてこさんの記事
そよ風のレイプ願望と強姦の違い 前編 - はてこはだいたい家にいる
そよ風のレイプ願望と強姦の違い 後編 - はてこはだいたい家にいる
○ 後編で私の上の記事について短い言及がある。「レイプされたいファンタンジーには被害者がいないのでレイプではない。他のレイプものや現実のレイプとごっちゃにしてはいけない」と。「レイプされたいファンタジー」は私が引用したfont-daさんのテキストを指しており、それを「そよ風のレイプ」(訂正!「そよ風のレイプ願望」です)と呼んでいるらしいことがわかった。コメント欄でやりとりしたが、うまく噛み合ないで終わった。(追記:このコメ欄ではてこさんとパピルスさんのやりとりもある。興味深い内容)
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4/11のコメント欄
http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20100327/1269700416#c1270922941
○ はてこさんと私のやりとりを読んでいたcrowserpentさんに「噛み合なかったのはこの点では?」という指摘を頂いた。その後はてこさんがコメントし、またやりとりしたが、やはり今一つ噛み合わなかった。
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同日
ポルノのコルテオと男女同権 - はてこはだいたい家にいる
○ 後半の「女性もポルノを楽しむべきだという意見もある」云々の下りで、なんとなく遠回しに批判されているのかな?と感じた。そうだとすればこういう捉えられ方はちょっと不本意
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4/13
レイプ・ファンタジーについて
○ 自分がはてこさんの記事ややりとりで感じていたモヤモヤの多くが言語化されていた(後半で出しているヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」のあたりも興味深い)。パピルスさんは前にも丁寧な記事をはてこさんのところにトラバしており、通読した感じでは信頼できる話者だという印象をもっていたので、ここから私の失敗した議論がはてこさんと彼女の間で始まればいいなと思った。
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4/14
現実だろうがファンタジーだろうがレイプはレイプ、被害者は存在する。恥を知れエロゲバカどもが!!  - 消毒しましょ!
パピルスさんへの攻撃。これ単体でならこれまでの「エロゲバカ」disとほぼ同じだが、彼女へのdisりとしては文脈を読まずに一部の言葉尻だけを捉え相手の考えを決めつけている印象をもった。
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4/15
あー飲んだ飲んだ、美味かったwwwつーわけでもう寝るが一言だけ。- 消毒しましょ!
○ 上の記事のダメ押し。


三行でまとめると。
「ポルノを娯楽として語らないで」派(はてこさん)と「それは語り方の問題では」派(大野、後パピルスさん)の間でうまく対話が成立してないところに、「エロゲバカ」disり屋が乱入して本題がどっか行っちゃったという図。*1




AntiSepticさんの二つの記事はどちらもほぼ同じことが書かれているので、パピルスさんの記事が引用されている前のものから核心部分を引いてみる。

わたしが想定する、いわゆる一般的な「レイプしたいファンタジー」とは、最初は相手を無理矢理手込めにするけれども、そのうち相手が快楽を感じはじめ、もっともっととせがんでセックスに夢中になる、みたいな感じです。最終的には和姦になるので、被害者は想定されていません。だから「レイプ」ではないのです。ご都合主義といえばそれまでですが、ファンタジーなんてだいたいご都合主義的なものですよね。


キチガイかこいつわ!? 「レイプ」ではないのであれば、無理矢理手込めにする必要など最初からないではないか。それが紛うことなきレイプであるからこそ、そのテのものが好きな連中にとってそのファンタジーは面白いのであり、そのうち相手が快楽を感じはじめ、もっともっととせがんでセックスに夢中になって最終的には和姦になったところで、それは結果が「ご都合主義」なだけであって、遂行された行為がレイプであることに何の変わりもないことは明白ではないか。


空恐ろしいまでのバカである。このバカわ行為遂行後の状態をもって行為を評価している。原爆投下によって戦争が終結し、民主主義の下に日本は経済発展を為しえたから、原爆投下は非人道的ではないと言っているも同然だ。


一見和姦に見せかけたような、相手の口を封じるような形でのレイプ行為は現実に多いと言うし、そういうものが物語の中でいくらファンタジックな味付けを施されて描かれていても、レイプであることには変わりない。それはその通り。
では元記事ではなぜ「「レイプ」ではないのです」と言っているのか? 以下、考察。


「フィクションの中の人物の視点」に立って考えてみよう。
まず「レイプする側」(男性と仮定)の視点。
1. 相手が心身ともに酷く傷ついている場合→これはレイプだと認識している。
2. 最終的に和姦のような感じになった場合→始まりはレイプのようでもそれは「愛」ゆえの行為だったし最終的に相手も受け入れたからいいのだと、自分を納得させる解釈をする。つまりレイプをした、自分は加害者だという実感や自覚がない。


次に「レイプされる側」(女性と仮定)の視点。
1. 心身ともに酷く傷ついている場合→これはレイプだと認識している。
2. 最終的に和姦のような感じになった場合→始まりはレイプのようでもそれを通じて「愛」を確認したからいいのだと自分を納得させる解釈をする(例)*2。つまりレイプされた、自分は被害者だという実感や自覚がない。


「レイプしたいファンタジー」においても「レイプされたいファンタジー」においても、2の場合、二人の関係においてはレイプという行為が結果的に帳消しになって、「御都合主義」的に恋愛関係だけが残っているという状態にある。二人の行為の経過を知る者は二人以外におらず、二人ともそれが犯罪だと思わず納得している。そこでレイプは「なかったことになる」し、被害者も加害者も「いないことになる」。物語内空間ではそういうことになるという話だ。
だが物語の外の現実から見れば、「最後は和姦っぽく描かれているけど、やっぱりどう見てもこの行為はレイプだな」という判断ができる。レイプもので興奮するわけだから、受け手はそういう見方を当然保持している。その視線のもとに、レイプから始まる暴力的な「愛の行為」の描写を堪能する。レイプという忌むべき犯罪がなぜか「愛」によって肯定されているからこそ、ファンタジーとなり得るのだ。これがパピルスさんの言っているレイプ・ファンタジーの中身である。


「最終的には和姦になるので、被害者は想定されていません。だから「レイプ」ではないのです」という文面は、上で書いたように「物語の中では「レイプ」ではないことになっている」という意味だ。和姦に至るレイプ行為をレイプではないとか、フィクションだからレイプではないと言っているのではない、と私は読んだ。
もちろん、犯罪にはなりえないかのように描いているのがその手のレイプものの常套手段だから、それを現実に当てはめて「手ごめにしてしまえばこっちのものだ」などと思ってはいけないのは当然。そこにはきっかりと線を引かねばならないし、ポルノ・リテラシーが重要ということも、パピルスさんの記事では述べられている。*3


私もそんなにレイプものを見聞きしているわけではないが、パピルスさんの言っている和姦に至るレイプ・ファンタジーは、はてこさんが「そよ風のレイプ」(訂正!「そよ風のレイプ願望」です)と呼んでいるものと近いように感じられた。はてこさんは「そういうレイプ・ファンタジーには被害者がいない。だからそこで描かれているのはレイプではない」と主張されていた。同じことを言っているように私には見える。



「レイプなど性的暴力を快楽的に描く作品の公然たる流通、及びそうした性的ファンタジーの娯楽性を公で語ることは、性暴力被害者を傷つける可能性があるだけでなく、レイプ神話を助長し、現実にある性差別に加担、強化するものだ。当事者は自重してほしい」というのが、はてこさんの主張の根幹にあることだと私は認識している。そういうことをこれまでブログで繰り返し訴えてきているし、その一貫した姿勢には一定の敬意を抱いてきた。
私も、はてこさんの言うような点をまったく考えずに、「表現の自由」や「二次元は被害者がいないからOK」といった主張だけを繰り返すことはナンセンスだと思っている。
レイプものにせよ他のポルノにせよ、どれほど荒唐無稽であっても現実の「女のかたち」から供給されているものがあり、それが暴力と収奪の対象になっている限りにおいては、それは性差別的表現であるとの批判は免れ得ない。そうした(多くの場合)女を男が性的に蹂躙している場面を見ることの快楽をネットなどで気軽に語れば、嫌な思いをする女性は少なからずいるのだということも自覚されるべきだと思う(こうしたことは拙書にも書いたし、その一部をはてこさんのところで取り上げて頂いたこともある)。


「男性中心目線で性行為を描いたポルノは現実の性差別を再生産する」という意見は、かつてラディカル・フェミニズムから出てきたものだ。アメリカのフェミニストの間ではポルノ規制派と規制反対派が対立してきたが、いずれも男性向けポルノと性差別との結びつきを認める点では一致している。
その後、女性もポルノを楽しんでいいし、そうした性的ファンタジーについて語り合ってもいいのだという機運も、フェミニズムから生まれてきた。これは、それまで「性に関することは女が口にするものではない」「何も知らないふりをしていろ」というジェンダー規範から女性を解放するものだった。*4


が、そうは言ってもまだ抑圧があることは確かであり、ましてレイプ・ファンタジーのようなものへの欲望を女性が口にすることは、強く忌避される傾向がある。
そうした中で私が、雑誌に掲載されているfont-daさんのテキストをブログで紹介したいと思ったのは、思春期の自分にとって、やおいのレイプ・ファンタジーが自己の性的葛藤を昇華する上で何故必要なものだったのかということが、内省的な極めて真面目な筆致で書かれているのに打たれたからである。
レイプ神話を強化し、男性に「やはり女はレイプされたがっているのか」と思わせるような不用意な発言は慎むべきだし、誰もが性的ファンタジーについて語る必要もない。だがこのような真摯な発話も公の場では自粛してほしいということであれば、個人的にはそれに抵抗する。



ところで、前々から買おうと思いつつ高いので先延ばしにしてた『性のペルソナ(上)(下)』(カミール・パーリア著、河出書房新社、1998)を、amazonマーケットプレイスでやっと購入した。
カミール・パーリアは「ドラッグ・クィーン・フェミニズム」を自認し、教条的な旧来のフェミニズムを徹底的に批判する異端のフェミニストとして有名。原書は90年に出版され世界的ベストセラーとなったもの。帯には「西洋文化史を揺るがす画期的名著!」「体制アカデミズムと既成のフェミニズムを痛烈に批判した著者の代表作」。わくわく。もっと早く買うべきだったかも。
最初の方をパラパラめくると「強姦」という言葉がちらほらと。つい目が釘付けになったのでこの記事の締めくくりとして引用したいと思ったが、長くなるので次回紹介します。

*1:追記:これでは何もわからないという人は、http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20100415/1271337109#cをお読み下さい。

*2:この時、された側の女性は結果的に恋愛を手にしたことになるわけだから、自分の受けた行為をレイプとは認めたくないだろう。また仮に、相手の強引な振る舞いが女性の中に諦めの気持ちを起こさせ、その結果として抵抗できないなら無理矢理相手を好きだと思い込もうとするといった倒錯した心理が働いたとしても、同じだ(そんな描写を細かくしたらファンタジーではなくなるかもしれないが)。

*3:パピルスさんの記事で書かれていないこと(ポルノ・リテラシーがユーザ以外にも徹底できるかとか)はあるにしても、はてこさんとは考えを異にする立場から、対話を求めて丁寧な議論がされていると私は感じた。ただ、AntiSepticさんがdisったように読んだ人は徹頭徹尾そのように読むだろうから、細かな記述をあげつらって白だ黒だという不毛な議論する気はない。やたら前半部の一部ばかりがクローズアップされているが、あの記事の中核は後半部にあり、そこで問題にされていることこそ私が感じていたことである。

*4:欧米におけるポルノグラフィ批判運動と理論、日本におけるそれについては、パピルスさんも紹介していた『女はポルノを読む 女性の性欲とフェミニズム』(守如子、青弓社、2010)で、最初の一章を割いて概観されている。全体としては「フェミニズムにとって、「性差別」と批判することだけがポルノグラフィとの唯一ありうる関わり方なのだろうか」という問いの元に詳細な論が展開されている。