※タイトルはこっちのコメントのやりとりからヒントを得ました(レタ田さん、ども!)
はじめに、前回のエントリで「悪」という言葉を使ったら「何故ポルノが悪なんだ」「善悪で考えること自体がおかしい」といった意見がブコメなどで結構見られたので、再度(再々度)説明する。
引用元記事コメ欄で、ブログ主は「良心」という言葉を使っている。これは彼女の一連の主張の中核にある重要な言葉だ。「良心」を問うからには「善」と「悪」が想定されているはずなので、記事を書くにあたってその論法に乗った。フム、こう考えれば「悪」になるな、あえて「悪」としておくことが次で効いてくるんだな‥‥と読んで下さった人、ありがとう。本エントリでなんとか回収を試みます。
この話の行き着く先は、性欲とは何か? 理性ある社会的人間と性欲や性愛との関係はどうなっているのか?という一点に集約されると私は考えている。
ここでは表現規制に賛成か反対か、現実的な方策とは‥‥という議論はしない。斎藤環の文章を議論のとっかかりとして、私の意見をまずまとめ、後半で『性のペルソナ』から、「アンチフェミニスト・フェミニスト」として有名なカミール・パーリアの言葉を紹介していく。
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二週間前の毎日新聞(2010年4月11日 東京朝刊)に、東京都青少年健全育成条例改正についての斉藤環の論評が載り、ネットにも掲載されてかなりのブックマークを集めた。
内容は「表現の自由」を重視し改正に疑問を投じるもので、親の役割を強調している点で子どもとポルノの関係を憂える世間の親心にはそれなりにアピールするかもしれないなぁという、全体としてはまあ穏健で無難な内容だったのだが、私が興味をそそられたのは以下のエピソードだ。
規制を進めている人々は、健全な環境さえあれば、何もしなくても子供たちはのびのびと健全に育つと言いたげだ。しかし、本当にそうだろうか。
アメリカで昨年出版された「子育ての衝撃」という本が話題になっている。本書で最も驚くべきくだりの一つは、人種差別にかかわる部分だ。著者のポー・ブロンソンらの調査によれば、子供たちに人種の多様性を教えようとする私たちの方針は、根本から間違っているという。
私たちはこんなふうに考えがちだ。現代の社会には、もう露骨な人種差別はほとんどない。いまや子供たちは、多様な人種が入り交じる環境の中で育っている。彼らはそうした環境の中で、他の人種とうまくつきあっていく方法を自然に学んでいくだろう。だから私たちは子供たちに対して、人種について、皮膚の色について語るべきではない。わざわざ寝た子を起こすことはない、と。
しかしブロンソンらの調査結果は、私たちの楽観に冷水を浴びせかけるものだった。
事実はこうだ。白人の高校生で、他の人種の親友を持つものはわずか8%。多くの人種が通う学校の生徒たちほど、人種間の交流は少ない。白人の親の75%は、子供たちと人種についてほとんど語り合わない。小学3年生以上になると、人種への偏見を変えるのは困難になるが、多くの両親がこの話題について話しても大丈夫と考えるのは、その後になってからである。
要するに、大人が人種についての話題を避けたままでいると、多くの子供はのびのびと立派な差別主義者になってしまう、ということだ。
ブロンソンらのこうした指摘は、人種や子育てといった問題を超えた普遍性を持っているように思われる。たとえ倫理的に適切な「環境」が与えられたとしても、ある種の倫理観は、決して自然には育(はぐく)まれないのだ。大人たちが意識的にそれを子供に伝えようとしない限り、そうした倫理の伝統は容易に失われてしまうだろう。
ポイントは、「たとえ倫理的に適切な「環境」が与えられたとしても、ある種の倫理観は、決して自然には育まれないのだ」というところ。
放っておくと人間は差別と偏見に塗れやすい。決して「善」には向かわず、「悪」に流れる。人間の中にもともと「ある種の倫理観」、平たく言えば「良心」といったものはないのだと。
私は倫理学や法学には疎い人間なので、非常にざっくりした書き方になるが、こういうことだと理解している。
人間に何も教育を施さず自然状態のまま放置しておけば、おそらく目を覆いたくなるほどの暴力的な弱肉強食世界が出現する。強い者が定めたルールに皆が従い、やがて不満が鬱積し爆発して支配者は葬られ、新しいルールが制定され、それが環境の変化に伴ってまた葬られる。
その繰り返しの中で、安定的な共同体の維持のために、やがて「ある種の倫理観」が醸成され、人々に共有され、子ども達に道徳や規範として伝達されていくようになる。
つまり私たちは皆、自然状態の無軌道な欲求の表出をコントロールするべく、社会から道徳や規範をインストールされるのだ。
それはまず「不道徳」(=悪)があったから‥‥という言い方は不正確だ。最初にあるのは言わば「無道徳」な状態である。その中である振る舞いや考え方を「悪」と看做し「善」から切り分けることによって、道徳や規範は生まれ、倫理観が作られる。それを繰り返し繰り返し教えられることによって、「良心」は鍛えられていく。
一方で、一部の表現は「悪」との烙印を押される。芸術もしばしばその憂き目に遭ってきたが、とりわけポルノという性表現は「不道徳」との悪評が立ちやすい。
何故か。性がタブーとされてきたからだ。性が人間存在にとってあまりにも本質的なために。
これが新聞紙上でなかったら、また表現規制問題という政治的な話題でなかったら、斎藤環は「ある種の倫理観に最後まで抵抗するのは、セクシュアリティとエロティシズムである」(セクシュアリティは人の性的指向、エロティシズムは表現に現れるもの)と書いたのではないかと思う。著作でフロイト - ラカンの精神分析理論を駆使している彼であれば、きっとそう考えているはずだ。
斎藤環がこの問題で「表現の自由」を重視する姿勢を取るのは、リベラル派を気取りたいからでも、「おかず」がなくなったら困ると思っているからでも(たぶん)ない。セクシュアリティが人のアイデンティティの根幹を成し、そこにある欲望や渇望が、後から社会にインストールされた道徳や良心にはなかなか馴致されないことをよく知っているからだ。
セクシュアリティとエロティシズムは、ある種の倫理観、道徳、規範、良心に最後まで抵抗する。
このことを積極的且つ肯定的に捉えれば、「ポルノは善悪という基準を超えた人の営みを描き出す」「エロには権力への抵抗や既成の規範や価値観を撹乱するポテンシャルがある」ということになろう。実際この観点から表現規制に反対している人も多いと思う。
当然、ネガティブに現れる面もある。ちゃんとインストールされたはずの道徳や規範意識を押し潰すほど、性的欲望は人間を深いところで支配しているからこそ、性暴力や性犯罪はなくならないのだ。身近なところでは、本人は注意しているつもりでセクハラ的言動を取ってしまう人はよくいる。
と言うと、「性犯罪者にあるのは性欲ではない。暴力的欲望や支配欲だ。性犯罪は暴力犯罪だ」という意見が必ず返ってくる。
では、性欲と暴力的欲望や支配欲は、別ものなのだろうか。きれいに切り離すことができるのか。
「別ものでなかったら誰がセックスなんかできますか、恐ろしい」。たしかに。
「性欲、あるいはセックスの中にはある種の暴力性が孕まれている」という意見は、なかなか受け入れられない。私は何年か前からほぼ同じことを何度か書いているし、最近ではこちらとこちらでも議論したが、(一部の)女性の強い反発を招いた。*1
無理もないと思う。セックスが暴力的なものだったら堪らない。レイプされることと愛する人との性行為は、まったく正反対のものである。一方にあるのは、徹底的な破壊による苦痛と屈辱。もう一方にあるのは、快楽の追求と満たされる承認欲。
性犯罪者の行為をどこまでも暴力欲求、支配・破壊欲求に基づくものとして捉え、私たちの性欲や性行為ときっぱり切り離さねば、性愛、セックスのすべてが汚染されてしまうように感じる‥‥と。
だが、性欲の根幹にあるのは、(はっきりと「暴力」とは言わないまでも)攻撃性や権力への意志であるとしたらどうだろう。
ヒトの三大欲求の一つと言われる性的欲望(性愛感情を駆動し、時に人間を再生産することで社会を維持するのにも欠かせないとされている性欲)は、もともと支配欲と通低し、暴力性と手を結び合っているとしたら(追記:それとは対極にありそうな「自己破壊願望」もあるのではないかという考えが後で出てきた。サディズムとマゾヒズムのようにたぶん両方ある。というかサドが極まっていってマゾに至るというイメージがある)。
私たちは皆あらかじめ「不道徳」な星の下に生まれついているとしたら。*2
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ごく最近になって、カミール・パーリアの『性のペルソナ』を読み出した。そして私がずっとぼんやり考えていたことの幾つかが、豊富な知識と厳しい思索を背景に、恐ろしく明確な形で既に書かれていることを知った。
原書は90年に出版され世界的なベストセラーになり(帯の惹句を読むとかなりの衝撃をもって受け止められたようだ)、日本では98年に翻訳出版された。一言で言えば西洋文化史を「理性と自然」の闘争という観点から大胆に読み替えるもので、芸術とポルノの親和性についても多くの記述が割かれている。また、いわゆる社会構築主義のリベラル、ラディカル・フェミニズムに対する辛辣な批判も多い。非常に議論喚起的であり、今でも十分通用する深い射程をもった内容だと思う。*3
以下、『性のペルソナ』(上)の「第一章 性と暴力、あるいは自然と芸術」から、引用する。
引用したい箇所がたくさんあったため結果的に長くなったが、今回の議論を根本の部分から考察する上で必須であろうと思われるところを抜き出したので、是非通して読まれますように。
尚、男女の性の非対称性を強調している点*4でヘテロセクシズムの匂いを嗅ぎ取る人もいるかもしれないが、パーリアはレズビアンである。
セクシュアリティとエロティシズムは、自然と文化が複雑に混じり合う交差点である。いわゆるフェミニストたちは性の問題を度しがたく単純化し、社会的慣習の問題に還元してしまい、社会を変革し、男女の不平等をなくし、性の役割分担を見直しさえすれば幸福と調和がおとずれると考えている。その点でフェミニズムは、過去二百年間のあらゆるリベラリズム運動と同じく、ルソーの末裔である。
ルソーは、原罪、すなわち人間は生まれながらにして穢れており、放っておけば悪へ向かう、というキリスト教の悲観的人間観を斥ける。人間は生まれながらに善であるというルソーの信念、これはロックの思想に由来するが、そこからやがて社会環境主義、すなわち環境が人間を作るという発想が生まれ、それが現代アメリカの福祉事業、刑法典、行動療法などの中心的倫理観となっている。この考えに従えば、攻撃性や暴力や犯罪は、貧困とか劣悪な家庭環境といった社会的剥奪に起因する。それでフェミニストたちは強姦をポルノグラフィのせいにし、独善的な循環論法によって、最近のサディズムの蔓延はサディズムそのものに対する反動なのだと説明する。しかしながら強姦やサディズムはいつの時代にも存在し、どんな文化もある時代にはそれらを経験しているのである。
サドはロックよりむしろホッブスに従う。攻撃性は人間の本性に由来するものである。後にニーチェはこれを権力への意志と呼ぶことになる。「自然に帰れ」というロマン主義者のスローガンは現代においてもなお [中略] 私たちの文化の隅々にまで浸透しているが、サドにとって自然に帰るとは、暴力と肉欲を押さえている歯止めを取り払うことにほかならない。私も同意見だ。社会が悪いのではない。社会は犯罪を抑止する力なのだ。
性の自由とか性の解放といったことは近代の妄想である。人間はもともと階層的な動物である。一つの階層性を廃止すると、おそらくはもっと不愉快な階層性がそれに取って代わる。自然界には階層があり、人間社会においてもさまざまな階層が次々に入れ替わる。自然界では弱肉強食が掟であり、適者が生存する。人間社会には弱者に対する保護がある。だがその社会は自然に対する脆弱な防壁である。
性はフェミニストたちが考えているよりはるかに暗い力である。行動療法によるセックス・セラピーは、罪悪感も欠点もないセックスがありうると信じている。だが性はどんな文化においてもタブーに縛られてきた。性は自然と人間の接触点であり、そこでは道徳心も善意も原始的衝動に屈する。私は先にそこを交差点と呼んだ。
完全に人間的なエロティシズムなどありえない。あらゆるファミリー・ロマンス*5には、どこかに敵意、攻撃性、無意識的な殺人願望がひそんでいる。子供というのは、その利己主義と意志がいまだまったく拘束されていない怪物だ。なぜなら子供たちは、無道徳を暗示する悪意に満ちた自然から直接に生まれてくるのだ。人間はそのダイモン的な意志を一生もちつづける。ほとんどの人は教えられた倫理的戒律によってその意志を隠し、夢の中だけでそれに会うが、目覚めた瞬間に忘れてしまう。権力への意志は生まれつきのものだが、ファミリー・ロマンスの性的なシナリオは後天的に習得されるものである。
哲学、科学、高尚芸術、運動競技、政治など、すべてのジャンルは男が発明したものである。しかし、闘争と獲得というプロメテウス的法則によって、女にも、獲得すべきものを獲得し、男の土俵で男と戦う権利がある。とはいえ女が自分自身を、そして男の女に対する関係を、どこまで変えられるかについては限界がある。人間は誰しも自然と格闘しなければならない。だが自然の重荷はどちらか一方の性に重くのしかかる。運がよければ、この自然の重荷が、女の達成を、つまり男が作り上げた社会空間の中での女の行動を、阻まないだろう。ただしエロティシズム、すなわち性的空間における私たちの想像上の生活は、必ず自然の重荷の制限を受ける。性的空間は社会空間と重なる場合もあるが、両者は決して同一ではない。
神聖不可侵なるものはすべて不敬と冒涜を挑発する。犯されうる犯罪は必ず犯される。強姦は自然の攻撃の一様式であり、社会契約によってのみ制御しうる。現代のフェミニズムの最もナイーヴな公式は、強姦は性犯罪ではなく暴力犯罪であり、性の仮面をかぶった権力にすぎない、という主張である。だが、性は権力以外の何ものでもなく、権力はその本質からして攻撃的である。強姦とは男の権力と女の権力との闘争である。強姦は、殺人をはじめ、他人の市民権に対するすべての侵害行為と同じく、許されるべきものではない。社会が女たちを強姦から守っているのであって、一部のフェミニストの馬鹿げた主張のように、社会が強姦の原因であるわけではない。強姦は、自然が私たち全員に植えつけ、文明が保ち育ててきた、権力への意志の性的表現にほかならないのだ。したがって強姦犯は、社会化されすぎているのではなく、あまりに社会化されていないのである。世界中のどこを探しても証拠は転がっている。戦争や暴動などで社会の統制力が弱まると、文明化された男たちですら非文明的な行動をとるようになる。強姦もそうした行動の一つである。肉体の潜在的隠喩がある限り、強姦はなくならない。強姦とは、セックスの基本的動作の強度が増しただけのことである。
フェミニズムは、比較的穏健な女の立場に立っているために、強姦における流血への渇望、すなわち暴力と破壊の悦びを完全に見落としている。冒涜の性愛美学-----悪のための悪、残虐と拷問による感覚の鋭敏化-----は、サド、ボードレール、ユイスマンによって記録されてきた。女がそうした空想に耽りにくいのは、その肉体に性的暴力のための道具がそなわっていないからだ。だから女は、他者の肉体という聖域に無理やり侵入することの魅力を知らない。
そうした空想に関する知識を増やしてくれるのはポルノグラフィだ。だからこそポルノは容認されるべきだ。もちろん公の場では制限されるべきであろう。だが、想像力を管理することは不可能だし、管理してはならない。ポルノグラフィは私たちに、社会的慣習の外側で働いているあの永遠の力、すなわち自然のダイモン的神髄を見せてくれる。ポルノグラフィと芸術とを引き離すことはできない。ヒューマニスティックな批評家たちが考えているよりもはるかに、両者は相互に浸透し合っている。
ポルノのもつ男性的な明示性は、見えないものを見えるようにする。見えないものとはすなわち女の冥界的内面性である。ポルノは不安を掻き立てる女の暗闇に、アポロン的な光をあてようとする。ポルノが下品な形でねじれているのは、蛇のようにもつれたメドゥーサ的自然の反映である。ポルノは、きわめて激情的な行為に打ち込んだ人間的想像力である。ポルノの侵害は、自然による私たちの自由の侵害に対する抗議である。ユダヤ=キリスト教は当然ながらポルノを弾圧しようとしたが、もしポルノを完全に弾圧できたら、それは西洋の頑固な異教に対する勝利となるだろう。だが、たとえ弾圧されても、ポルノは地下にもぐり、ますます非合法性を強めるだろう。ポルノの没道徳的な視覚主義は、贖罪の言葉への人間的崇拝に対する反駁として、永遠に生き続けるだろう。言葉は、異教的自然の残酷な氾濫をおさめることはできない。
想像力のあるところ、必ず神話がある。私たちは想像力と現実との間の裂け目を甘受し、社会の中では耐えられないような恐怖や強姦や手足切断を、芸術の中では許容しなければならないのかもしれない。というのも、芸術は彼方からのメッセージであり、自然が何をしようとしているのかを教えてくれる。現代のヒューマニストたちの計画表の中でいちばん無視されている、あるいは抑圧されている項目は、性ではなく残虐性である。私たちは冥界的なるものを讃えねばならないが、必ずしもそれに屈服する必要はない。ポープは『髪の毛盗み』の中で、性の戦争の唯一の解決法は良質のユーモアであると唱えている。私たちの冥界的自然への隷属についても同じことが言える。私たちは苦痛を甘受し、できる範囲で変更を加え、あとは笑うしかないのだ。
性のペルソナ〈上〉古代エジプトから19世紀末までの芸術とデカダンス
- 作者: カミールパーリア,Camille Paglia,鈴木晶,浜名恵美,入江良平,富山英俊
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1998/08
- メディア: 単行本
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*1:前回の記事につけられたブコメで言うと、このあたりのことを意識していると感じるのはid:y_arim氏の発言(「犯罪(性犯罪=性暴力)とエロは、排他の関係にはないのだと思います」)くらいである。/追記:無論ほとんどの人は、セックスをする時はそれを暴力などと考えないし、そうした振る舞いもしないはず(書くまでもないと思ったが念の為)。
*2:この「」に意味があることはもう言わなくてもわかりますよね?
*3:パーリアの著作は、日本では『セックス、アート、アメリカンカルチャー』(河出書房新社、1995)の方がポピュラーでよく読まれているようだ。確かに『性のペルソナ』は本体6800円で上下巻あるので、ちょっとお財布に痛い。
*4:ここではほとんど触れる余裕がなかったが、パーリアは女性を自然に強く紐つけられたものとして描き出し、それゆえに男性は女性を恐れるという見方を示している。参照:http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20100425/1272129261#c1272155578
*5:自分の出自を巡る幻想のこと。