赤名リカとAV女優、ヘアヌードが「破壊」したもの、「破壊」できなかったもの - その1

なぜ「ある日とつぜん、綺麗な女の子たちが、アダルトビデオに出るようになってくれた」のか。 - 消毒しましょ!


これに乗っかって書くとまた「大野さんはオレのエントリが珍しくブクマ数を稼ぐと、自分は綺麗な女の子ともアダルトビデオとも全く無関係であるのに大喜びで駆けつけて自分のエントリの宣伝を始める」とか言われそうで厭なのだが、『東京ラブストーリー』を初めとしたドラマ分析を「面白いけど長過ぎる」と編集者にバッサリ切られて臍を噛んだ覚えのある者としては、一言(以上)言いたいことがあるので書かざるを得ない。長くなるので二回に分ける。


主に80年代を検証する『若者殺しの時代』(堀井憲一郎講談社現代新書、2006)は、20〜30代の若い世代にとっては「なるほど、そういうことだったんだ」といった発見がたくさんあって面白いだろう。私などは58年生まれの著者と同世代なので、「ああそうだったな」「うわ懐かしい(恥ずかしい)」という感慨の中で興味深く読んだ。
ただひっかかるところもないではない。「若者」が消費の主体とされ搾取され「殺」されていった時代の風景は鮮やかに読み解かれているものの、この世代の男性に多い(いやあらゆる世代の男に共通したと言ってもいいかもしれない)女性に対するいささかロマンチックな、もっと言えば旧態依然とした認識もうっすらと垣間見える。
元記事で引用されていた箇所に沿って、このあたりの堀井の論理展開を再度追ってみよう。


東京ラブストーリー』分析の中で堀井は、視聴者の女性たちは「男に合わせる有森也実さとみ的人生を拒否し、自分を押し通す鈴木保奈美リカ的人生を選んだ」(p.132)*1とし、「自分らしい生き方は譲ら」ず、「女性であることも手放さ」ず、男に「自分からは折れない」姿勢によって、恋愛の「レートを上げて、自分の首を締めてしまった」と言う。
このドラマ(及び赤名リカ)を「個の強過ぎる時代」(90年代)の象徴的先駆けと堀井は看做し、続いて90年代に入りAV女優の質が劇的に向上したことを指摘する。その原因については「なぜだかわからない」としながらも、それまでのように「処女性」という「聖性の向こうに潜んで」いたら「男を女性サイドには引き込めない」(p.135~136)といった、若い女性の性に対する認識の変化が既に80年代に起こっていた点に言及している。


AVの量、質両面の拡充とヘアヌード写真集の氾濫。その皮切りとも言える91年の宮沢りえヘアヌード写真集を堀井は「ある種の破壊行為」と呼び、「おそろしい時代になった」「時代の何かがおかしかったのだろう」「意味がわからなかった」と当時の衝撃を語り、次のように結ぶ。

女性は聖性に隠れることと、性的露出とを混ぜてしまい、うまく融合させないまま、外に漏れ出させてしまった。赤名リカが望んだ地平に到達したのだとおもう。でも、あまりみんなが幸せにはならなかった。赤名リカたちは解放戦線として戦い続け、敵の防御最終ラインを突破したが、そのまま突き進み、解放運動とは無縁の存在になってしまった。横から見ていると、ただの破壊者にしか見えない。(p.139)


飛ぶ鳥を落とす勢いだったアイドル宮沢りえヘアヌード、それまでの恋愛ドラマのヒロイン像を塗り替えたと言われる赤名リカ(とそれに準じる者たち)の振る舞いを、「破壊」と捉える視点。
何が「破壊」されたのか。「みんなが幸せに」なる(と堀井が思っているような)男女関係だ。もっとはっきり言えば、男が女に対してこうあってほしいと願うイメージ、つまり女への男の幻想だ。それを彼女たちは「破壊」した。ここにあるのは、60、70年代を通じて「処女性を保ち、聖性を掲げ、その向こうに隠れるようにして商品価値を保っていた」(p.135)はずの女の子たちが、どんどん自分の見知らぬ存在になっていくことへの、男の恐れと不安である。


つまりこの本の恋愛事象に関する記述に通奏低音のようにして流れているのは、「女がわからない」「女にはついていけない」という男の呟きなのだ。それに心から共鳴できる人は一層面白く読めるだろうが、堀井と同じ時代を生きた私から見れば、ちょっと男性視点に偏り過ぎでは?という印象が否めない。
80年代はたしかに「女の時代」などと、女がやたらもてはやされた時代であった。消費の主役として祭り上げられたことによって、何もかも手に入るのだと勘違いしたまま突っ走り、結局「幸せにはならなかった」三高願望女は少なくなかったかもしれない。
だが東ラブ効果とAV、ヘアヌードの氾濫について、女が自分の市場価値=レートをつり上げて突き進み「自分の首を締めてしまった」とだけ結論づけるのは(そういう部分もあることは否定しないが)、一面的に過ぎると思う。



東京ラブストーリー』は一言で言えば、ジェンダー規範に違和感を覚えそれに抵抗しようとする女(リカ)が、規範を内面化した女(さとみ)に敗北する物語である。リカと恋愛関係になりながら最終的にさとみを選んだ織田裕二演じる完治が、どこにでもいそうな平凡で真面目で純朴な好青年として描かれたことは重要なポイントだった。
小倉千加子は、このドラマについて「赤名リカは男の子に愛されるには女の子はどうあらねばならないかという「教訓」ではなく、女の子が自分に正直であっては決して男の子に愛されないのだという「真実」を教えました」と看破した。
以下、小倉の論(「『東京ラブストーリー』、『やまとなでしこ』に見る結婚と愛の劇的変化」/AERA Mook「ジェンダーがわかる」(2002)に収録)から抜粋してみよう。

[…] 困ったときには泣きそうな声で完治に電話をしてくるさとみのような女性を「封建的」で古いタイプと呼ぶのは間違いです。実はこういうタイプこそ「近代的」で女性ジェンダー・タイプなのです。自分が守ってやらなくては、飛んでいって慰めてやらなくては、と完治の中の「男らしさ」のスイッチを押し続けるさとみのような女の子がいればこそ、男の子は対照的な「男」のジェンダーを安心して演じられるわけです。

さとみにはけっしてエゴがなく、無視無欲の存在で、男の子に尽くすことを心底望んでいると男の子に思い込ませる仕掛けが「近代結婚イデオロギー」です。赤名リカの中には完治が理解できないブラックホールがありました。 [中略] その重い荷物とは、女の子の「意識」のことです。ジェンダーという、「女の子はかくあるべし」という規範に収まりきれない自己への「意識」のことです。「東京ラブストーリー」は女の子が「意識」の量をあまりに多く持ちすぎると、「女」のジェンダーから逸脱してしまい、どんな誠実な男の子にでも選ばれることはないという「真実」を教えたのです。

平凡な意識をもった完治には幸福な家庭があり、ジェンダー規範と密かに戦ったリカは「孤独」を引き受けるという悲劇でありながら、リカは多くの視聴者に「赤名リカは私だ」と思わせるものを備えていました。女の子は関口さとみが嫌いだったのです。しかし多くの女の子にとって、関口さとみ的生き方以外の生き方が許されていたでしょうか。


リカは単に「自分からは折れない」、恋愛の「レートを下げない」女ではなかった。彼女は心から完治を愛しており、彼を喜ばせたり、楽しみを共有しようとした。*2 ただその"方法"が、さとみとは違っていたのだ。完治のような男にとってリカは最初「新鮮」ではあってもやはり翻弄される疲れる存在であり、「癒し」ではなかったという話だ。
男が選ぶのはいつの時代でもさとみである。*3 この「真実」の苦さと重たさを受け止めつつ、視聴者は圧倒的にリカを支持した。このドラマが視聴者の女性を深く捉えたのは、彼女たちがリカに憧れながらも現実ではリカにはなれないという葛藤を抱えていたからだ。


「自分からは折れない」、恋愛の「レートを下げない」女は、東ラブ以前の80年代バブル期の産物である。80年代になってan・anは恋愛特集を時々組むようになり、自分の欲望に正直に生きよ、男から欲しいものを取れ、恋愛で優位に立てと啓蒙してきた。バブルまっただ中の89年4月には初めて「セックスできれいになる」特集号が発売され、即日完売した。
東ラブが放映されたのは91年の1月から3月。バブル崩壊直前である。80年代の金と欲にまみれたゲーム的恋愛観とそれを反映した「トレンディ・ドラマ」への反省の名の元に、フジの純愛ドラマシリーズの第一弾として登場している。男を経済力というタームで査定し、自分を高く売りつけようという80年代的価値観は、そこではきれいに払拭されている。


リカは86年の男女雇用機会均等法施行以降に社会に出てきたいわゆる「キャリアウーマン」の代表であり、だからこそ(小倉の言う)「意識」=自意識を多く抱え込んでいた。女の自意識とジェンダー規範は常に軋轢を起こしている。そんな中で彼女はナイーヴにも「愛」という理想を信じ、見えない規範が張り巡らされた現実の前に敗れ去った。
そういう意味で、彼女は「破壊者」ではない。むしろ「破壊」に失敗したのだ。


91年のリカの敗北を受けて2000年に誕生したのが、同じくフジテレビの月9ドラマ『やまとなでしこ』の神野桜子だと小倉千加子は分析する。
桜子はリカがもっていた「意識」と「愛」を捨て、社会で男性並みの収入を汗水垂らして得るような「キャリア」志向も、仕事と家事・育児の両立という苦しい選択も捨て、経済的に十分に保障された結婚をするためにジェンダーを仮装すると言い切った。視聴者はそのあけすけな台詞(女の本音)に「よくぞ言ってくれた」と拍手喝采した。
小倉はこう結論づける。

赤名リカの双子の妹が神野桜子なのです。結婚と愛とジェンダーの関係はわずか10年で劇的に変化しています。しかし、底に流れるテーマは不変です。「対等な愛の不可能性をわれわれはいかに生き抜くか」です。



元エントリの記述。

未だに「理想年収は1000万円以上」などと言っているところを見ると、相変わらずレートを下げる気はない様である。「90年代の恋愛ドラマは、バブル後の女性に対する処方箋だった」と堀井は言う。男はもう「ついてこなくなった」というのに、それらが「女性の夢をつないでくれた。理想を捨てなくていい、と励ましてくれたのだ」。


この20年間、女の多くはバブルの時から一貫して「相変わらずレートを下げる気はない」存在なのだろうか。そんなわけはない。極端な例を持ち出して「婚活」女性を揶揄したメディアを鵜呑みにした、あまりに皮相的な見方である。
堀井は、東ラブに続く90年代の恋愛ドラマを「理想を捨てないでいい、と励ましてくれた」が、「あまり幸せな世界へとは直結していなかった」と書いている。後者は、当時を思い起こせば当たり前のことである。
91年春のバブル崩壊から長く続く不況と閉塞感は、人々から徐々に希望とやる気を奪った。離婚と自殺とひきこもりとリストカットが増えた。そんな中で「幸せな世界」を夢見ようとしてもリアリティがなさ過ぎる。


90年代のテレビドラマ界を席巻していたのは、野島伸司脚本のドラマである。ラブコメだった『101回目のプロポーズ』(91年)とヒューマンドラマ『ひとつ屋根の下』(93年)を除けば、かなりのシリアスタッチで容赦ない内容のものが多かった(『愛という名のもとに』(92年)、『高校教師』(93年)、『この世の果て』(94年)*4、『人間・失格〜たとえば僕が死んだら』(94年)、『未成年』(95年)、『聖者の行進』(98年)など)。
野島ドラマ以外の恋愛ドラマでも、障害の多い深刻ムードが受けていた(『星の金貨』(95年)、『愛していると言ってくれ』(95年)、『失楽園』(97年)、『青い鳥』(97年)、『魔女の条件』(99年)など)。*5
視聴者の女性はそこに描かれるイバラの恋愛道を「理想」と看做し、「理想を捨てないでいい、と励ま」されたのだろうか。厳しい状況に追い込まれて苦悩する主人公に半ば感情移入しつつ、こんなふうに純粋に生きたいけれども現実には不可能だと、諦観の中で確信していたのではないかと思う。


この時代に流行った「自分探し」は結局どこにも行き着かず、均等法はザル法と言われつつ改正を繰り返し、多彩で魅力的な女性イメージ、「女性の生き方」が消費文化の表面に浮遊してはいたが、誰もが「自由な選択」をできるわけではなかった。だからそうした90年代の現実を通じて「幸せ」を夢見る女性たちの多くが辿り着いた回答は、ジェンダーを仮装し、「金」と「顔」を交換*6して生き延びようとする神野桜子の戦略だったのだ。
だが00年代、「愛」は諦めて「金」を求める桜子たちの要望を叶えてくれる男性など、もういなかった。誰も彼も自分の生活の防衛で精一杯だった。


それにいち早く気づいた女性たちは現在、もっと現実的なレベルで結婚を求めている。昨年、本に書く必要があって現代の結婚事情についての様々なアンケートを見たが、ある求人サイトのモニターリサーチによれば、相手に求める年収の第一位は500万〜700万(約4割の女性が希望)とサラリーマンの平均年収からすると高いが、第二位は300万から400万(約3割の女性が希望)と現実的な数字に近づいていた。
「三高」の中で最後まで残っていた「高収入」は、「三低」の「低リスク」(正規雇用)にまで後退している。正規雇用の困難な人が増えているのだからこれも当然であろう。そして依然として、若者にとって結婚は難しいものになっていると言われる。
もしも、と私は思う。東ラブの完治が最後にリカを選んでいたら、その選択がリアリティのあるものとして受け止められるような環境が社会にもプライベートにもその時あったら、現在の少子、晩婚化はここまで進行していただろうか?



続きは次回。AntiSepticさんが堀井テキストから読み取った「ある日とつぜん、綺麗な女の子たちが、アダルトビデオに出るようになった」理由、その他について、若干の疑義と別角度からの補足を試みたい(たぶん今回よりは短くなる‥‥予定)。



●5/2追記:続きアップしました(すいません長いです)。


●関連記事
日本の純愛史 12 『東京ラブストーリー』のウケた理由 -90年代初頭(1)
日本の純愛史 13 『101回目のプロポーズ』の欺瞞 -90年代初頭(2)
日本の純愛史 14 『高校教師』のご破算願望 -90年代(1)
日本の純愛史 15 『この世の果て』にみる純愛の限界 -90年代(2)

*1:有森也実は「関口さとみ」を演じ、鈴木保奈美は主人公の「赤名リカ」を演じた。

*2:「24時間好きと言ってて」などという無理難題をぶつけたのは、完治の気持ちがさとみに向かってグラつき出したのを察知してからだ。つまり煮え切らない態度の恋人に「はっきりして。私は不安」と訴えているわけ。

*3:リカの直球ぶりは当時の演技や演出の加減もあってか、今見るとどこか無理しているような不自然な感じすら漂っている。いずれにしてもリカのような女を「面白い」と、さとみを「退屈だ」と感じる男は、かなり少数派だろう。恋愛ではリカが良くても結婚するのはさとみという男は多そうだ。

*4:純愛を過激に生きるあまり、最終的に「破壊」される(あるいは自壊する)ヒロインを東ラブで一躍人気女優となった鈴木保奈美が演じて、また話題になった。

*5:追記:これら以外では、キムタク主演の『ロングバケーション』(96年)、『ラブジェネレーション』(97年)なども高い視聴率を稼いだ。

*6:『結婚の条件』(2003、朝日新聞社)での小倉千加子の指摘。「結婚とは「カネ」と「カオ」の交換であり」(p.29)▶5/6追記:どうやら『結婚の条件』を読んでない人が、小倉が書いているのが結婚の実態(金持ちの男と美人なだけの女が結ばれる)だと勘違いして「そんな実態はありません」という内容のエントリを上げてしまった。http://d.hatena.ne.jp/chazuke/20100501 いやはや。読まずに書いてしまうとは(しかもすごく釣れてるしw)。小倉がその箇所で書いてるのは現実の結婚の実態ではない。2003年までに彼女がリサーチした若い未婚男女のアンケートに見る「結婚の条件」の傾向であり、彼らが相手に求めていたことが「カネ」(女が男に)と「カオ」(男が女に)だったという話である。もちろんあからさまにそう書いているわけではなく、小倉が端的な言葉に置き換えたものである。当時既に散々言われていた少子、晩婚化の傾向の一要因を、小倉はこの現実を無視した高望み傾向だろうとしている。この記事もそれに準じてドラマヒロインの願望として書いているのであって、現実の結婚について言っているのではないことは読めば明白。