disり屋消毒が私をやたらと「レートを上げた女」にしているのだがどうしたものか。

堀井憲一郎の『若者殺しの時代』に言及しているAntiSepticさんの記事に突っ込んだ先日の続き記事2本(これこれ)に、本人から反論をもらった。
大野左紀子は赤名リカである。プッw プププw - 消毒しましょ!


これについて言いたいことは

東ラブ→やまとなでしこの見立てが単純過ぎ。レート上げよ(独身で仕事に邁進or共稼ぎ家事分担)→苦労→金に条件絞れ(新・専業主婦志向)だよ?/女はまとめて「バカ」だったとして男の問題に一切触れないのは何故
http://b.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20100505#bookmark-21292675

で殆どすべてだが、せっかくなので消毒風の絨毯爆撃方式でいってみる(横線の区切りは元記事に準じている)。




売春だけが「性の商品化」などと思っている時点で既に話にならない

そんなことは一言も書いてないのに「思っている」と決めつけているのがおかしい。AntiSepticさんがTwitterすべて岸田秀の受け売りとして書いていたこと、つまり女にとっての結婚=終身契約売春制度は、かなり昔にラディカル・フェミが言っているが、それを私が知らないとでも?

こともあろうにブックバカーどもの「ブコメから異論を拾って」くるとは堕ちたものだ。

そっちの書き方に問題があるとコメ欄で指摘した。繰り返すが、結婚を諦めた女がAV・ヘアヌード市場に大量移動したなどという事実はない。なのに明らかにそう読めるように書いている以上、それに対してさまざまな異論が出るのは当然。大勢をミスリードさせるあの一文を入れた方が悪い。いつも「ブックバカーども」のせいにせず、たまには自分の文章の「効果」がどういうものであるか客観的に顧みるべき。


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戦前なら兎も角、90年代に「男の選ぶ女はいつの時代も同じ」なんて当たり前のことを教訓として受け取るような間抜けな女などいるわけがない。そんなことはいまさら人に言われなくとも分かり切った話であり、こんな古臭い概念を「メッセージ」としたドラマが現代においてヒットすることなどあり得ない。むしろ反感を買う可能性が高かったとさえ言える。

ドラマってものを全然わかってない。新しい意匠のもとに「メッセージ」として届いたのが 「古臭い概念」だったからこそ突き刺さったのだ。これぞシェイクスピアから連綿と続く悲喜劇の王道である。その分、当時はもちろん「反感」も買った。最後はリカに勝たせてくれという多数の声を初め、「ハッピーエンドにしないならフジテレビに放火する」「カンチとリカが結ばれないなら生きる希望がなくなる」という電話や投書まであった。

本当に女性がさとみを支持したのであれば彼女らは男に合わせて即座にレートを引き下げた筈であり(年収など問わない。少なくとも自ら口にしたりはしない)

「女性がさとみを支持した」などと私がどこで言ったのか。(ほとんどの女は)「リカに憧れながらも現実ではリカになれないという葛藤を抱えていた」「多くの女の子にとって、関口さとみ的生き方以外の生き方が許されていたでしょうか」(小倉千加子)と書いている。そういう現実を改めて端的に鮮やかに意識させたから、あのドラマはヒットしたのだ。

[…] 結果として「やまとなでしこ」も製作されることはなかったであろう。「男の選ぶ女」は「やまとなでしこ」のように男を金蔓としか見ない女ではない。そんなものはそもそも大和撫子ではない。その程度のことは女性だってよく分かっている。いくら上手く隠したところで無駄だ。

やまとなでしこ」を見てないようだから勘違いするのも仕方ないが、ヒロインの桜子は「上手く隠し」てジェンダーを完璧に仮装した、普通の男から見れば理想の女。

「東ラブ」が訴えていた「メッセージ」は「レートを下ろすな」に他ならない。「己の欲求を放棄することなく、それでも(リカの屍を踏み越えて)男を確保せよ」である。だからこそ「東ラブ」は女性から支持され、

それはドラマの途中まで。リカの積極性を「お手本」と持ち上げた女性メディアは多かったが、最終的にはリカをやれば「男は確保」できないことはわかったのだから、「メッセージ」は「レートを下ろしてさとみになるか、下ろさず一人で生きるか」になる。その選択にリアリティを感じさせたから、女性から支持されたのである。
素直にさとみをやれた人はまだいい。後者を選んだ人は、仕事に邁進するか(それでも成功すれば御の字だがそうはなかなかいかない)、たまさか結婚しても共稼ぎを巡るさまざまな問題に突き当たってジタバタした。


「東ラブ」(91年)から「やまとなでしこ」(00年)に至る女性を取り巻く環境はざっと以下の通り。
90年代初頭、リカ世代が均等法世代と持ち上げられたのに反して職場の男女差別や格差は残っており、女にとってガラスの天井はまだあった。結婚すればしたで、共稼ぎなのに家事育児は全部自分の肩にかかってきた。
90年代半ば頃でまだバブル時代の三高(高学歴、高収入、高身長)を求め専業セレブの座に拘っていたのはごく一部。女性も男性も専業主婦を理想とする人は激減し、女性の多くは共稼ぎで家事育児分担、あるいは出産して一時休業の後再就職(これは男女共に希望が多かった)というパターンを望んでいた。だがそれは思ったようにうまくいかなかった。会社の男も家の男も、そう簡単に意識や振る舞いを変えられなかったからだ。
変えられるのではないか、変わってくれるのではないかと思ったのは、男に対する見込みが甘過ぎたせいであり完全に女の側の誤算である。だから「破壊」に失敗したと書いた。
そういう先輩達の苦労を見て、フェミの煽りや「女の時代」などのかけ声に乗せられて社会に出たのが間違いだったと悟ったリカの後の世代から、女ジェンダーを仮装して男に年収だけを求める新・専業主婦志向が出てきたのである。「借金まみれのハンサム男と裕福なブタ男、どっちが結婚して女を幸せにしてくれると思いますか?」(『やまとなでしこ』桜子の台詞)。


AntiSepticさんのドラマ解釈には、当時の多くの女が直面していたこうした状況への目線が全くない。ひたすら(ドラマや雑誌などの消費文化に洗脳された?)「女がレートを上げた」ことに拘っているが、その理由を社会背景とその影響に沿って見ることなしにアレコレ言っても話にならん。

「東ラブ」がレートを上げていたからこそ「やまとなでしこ」も存在し得たのであり、現代の大和撫子はレートを上げたまま狡猾に振舞え、というのがこのドラマが発していた「メッセージ」に他ならない。「やまとなでしこ」が「回答」であるとしたら、このような意味において以外にはあり得ず、大野さんの見立ては完全に間違っている。

「完全に間違っている」のはそっち。「東ラブ」もちゃんと見たのか怪しい。
「東ラブ」は80年代の「お姫様になりたい」という金本位制のレートを思い切って引っ込め、「裸の自分を受け入れてほしい」というナイーブ過ぎる、男にとっては「お姫様」よりずっと高いレートを掲げたのである。幻想を通してしか「女」を見れない男(これは男の宿命だから仕方ない)が「裸の女」を直視できるわけがないことは薄々知っていたが、戦後、男と同じように進学し就職し男は「仲間」でも「同志」でもある、ならば「恋人」にも(結婚まではまだ考えてない)‥‥と錯覚したリカのように、つい期待をもってしまった女が巷にたくさんいたから、このドラマは受けたのだ。当然その期待は裏切られた。
つまり「裸の自分を受け入れてほしい」女はいくら真剣に相手を好きでも最終的には選ばれない、さてどうする?というのが「東ラブ」で、「愛」など捨てジェンダーを利用して「金」を取れ、というのが「やまとなでしこ」の「回答」。


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「東ラブ」はレートを「上げろ」「下げろ」という正反対の「メッセージを同時に発信していたものと仮定する。そこで我々がすべきことは、人が相反する2つのうちの片方を選択的に受信したとき、それはどのような類の人間であったかを考察することである。

あのドラマに相反するメッセージがあったというのは正しい。だがテレビを見ていた女性達は「片方を選択的に受信」したのではない。どちらも受信していた。これについては後で書く。

前者(「レートを上げろ」)を「メッセージ」として受け取った人とは、それまではレートを下げていた女たちに他ならない。すなわち伝統的な規範に縛られて、結婚相手の年収をあからさまに問うたり、自分から男に堂々と言い寄っていくなどという「はしたないこと」はしなかった人たちだ。それは両親や親戚やお見合いババアの仕事であって、当の花嫁候補がするようなことではなかった。してはならなかった。彼女たちはテレビに「やれよ。やっていいんだよ」と言われて初めて「よっしゃあ! やったるか」と勢いづいたのだ。すなわち「やまとなでしこ」の誕生である。

ドラマ見ずに書くとトンチンカンになるからやめた方がいい。「やまとなでしこ」の桜子は利口だから「結婚相手の年収をあからさまに問」うような、男に一発で嫌われるアホな真似はしてないし、リカのように「自分から男に堂々と言い寄っていくなどという「はしたないこと」はしなかった人」である(元記事でも「ジェンダーを仮装」と書いておいたのにわからなかったのか)。
だいたい、1991年になってもジェンダーを完全に内面化していたような絶滅危惧種の女が、「東ラブ」見て「やったるか」になるわけがない。むしろさとみの勝利に安心するはずである。

ここまで分かれば答えは出たも同然、後者(「レートを下げろ」)を「メッセージとして受け取った人とは、先ほどとは逆に、既にレートを上げていた女たちであることが分かる。それが大野さんらフェミニストたちである。

女を「レートを下げている」か「上げている」かで語るのがそもそもおかしい。わけのわからん「女」をカテゴライズして理解した気になりたがる男の欲望丸出しである。男を「女を顔で選んでいる」か「性格で選んでいる」かできれいに二分できるのか? 女も同じことである。


91年当時、私より若い20代の女たちの間では、完全なさとみも完全なリカもほとんどいなかった。ドラマ終了直後は「リカ、やっぱりカッコいい」「カンチみたいな奴は駄目」「男はみんなカンチだ」「恋愛で失敗してもリカになりたい」という意見が多数派だったが、さとみが嫌われたのはむしろ同族嫌悪からだった。リカに憧れる分、自分がさとみ的でもあること、むしろさとみをやった方が楽だと思っていることを認めたくなかったという面が強い。
つまり若い女性たちの多くはフェミ的な面と規範従順的な面を同時に持ち合わせていた(それらの割合にある程度の差はあれ)ということであって、AntiSepticさんが言うような「規範に縛られた女」か「フェミニスト」かという単純な図式では何も説明できない。

フェミニズムだって従来の恋愛や結婚をより困難なものにしたという意味では、やはり「レートを上げる破壊者」なのである。

そうだけど? ラディカル・フェミはもともと結婚制度そのものに反対のはず。そういう考えは一般に受け入れられないから、「男女共同参画社会」っぽく結婚制度内平等を目指すリベラル方向にかなり前からなっているではないか。

問題意識の高い大野さんはフェミニズムやらジェンダー理論やらを一所懸命勉強することによって既に自らのレートを上げまくっていた。その上で伝統的な規範に従う女が勝利するドラマを見たがために「やっぱりそうかケッ」と思い、後者を「メッセージ」として受け取るという誤謬を犯したのである。

91年当時は30過ぎでとっくに結婚していたし、フェミ本は通り一遍読んでみて当たり前のことを言っているように思え退屈だった。ドラマについては「これでハッピーエンドならリアリティがない」と思う程度には歳とっていたから「ケッ」はない。リカのイタさには少し前の自分を見るようで同情したが。

商業主義が世俗の女たちにレートを上げろと誘惑するずっと以前から自分が同じことをしてきたという事実を都合よく忘れていたから、単なるストーリー上の結末を作品そのものの主張と混同してしまったのだ。

間違い。「ストーリー上の結末」も「作品そのものの主張」も、「リカは自分の気持ちに正直に生き、男に選ばれなくても最後まで走り抜いた。偉い」だ。*1 「ヒロインの失恋」というそれまでの月9恋愛ドラマの禁じ手を採用しつつ視聴者を慰撫するには、そういう描き方しかなかった。
そこから視聴者は「レートを下げるな」(自分に正直に生きるのがいい)という表向きのメッセージを受け取りながら、同時に相反する「レートを下げろ」(男に合わせない女は選ばれない)も受け取ったのだ。その程度にはこの時期のTVドラマ視聴者は成熟していたと小倉千加子は分析している。*2 この二重性は「やまとなでしこ」にもある(「愛より金」が最後で一見「金より愛」に反転したかに見えるがそれは建前で実は「愛も金も」)。


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従って次の段の(フェミニストは)「男にとって都合のいい形でしか女は選ばれないという現実を否認し続けてきたからこそ」却ってメッセージを読み違えた、というのも見当外れな指摘。
私は数年前、「東ラブ」分析を本に書くために当時の女性向け雑誌他の資料を調べまくって得た結果を元にして、あの記事を書いている。フェミニストであろうが誰であろうが、リアルタイムでドラマを見ていた女性視聴者は正しく相反するメッセージを受け取っていた。視聴者をバカにしてはいけない。


なぜ女性たちにそうした二重のメッセージの受容が可能だったのか。「レートをあげろ」と「レートを下げろ」は、ほぼすべての戦後の中流家庭の女の子が言われてきたことだからである。
多かれ少なかれ「いつか王子様が」幻想を子供の頃に植え付けられるという点で、物心ついた時から「レートを上げろ」(安売りするな)と言われていたし、それと同時に「女の子はどうやったら男の子に選ばれるか」も植え付けられるから「レートを下げろ」(媚びろ)というメッセージも浴びている。この二つが絶妙にマッチングしているのが女のジェンダー

奇矯とも言えるストレートな恋愛表現が裏目に出てさとみに敗れ去った赤名リカ、ブランド品やシティ・ホテル(プッw)の豪華なディナーを要求する女たち、自らの出来具合は棚に上げて男の年収を問う女たち、そして様々な論理を駆使して女性の権利を主張するフェミニストは全て同じである。彼女らは徒にレートを上げたに過ぎなかった。男女の結び付きを困難にしただけであった。正しいが故に間違っている(©Midas)の好例である。そのくらいのことは分かっていると大野さんは言うであろう。分かっていない。自ら記したブコメとアホ丸出しのエントリがそれを立証している。

反対側から言っているだけで、結局は「男の選ぶ女はいつの時代も同じ」という私のブコメと同じことではないか。新たに出現したさまざまなタイプの女に多くの男は対応できず、昔からいるジェンダー規範を内面化した女(まあそれも仮装かもしれないが)を求めたんだから。
男から見たら完治は羨ましかっただろう。ちょっと毛色の変わった女とつき合って刺激を受け、最後は昔からマドンナと憧れた家庭的な女と結婚した。おいしいとこ取りだ。


だが近代資本主義の行き着くところの高度な消費社会の到来と近代思想が生み出したフェミニズムの影響は避けられなかったのだから、どっちにしたって「男女の結び付き」は「困難に」なったのである。それに長引く不況が重なって、晩婚化と少子化が進行した。
ならばこれまで男女は何で結び付いていたのか、そこに戻れる道はあるのか、もしないとしたらどんな道があるか、とくと考える良い機会に恵まれたと思えばいい。*3


私が一連の記事を書いたのは、「女がどうしてもレートを下げないばかりにこんなことになってしまった。未だに「年収1000万」などと言ってやがる。やれやれ女はどこまでバカなんだwww」と言わんばかりの、すべての責任を消費文化やメディアに踊らされた女に押し付けようとしているかのようなAntiSepticさんの語り口に対する疑問からだ。そんな一面的な揶揄目線で物事が把握できるわけがない。
少なくとも堀井憲一郎は、持ち上げられ踊らされた女だけにすべての責任を帰するような書き方はしていない。女を踊らせたのは、(当時はまだ金のあった/女の後を追いかけたかった)男を踊らせ、女とつきあう金をじゃんじゃん使わせるためだ。ではいったい誰が最後に笑ったのか、誰が若者を煽るだけ煽って儲けて搾取して殺して勝ち逃げしたのか、という話である。堀井が一番問題にしているのはそこだ。


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ここからは元アーティストだった私個人を分析しているつもりらしいが、もう大笑いである。disり屋の純朴な女性観が伺われて味わい深い。

女だてらにアートに身を処すことなど、嘗ては自殺行為に他ならなかった(それは大野さん自身が誰よりも分かっていたことであろう)。男が女に求めるのは家庭を守って子育てをすることであり、ケッタイなオブジェを製作することに家計費と時間を費やすことではない。そんな女と結婚したい男など、余程の変わり者以外いなかった(旦那さんすいませんw)。

夫に聞いたら「オレは普通の男。うっかり騙されただけ」と言っていた。「女だてらにアートに身を処す」(なんだこの言い方はw)女の中にだって、時と場合に応じてさとみくらいやる女はいるんだよ。それで相手が喜ぶだろうなと思ったら、おでんの差し入れでも興味のない話をウンウン聞くんでも裸にエプロンでも何でもやっちゃうタイプはどんなジャンルにもいる。ほんと女のことがわかってないなAntiSepticさんは。

ところがどっこい、大野さんはちゃーんと結婚した。大野さんこそが成功した赤名リカに他ならない。決してさとみではない。アーティストでも結婚できたのだからレートは下がったと思った奴はバカだ。お前だ。従来は論外であった筈のアーティストなんぞをも結婚対象に含めなければならなくなったという事態こそ、レートが上がったことの証左に他ならない(すいませんすいませんすいませんwww)。そればかりか、彼女はアートを止めてからもジェンダー論なんかを大学で教えて相変わらずレートを上げている。相場は高値に張り付いたままだ。仕手筋よりも質の悪い女であるw

赤名リカがあのまま頑張っていたら、どっかの管理職かいっそ母親になっている。どっちにもなってない私と一緒にするな。「従来は論外であった筈のアーティストなんぞをも結婚対象に含めなければならなくなった」んじゃなくて、単に恋に落ちて若気の至りで突っ走っただけのよくある話。ジェンダー入門の講義をもったのは44歳からでレートもクソもない(そもそもその年代はとっくに市場から閉め出されてる)。

簡単に言えば、お互いに我を張れば両者とも不幸になるというだけの話だ。

「お互いに」と言うからには、男も「我を張っ」て女を自分の都合のいいレートに引きずり下ろそうとしてきたことは認めるのか。

男同士が我を張った場合、これまでは殺し合いによって解決が図られてきた。男女間においては力と制度で男が女を押さえつけてきた。単純明快である。しかるに、民主主義や人権といった概念が輸入された途端、それらは悪とされてしまった。ここに問題の起点がある。なぜ呉智英が封建主義を唱えていたのかが分かろうというものだ。

じゃあいつまでも「女がレートを下げない」とdisってないで、「問題の起点」からさっさと論を展開すればいいではないか。


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Feministたちはその明晰な頭脳と論理によって男に尻尾を振る同姓と自らを峻別してきたつもりだが、それ自体が大いなる思い違いである(敢えて思い上がりとは言わないでおいてやろうw)。

くだらん。そんな「峻別」をするフェミニストがいるとしたら、フェミの風上にもおけないね。
社会、政治状況のせいだけでなくフェミニズムの啓蒙の失敗が「男に尻尾を振る同性」を増やしたのだから彼女たちをバカにできるわけがない、私だって男に尻尾を振って楽しかったことがあるじゃないか、と私自身は思っているし、教条的且つ優等生的なかたちで広がったフェミニズムのもたらした弊害は、それを徹底的に批判するカミール・パーリアならずともいろんなフェミニストが多かれ少なかれ口にしている。だいたい「明晰な頭脳と論理」をもっているフェミニストなど一握りに過ぎない。どこの業界でも同じ。

いまさら違うと言ったところで無駄である。大野さんが「あのドラマのメッセージは『男の選ぶ女はいつの時代も同じ』」と言った時点でそれは証明されてしまった。高級ブランド品を要求する女は自分がレートを上げていることを知っていたが、同じことをしておきながらFeministsはそれに自覚的ではなかった。バカはどちらなのかという話であるw 失笑せざるを得ないw

「Feministsは」という主語を多用しているわりに、Feministsの意見はあまり読んだことがないらしい。上野千鶴子田嶋陽子の名前くらいしか知らずにこれを書いているとしたら、バカはどちらなのかという話であるw 失笑せざるを得ないw

面倒くさいから先に言っておくが、このようなことを書くとバカは直ぐにオレが前時代的なMisogynyを抱えた反フェミニストであると非難するであろうが、それ自体がバカである証拠だ。オレはフェミニストはバカだと言っているだけで、それが悪いなどとは一言も言っていない。

ふん。そんな頭の悪い非難を私がするとでも思ったか。そっちにあるのは、戦後民主主義にどっぷり浸かり「男女平等」やら「弱者の権利」やら「個人の自由」やら「表現の自由」ばかりを言い立て、希望の灯火さえ絶やさなければいつかは世の中が変わると思っている脳がお花畑の「バカ」への軽蔑と憐憫だろう。んなことはずっと前から知ってるわ。
だいたい「前時代的なMisogyny」なんてものはなく、ミソジニーはもともと男のジェンダーに刻み込まれている。残っているのは、それにどう蓋をして女とつきあっていくかという問題だけだ。

「可愛い」。これがフェミニストに対する最大の侮辱の言葉であるw けえーっけっけw

そんなふうに思い込んでる方がよほど可愛い。disり屋消毒は三回くらい屈折したカンチだな。さとみを仮装した桜子の生き残りに騙されないよう気をつけろw

*1:参照:http://d.hatena.ne.jp/ohnosakiko/20070303/1195498049

*2:小倉千加子がTVや芸能を通して女性の心理をどれだけ詳しく研究しリアルに論じているか、『松田聖子論』か『アイドル時代の神話』でも読んでみればわかる。

*3:『結婚の条件』で小倉が指摘していることだが、2001年の時点で、世界でもっとも出生率が低迷していたのは、イタリア、ドイツ、日本。第二次世界大戦の枢軸国(日独伊同盟)だ。「ファシズムの国家体制をによって、遅れていた近代化を一気に押し進めようし、結果的に連合国に敗北した三ヵ国が、戦後五十年経って少子化に見舞われているのである。少子化は、政治における何らかの問題の予期せぬ結果だと考えるのが妥当である。」(p.13)。