女をモノ扱いするのは男の仕様、あるいは男の性の脆弱性と所有欲について

今週は、女をモノ扱いし女の人格を尊重しない男が世の中には多いので、女性にとって性的に欲望されることは単純に歓迎できないという話のブクマタワーがどんどん高くなっていくのを、あっけにとられて見ていた。
おそらくここでも、内容の是非というよりは話法を巡って(もちろん話法は立ち位置に深く関係する)対立や齟齬が生じていると思われるが、それに深入り言及するのは避ける。


一つだけ、ブコメやハイクでid:simplemindさんが、何の得にもならないのに焼け石に水的な介入と議論整理の努力をされているのに少し感動した。特に感心したのは(別の記事のメタブだが)これ

自分の事を「殴るどころか怒った事もない優しい性格」だと長年思ってたけど単に人と距離を置いてただけだと結構最近気が付いた/自分の暴力衝動とどう付き合うかは強さとか優しさだけじゃなく経験とか技術も要るよね
http://b.hatena.ne.jp/simplemind/20100521#bookmark-21660138

暴力衝動=支配欲を見つめコトロールすることの重要性は皆わかっているが、具体的にどうしたらいいか。気持ちの持ちようだけでは難しいと言っている点に同意。



さて、元記事の主旨からは離れるが、こちらでコメントを頂いたこともあるので、男の「女をモノ扱い」について考察する。


世の中の男性がDQNと非DQNにきっぱり分かれていて、DQNはどこまでも女性をモノ扱いして蔑む女性の敵であり、非DQNはあくまで女性の人格を尊重しモノ扱いはしない人々だ、というふうには私は思わない。
「モノ扱い」が、避妊を拒否してレイプまがいのセックスに及んだり、体格や体力の差を利用して相手を痛めつけるといった暴力行為を指す場合は、明らかに人権侵害である。そういう極端な、女性の皆さん一刻も早く逃げてクダサイ!というような(カミール・パーリアの言葉を借りれば)「十分に社会化されていない男性」は残念ながらいる。
が、多くの男性は、セックスしたいと思った女性に対して、そこそこは「人として」尊重し(つまり最低限のマナーは守り)、同時にそこそこは女性をモノ扱いしているのではないかと思う。


この「モノ扱い」とは、一言で言えばフェティシズムだ。女の人格とは関係なく、姿形の性的魅力、造形やテクスチャーを「美しい」とか「可愛い」とか「魅力的だ」とか「○○がきれいだ」とか「△△が自分好みだ」などと評価し、愛でるということである。
アニメの少女からグラビアのヌードまで、キャバ嬢から制服の女子まで、女をモノとして見、欲情し、所有したいと熱望するのが、ヘテロ男性の性だ。そこにミソジニーが多く混じればセクハラや性暴力に繋がりやすくなるし、賞賛に傾けば恋愛感情になる。つまりモノとしての女に欲情を喚起されるということにおいて、DQNと非DQNの欲望の基盤は同じである。
女も審美的な目線で男を評価するが、男のそれは女の何倍も強い(ように見える)。女への男のフェティシズムは、男のジェンダーにしっかり刻み付けられている。それは「見る者」(=所有する者)としての男の宿命である。だから男に、「女をモノみたいに値踏みするな」といくら言っても効果はない。


男が女をモノとして見て評価しているからと言って、常にその女の人間性を無視したり蔑んだりしているとは限らない。しかし「セックスをするのに、あまりに相手を尊敬しているとできなくなる」と言う男性はいる。強い敬愛感情をもつ相手に性的欲望は抱きにくいし、恋人を尊重したいと思うあまりセックスを求めなくなることもある。
愛情は相手を喜ばせたいという利他的感情だが、性欲は相手を支配したいという利己的欲望である。それは、相手を人間というより女、モノとしての女、あるいはメスとみなすところから生まれる。相手を喜ばせたいという気持ちがなくてもセックスは可能だから、わざわざ「愛のあるセックス」などと言ってみたりするのだ。


では女は男に、モノ扱いされることをあくまで拒み、人格を尊重しそれだけを愛するように求めるのだろうか。ほとんどの場合、そうではないと私は思う。女は男に、自分をモノとして愛でることと、自分の人間性を愛することの「両立」を求める。

女は、つきあっている男に「ねえ、私のどこを好きになったの?」と、必ず一回は訊きたがるものであるという。知っていても訊く。人によっては何回も訊く。
私はそんなこと訊いたことも気にしたこともありません!という人は、いいのです。一般論として、その傾向があるらしいということだ。
[中略]
そういう時に男は、「そうだなあ、目かな」だけでも、「優しいところかな」だけでも、答としてはダメらしい。
「目」だけを褒めるとは、モノとしてのみ女を愛でていて「私の人格は無視なの?!」ということになり、「優しい」ところだけを褒めると、「どうせ外見は自信ないわよ!」ということになってしまうから。 
従って、外見と内面と両方一個ずつ褒めよ。そういう男向けのアドバイスをネット上で見たことがある(アドバイスしているのは男性だった)。


つまり、女は男に「モノとしてもヒトとしても見てもらいたい」ということである。
マブい女としても選ばれたいし、デキる人としても認められたい、その欲求の両方を同時に一人の相手で満たし、時々確認して安心したい。


女しか言わないセリフ - Ohnoblog2(06.1.19)


こういう欲求を男はあまり持たないのではないかと思う。男が相手に「好かれている」と感じた時に「体目当てじゃないか。人として見てくれているのか」という心配をすることは、滅多にないだろう。「男として見られる」=「人として見られる」と、比較的スムーズに繋がっているように見える。女はその限りではない。
映画『コレクター』ではないが、モノとしての女を収集し所有することに喜びを見いだす男は結構いても、その反対は少ないように思う。


男のフェティシズムに対応するのは、女のナルシシズムである。女は「見られる性」であることを事あるごとに意識せざるを得ないが、その位相だけに留まっていられないがゆえに、男への要求は一見分裂的になる。
ある意味、女の方が男との関係に求めるものが複雑なのだろう。私の言い方だとそれは、「『女』を見ながら、同時に『女』以外のものを私の中に見つけてよ」(『「女」が邪魔をする』より)という「無茶な要求」である。
よく訓練されている男(十分に社会化された男)は、これを難なくクリアできたりする。だが勢い余って「人格に惚れたのであって決して外見ではない」などと断言してしまうと微妙なことになる。性的評価とは「モノとしての女」の価値を見ることであるから、この言葉を素直に受け取れるのはよほど自己評価が低いか、中年を過ぎて性的評価を落とさざるを得ない立場の女性に限られる。



こうした男女の非対称性について、斎藤環は『関係する女 所有する男』(講談社現代新書、2008)で明快な論を立てている。
斎藤は、ジェンダーの起源としてもっとも強力なイデオロギーは「ヘテロセクシズム」であり、そこにおける「欲望をもたらすのは常に「差異」であり、性差こそは、僕たちが人生で最初に経験する、もっとも重要な「差異」」だとしつつ、次のように述べる。

 ジェンダーの違いが存在するという現実を、無理に否定しても始まらない。それは事実として存在するし、たまたま存在するというわけでもない。ジェンダーとは人間の心的組織が構成されるに際して、なかば構造的必然として生ずるしかないものだ。(p.9〜10)


フェミニズムの社会構築主義では、ジェンダーは社会制度や慣習や規範や文化によって再生産されるもので、女のモノ扱いもジェンダーが規範となった環境から生まれる、従ってそれは社会改革や意識改革を押し進めることによってなくしていくべき、という「政治課題」になるわけだが、斎藤環が準拠する精神分析ではそういう理路を取らない。ジェンダーは人間がその成長過程で自己の性自認を行い、ヘテロセクシズムという欲望の経済圏に参入する中で(同性愛もヘテロセクシズムに起源を置くと斎藤は言う)必然的に獲得されるものになる。


斎藤環によると、男性のジェンダーは対象の「所有」を追い求め、女性のジェンダーは対象との「関係」を欲する、と定義づけられる。*1
性関係を「所有」の原理で捉える男と、「関係」の原理で捉える女。この図式を用いて、結婚における男女間の齟齬やすれ違いを初め、ひきこもり(男性)と摂食障害(女性)、おたくと腐女子セクシュアリティの対比に至るまで、さまざまな事例が説明される。「あるある」ネタも結構多い。
女をモノとして愛でる男のフェティシズムについては、以下の言及がある。

フェチという言葉は、男は女性の人格とは無関係に、女性の身体そのものに欲望できるということを意味している。言ってみればこれも「女性のモノ化」であり、「所有の視線」にほかならない。しかしこれは、政治ではなく欲望の問題なので、批判や禁止でどうこうできるものではない。(p.177〜178)


男女のセックスについても2つの原理が適用される。

 男女関係の究極を「性行為」ととらえるのは、本当は所有原理(=男性原理)なのである。これはなにも、女性に性欲がないなどと言いたいわけではない。もちろん女性にも性欲はある。ただ女性の欲望は必ずしも性交=所有を目指すものではなく、スキンシップなどを含む非定型なものだ。こちらは基本的に関係原理である。所有欲は単純でわかりやすいが、関係欲は多様で複雑なのである。(p.170)

フロイトを参照し、性関係をSとM、支配と従属の関係だとした上で、

 もし男女間に「完全な平等」が実現したら、それはセクシュアリティの、いやそれどころか欲望の消滅を意味するだろう。だから僕たちは––––それが可能であるとして––––選択しなければならないのだ。「支配と従属と欲望のある世界」か、「支配も従属も欲望もない世界」のいずれかを。
 しかし答えはすでに明らかだ。後者が選択されることは決してない。「支配」「従属」「欲望」が消滅した時、「人間」もまた消滅するだろうから。善い悪いの話ではないし、実証可能な話でもない。ただ、そういうものなのだ。
 僕たちは「そういう存在」だからこそ、倫理や制度を必要とする。(p.176〜177)


こうした発話そのものがジェンダーの固定化と規範化を促進しているのだ、と批判する女性はいるかもしれない。男性の所有原理と女性の関係原理の「由来」について、斎藤環フロイトの「去勢」理論を使って説明しているが、フロイトの論はこれまでフェミニストに散々批判されてきた。そこに準拠すれば、男性中心の社会構造が生んだ性差別問題というフェミニズムの視点より以前に、父-母-子の関係の中で各々の性別に応じてジェンダーは必然的に決定されざるを得ないことになるからだ。


だがフロイトの理論を受け入れても、現実の性差別を人権の観点から扱うことは十分可能だ。ただそれはどこまでも男女を同じものとして完全な平等を目指すような方向にはならないだろう。
誰をも本当は完全な平等を求める善い心をもった人間と看做し、現在を社会が未成熟なためにまだ平等が実現されていないプロセスだとする考え方には、人間を理想に向かって常に前進しなければならない存在だとする狭量さと尊大さを感じざるをえない。少なくとも私にとっては、「差異」が欲望を作り、欲望が個々のアイデンティティに根を下ろすという考え方の方が、ずっとリアリティがある。
重要なのは、私たち自身を「支配」と「従属」を楽しむ「不道徳」な存在であると認めることである。その上で初めて「自分の暴力衝動とどう付き合うか」が切実で重要な課題となってくるはずだ。



男の「女のモノ扱い」、女への所有欲(ひいてはセクハラ、レイプ、DVなどの暴力)の理由、由来についてはさまざまな人が考察しているが、ここでもカミール・パーリアの『性のペルソナ』(河出書房新社、1998)第一章を参照してみたい。


パーリアは、ギリシアアポロン的伝統とユダヤキリスト教的伝統を、大地信仰から天空信仰への移行と捉え、そこには自然(女)を克服し、超越しようとする男の抵抗と防御があると見る。男性の権力への意志、暴力性と支配欲は、女性への不安と恐れから来るものなのだ。*2

 女は腹の魔力(ベリー・マジック)を表す偶像であった。女は自分だけの力で腹を膨らませて出産するのだと考えられていた。この世の始まり以来一貫して、女は不気味な存在と見なされてきた。男は女を崇めると同時に畏怖した。女は、かつて人間を吐き出し、今度はまた呑み込もうとする暗い胃袋だった。男たちは団結し、女=自然に対する防壁として文化を作りだした。天空信仰はこの過程における最も巧妙な手段であった。というのも創造の場所を大地から天空へと移すことは、腹の魔力を頭の魔力(ヘッド・マジック)に変えることであるからだ。そしてこの防御的な頭の魔力から男性文明の輝かしい栄光が生まれ、それに伴って女の地位も引き上げられた。近代の女たちが父権的文化を攻撃する際に用いる言語も論理も、男たちが発明したものである。(p.22〜23)


パーリアによれば、男が畏怖する女は「母親」と「宿命の女(ファム・ファタール)」である。

世界中の神話に見られる女のダイモン的元型は、人間と自然がどうしようもなく深い関係にあることを表している。この伝統は、先史時代の偶像から文学や美術を経て現代の映画にまで、ほとんど元の形のまま続いている。その典型的なイメージは「宿命の女(ファム・ファタール)」、すなわち男にとって致命的な女のイメージである。西洋では、自然が撃退されればされるほど、抑圧されたものの回帰として、宿命の女がますます頻繁に登場する。その姿は、自然に対する西洋の罪悪感の亡霊である。(p.27〜28)

 母親は息子にとって致命的な存在になりうる。男たちが政治とか天空信仰のような壮大な建物を建てたのは、母親に対抗するためである。母親はメデゥーサである。フロイトはメデゥーサの中に、去勢する、そして去勢された、女の陰部を見る。だが、メドゥーサの蛇状の髪の毛は、くねくねと伸びる自然の植物でもある。メドゥーサの醜く歪んだ顔は、女の笑いに対する男の恐怖が投影されたものだ。母親は子供に生命を与えると同時に、自由独立への道を閉ざす。だから私はサドと同意見で、私たちは鶏姦や堕胎によって自然の生殖衝動を挫く権利をもっていると考える。男性同性愛は、宿命の女から逃れよう、自然を打ち負かそうという企ての中でも、最も勇敢な企てかもしれない。(p.30)


パーリアはフェミニズムの伝統的な見方に反して、男という性を、圧倒的な自然に対抗せざるを得ない不安定で脆弱な性として位置づける。性行為から論理やシステムの構築に至るまで、男の熱中と競争、それらに通低する所有と支配への飽くなき欲求は、自己の存在論的な不安、寄る辺なさを解消しようとするためだということになる。だから男の性において、攻撃性と脆弱性は表裏一体なのだ。
斎藤環は哲学という優れて思弁的な分野がほぼ男性で独占されていると指摘していたが、パーリアは数学に男性が傾倒するのは、そこが自己完結的な純粋論理の世界だからだと言う。こうした傾向を職業における男女差別のせいだけにしてはポイントを見誤るというのが、パーリアの意見である。そうすると生物学者、特にサルの研究に女性が多いのは、研究の中で対象との「関係」がとりわけ重要になる分野だからかもしれない。


『セックス、アート、アメリカンカルチャー』(河出書房新社、1995)の中でパーリアは、無垢な被害者として自らを定位するフェミニズムを徹底的に批判し、女性こそが支配的な性である、女性は自分のセクシュアリティに責任をもつべきだと述べた。彼女に言わせれば、未だにフェミニズムは男と社会を責め立てすべてを手に入れようとする旧態依然としたドグマに縛られている。*3
パーリアの論を、女性をあまりに男性とかけ離れたものとして想定している、自然と同一視し過ぎだという意見はあるだろう。女=自然という観念は時に性差別強化に働く危険性をもつ。生物学を重要視しているため、断片的に言葉を拾うと一見バックラッシュ的言説にも見える。大胆な論旨や歯に衣着せぬ論調で有名になったが、他のフェミニストからは保守派だと非難されていたようだ(レズビアンで、かつて「Justify My Love」がMTVで放送禁止になった時に敢然とマドンナを擁護し、あらゆるポルノ規制に反対のフェミニストを「保守派」とは可笑しいが)。


パーリアが強調するのは、妊娠機能を備え自然のリズムに支配された女性の生理を軽く見るべきではないということである。
男は女に比べると自然の軛から幾分自由であるために、自然に逆らおうとする。自然をコントロールし、自然とは別のシステムを樹立することが、男にとっての勝利である。
男の作り出した文明の中で、女も荒々しい外界から保護された快適な生活空間を手に入れるようになったが、生理=自然の影響からは逃れられないことを体感的によく知っている。たとえ妊娠出産しなくても女は過剰な自然を内に抱えている。このことが女のメンタリティや振る舞いに及ぼす影響を、パーリアは重視するのである。彼女はそこに男のアポロン的な美意識とはまったく別種の、危険でエロティックでディオニュソス的な力の解放を積極的に見いだそうとしているようだ。



もし私が20代でパーリアを読んでいたら、おそらく強い反発を覚えただろう。30を過ぎた頃から、男女の非対称性をつくづくと痛感し、男は女とは異なる生き物であり、異なるルールで動いているものだということを思い知るようになった。この差異を差異として受け止めながら異性と共生していくには、それこそ「強さとか優しさだけじゃなく経験とか技術も要る」ことも多少は学んだ。


面白いことに、カミール・パーリア斎藤環も、基盤にしている論理は異なるが、性差の認識について似たようなことを書いている。

 中年になったわたしは、ホルモンをもとにした根本的な性差があるという考えを受け入れるようになった。体制べったりの五〇年代(ミルクシェーキとソックスとポニーテールという最近の甘ったるい郷愁など嘘っぱち)に猛烈に反抗した思春期のわたしは、男女には差がなく、あらゆる性差は慣習以外のなにものでもないと思っていた。
(『セックス、アート、アメリカンカルチャー』p.153)

 そんな性意識はもはや古い? そう言いたい気持ちもわからないではない。
 もしあなたがまだ若く、それはもう活発な性生活を営んでいる場合には、そう感じるのも無理はない。現実の性生活は、あまりにも多様なので、かえってジェンダーごとの差異は見えにくくなってしまう。しかし、これからあなたがさらに成熟し、あるいは年老いていくにつれて、ジェンダー間における性意識の違いに驚かされるであろうことは、ほとんど時間の問題だ。
(『関係する女 所有する男』p.169〜170)

関係する女 所有する男 (講談社現代新書)

関係する女 所有する男 (講談社現代新書)

性のペルソナ〈上〉古代エジプトから19世紀末までの芸術とデカダンス

性のペルソナ〈上〉古代エジプトから19世紀末までの芸術とデカダンス

セックス、アート、アメリカンカルチャー

セックス、アート、アメリカンカルチャー

*1:彼は生物学的性と区別するために一貫してジェンダーの問題として取り扱っているが、欲望を中心として考えるとセクシュアリティの問題として扱った方がいいように思える箇所は多い。

*2:これはあくまで西洋文明に特化した男女観ではないかという見方はあろう。パーリアは東洋の象徴体系では男女は同等であるとし、西洋との自然観の違いを指摘しているが、共同体における男女の役割は東西関係なく共通点が見られるし、また近代国家は西洋合理主義の元にある。

*3:と言っても本書の刊行から15年経った今は、アメリカのフェミニズムもいくらか変容しているとは思うけど。