男であることのストレス

男女論になるとよく「主語が大き過ぎる」という指摘が出る。「男とは」「女とは」という語りによって、現実には多様な男や女を一括りにしている、一般化してしまっているという批判だ。「私はここには含まれない」「こうじゃない人もいる」という意見も時々出る。
そういうことを言われるたびに、「男とは」「女とは」と言っただけで何故「すべての男」「すべての女」を指していると思うのだろうと疑問をもつ。生物学的な意味での男/女に必ず共通しているのは、それぞれ男性/女性の身体を持っている、ということだけだろうにと。


「男とは」を例にとってみよう。「男とは」話で言われるところの「男」は、文脈によって二種類ある。
一つは、「多くの男は」「男の全体的な傾向として」という話だ。大抵は「女の全体的な傾向として」という話と比較するために書かれる。そう書くだけのサンプルや統計資料、それに準ずるものがあり、尚かつ例外はあるに決まっているのだから、一々言わなくてもわかるだろうという見込みで「男とは」となる。傾向としての事実を伝える以上の意味は持たないので、「そうじゃない人もいる」と突っ込んでも、例外の存在が前提されている以上あまり意味がない。
だが、ここに「男とは〜なものであるべきだ」「男とは〜であってはならない」的ニュアンスが入ると、書き手の価値判断が入ることになる。単に傾向としての事実を言いたいだけなら、そう読まれないような注意が必要だ。


もう一つは(上と重なる部分があるが)「男」というジェンダーについて語っている場合。
その人がたまたま男の外性器をもって生まれて「男の子ですよ」と言われたその瞬間から、「彼」は「男」として育てられ、「男」という性自認をし、繰り返し「男」と見られ名指される中で「男」の振る舞いを身につけ、「男」になっていく。
「女」でも同じことだ。*1 中には後で、身体の性と性自認が一致しないケースが現れることはあるが、その場合も最終的に「男」で生きるか「女」で生きるかが選択されることが多い。
つまりこの社会で殆どの人間は、「男」か「女」かのいずれかを選んでアイデンティティを確立するということになる。同時に、社会に居場所を得る(出生届けなど公的文書の項目に「中性」の欄がない限り、「男」も「女」も選択せず単にヒトとして生きることは---たとえ本人の意識や振る舞いの上で可能であっても---社会的にはしにくい仕組みになっている)。
男女論で「男とは」「女とは」と語られる時の「男」「女」は、こうした抽象的な位相を指していることが多い。*2


と、うだうだ前置きした後で、最近「男」関係の話が一部で盛り上がっていたので、前記事で書けなかったことを拙書の引用で補足しておきたい(読みやすさのため段落の間を空けた)。

 経済弱者の男性が社会構造的に生み出されていることが明白になっている今でも尚、男性を地位や職業や所得といった社会的位相で評価する視点は、根強く残っている。多少寛容な目で見られるのは、今は低所得だが芸術的な才能を世に問うていたり、高度な専門分野で精進しているような特殊枠の若い男性だ。収入が二〇〇万そこそこの女性は「まだ男女格差があるからね」と同情されるが、同じ男性は懸命に働いていても「負け組」と看做されてしまう。マラソンの最後尾でゼエゼエ言いながら走っていた、競争に勝てない頼りない男子への失望感は、残酷にかたちを変えて生き続けるのである。


 社会的な位相ばかりではない。プライベートでも男性は積極性や強さを求められる。普段は対等に接していても、セックスでは相手にリードしてほしい、プロポーズは男からしてほしいと思っている女はやはり多い。期待されるのは、女性に奉仕しつつ優しく導くナイトの役だ。そこで受け身になって最終決定権を相手に委ねていると、「男らしくない」と言われかねない。そしてまた男は、常に責任を取らされる側にいる。


 女性差別の現状はかなり周知されてきた御陰で、どんな保守的な言論人でも、メディアでは「女は家に引っ込んで家事をやってればいい」などという発言はできなくなった。セクハラや痴漢、レイプ、DVなど被害者女性が発言しにくい問題にも光が当てられるようになった。女性にとっては、男性の性差別的言動から受けた傷について、率直に発言できる機会が増えてきたと言える。いかに男性の存在を恐ろしいと感じたか。いかにその力に怯えさせられたか。抑圧があったか。そうした言葉に耳を傾けねばならないという社会的コンセンサスもできつつある。


 だがこのことは結果として、個々の事件で表面化するセクシズムの糾弾だけに留まらず、「男という性のもつ暴力性」を指摘する効果をもっている。あなたの中にも、こうした暴力の芽が見えないかたちで潜在しているかもしれない。日頃の言動で、無意識に女性を傷つけているかもしれない。同じ男性なのだから、絶対にないとは言いきれないでしょう?と。


 つまり、一部の同性の許し難い言動が、セクハラや痴漢やレイプなど思いもよらない男性にも、「男特有の暴力性」を代表するもの、自分は無関係と言って済まされないものとして突きつけられるのである。これらに男性は基本的に反論できない立場にある。男性の性欲が暴力的な衝動と紙一重であることは、男性自身がよく知っているからである。


 男性は好むと好まざるとに関わらず、この社会では「欲望する性」として位置づけられており、女性が「被害者」「弱者」として発言する限り、男性は必然的に「加害者」「強者」なのだ。痴漢冤罪など、もし知らないうちに加害者側になるような事態を引き起こしたら、社会的生命を抹殺される可能性もあるかも‥‥と考えれば、多くの男性は女性に対する言動に神経質にならざるをえないだろう。女性が男性に攻撃的に振る舞うのは「弱者の抵抗」、せいぜい「女のヒステリー」と思われても、男性が同じことをしたら「強者の横暴」として断罪されるかもしれない。



 「男らしさ」の価値は凋落して久しいと言われる。にも関わらず一方で、男は依然として、頼りがいがあり女を守りリードする役割を求められている。「見られる存在」として女性の審判を仰ぎ、女性に同調し、別のところでは能動的に振る舞うことを期待される。その能動性が少しでも女性を傷つければ叩かれる。
 欲望せよ。しかしそれが暴力となることも自覚せよ。このジレンマを彼らは生きねばならない。これを「男であることのストレス」として受け止める男性から見ると、時と場合によって能動性(男前な女)も受動性(女らしい女)も自在に使い分けることの可能な女性の方が、ずっと生きやすいように見えたとしても不思議ではない。



  『「女」が邪魔をする』(光文社、2009)、「第八章 男の窮状と女嫌い」より抜粋

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男女を対比的に書くと、「性差より個人差の方が大きい」という意見がよく出るが、性差と個人差は単純に同じ水準では比較できない。個人というものが何によってどのようにでき上がってくるかは、民族や社会や時代背景を初め、家庭環境、学歴、階層など多くの条件が関わっており、その一つとして性差がある。さまざまな条件を貫いて性差、ジェンダーというものが繰り返し現れることに、私は興味をもっている。



●付記
『「女」が邪魔をする』は近々、韓国で翻訳版が出る予定です。

*1:ボーヴォワールのあまりに有名な言葉「人は女に生まれるのではない。女になるのだ」。

*2:追記:メタブコメで指摘http://b.hatena.ne.jp/the_end-of_the-world/20100529#bookmark-21887289があったので書くのはよそうかと思ったが念のため。ブコメでこういう説明に文句をつけている人達は、文脈読みができないのだろう。まして「すべての○○は××である」という言明などまったく理解できないだろうな。

*3:この後、ミソジニーの現れについて述べた。本全体としては女性の煩悩や葛藤を中心に書いているが、男性についてもそこそこページを割いているので興味のある方は是非。