ゲシュタルト崩壊する立方体

デザイン専門学校で受け持っているデッサンのカリキュラムの中に、幾何形態がある。立方体、円柱、円錐、四角錐、三角柱、球‥‥。誰でも大抵一度は描かされるモノだ。
セザンヌの有名な言葉で「自然界にあるのは円柱と円錐と球だ」というのがあるが、デザイン方面ではまず立方体が描けないことには話にならないようで、「とにかく全員、立方体をちゃんと描けるようにしてほしい」と、私が担当している1年の専任の先生に言われている。
立方体?そんなの簡単だよ誰でも描けるよ‥‥と最初のうちは思っていた。ところが甘かった。


何の前知識もなしに立方体を紙に描かせてみると、半分くらいの学生が、まず正方形を描き、角から斜めの平行線を三本延ばして奥行きを作り輪郭を閉じる。「これはありえない世界。空間が歪んでる」と言うと、とても不思議そうな顔をする。
立方体の一面が完全に正方形に見えるのは、立方体が目の高さにあり、一面以外はまったく見えないポジションだけであること、二面以上見える状態では必ず遠近感が生まれることを説明して、やっと納得してくれる。


その後、一点透視、二点透視などパースペクティヴ(線遠近法)の説明。次に合理的な描き方、技法の説明。立方体はこの順序でこう組み立てれば間違いない、円柱の立体感のつけ方はこうやるのが一番シンプルできれいで早い。この型さえ覚えれば何でも応用できるし、どんなものでもササッと描けるようになるんだからねと。
これはもう伝統芸のようなもので、大昔の人は直接絵から学んだり師の手伝いをしながら技術を盗んだりして、それをまた次の世代が見て覚えていくというサイクルがあったのだろうが、今では一律教室でプリント配って、それだけでは足りないのでホワイトボードに図解説明だ。


私個人は幾何形態の描き方を学校で教わったことがないし、本などを見て練習した記憶もない。授業で一緒に組んでいる20代の若い講師の人も、知らないうちに描けるようになっていたと言っていた。
「自分が自然に覚えて当たり前にやっていることを、いざ体系立てて理屈で教えようとすると案外難しいですね」。たしかに。でも「とにかく観察して形を合わせなさい」だとすごく遠回りになるし、やる方はもっとしんどい。だから最初に理屈と描き方の型を徹底的に叩き込むしかないのです。


一通り説明しクロッキー帳にお手本を見て描かせた後で、「わかったね?」と言うと、皆「大体わかった」という顔をしている。
そこで実際に幾何形態モチーフを幾つか渡し、テーブル上に配置させて描かせると、全然わかってない学生がいることが判明する。
まず、今覚えたばかりの頭の中にある理屈と、目の前の事物をうまく一致させることができない。たった10センチ角の立方体に異常にパースがついてマンガみたいになってしまったり、理屈が吹っ飛んで逆パースで描いていたり。
林檎なら多少形が歪んでいても林檎らしく見せることはできるが、幾何形態はごまかしがきかないので、1、2ミリの輪郭線の狂いが微妙に響いてくる。


指摘されて描き直すのが嫌なのか「だってそう見えるんだもん」と口を尖らせて強弁する学生がいる。「へぇすごい。じゃあここだけ空間に歪みがあるんだね」。周りの学生が笑い出す。ヤなこと言う講師だな。
何度直しても蹴飛ばしたダンボール箱のような形の立方体になってしまう学生。本人もおかしいのは自覚しているが、どこから直していいかわからない。「もうダメだ、立方体がゲシュタルト崩壊してきた」。そのために理屈学んだんでしょ。とか言っても、すぐには使いこなせないのだから仕方ないか。


もちろん線遠近法はものの見方の一つに過ぎない。外界が常にその法則にぴったり合った形で見えているとは限らない。
例えば小さい子供には好きなものが大きく目立って見えるだろうし、精神状態によってはモノが歪んで見えることもある。ちょっと目玉を動かすだけで輪郭がブレて見えることがある。そんなに明暗がはっきりしなくて遠近感がわかりづらい場合もある。
目の前のリアルは常に混沌としている。そして時々ゲシュタルト崩壊する。それに立ち向かう方法の一つとして、ものの見方がある。見方とは型であり技法だ。それを身につけ使いこなした後で、別の見方、型、技法を学ぶことができる。そして少しずついろんな見方のあることを覚える。でも最終的に選ぶのは一つだけ。それがたぶんその人の型。生きて行くのも同じこと。


‥‥‥などと学生のデッサンを直しながらボソボソ話していたら、突然「型にはまらない生き方ってのはダメですか?型破りとか」と訊かれた。見ると「オレ、今ちょっとうまいこと言った」顔になっている。
「型にはまらない生き方」をしたい人は、最初からここには来ないと思うよ。だいたい遠近法もまだ身についてなくて「型破り」はないだろね。



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