プロとアマ、場所とお金と人の話‥‥‥月見の里学遊館のシンポジウム

先週お知らせしていたこのシンポジウムに出るために、この間の日曜日、静岡県袋井市月見の里学遊館に行ってきた。その時の模様をつらつらと。


しょっぱなから掛川駅でこだまを降りて東海道本線に乗り換えるのにボーッとしていて反対方向に乗ってしまい、結果、館とパネリストの皆様を袋井駅で15分もお待たせしてしまい、しかも名刺を忘れるという「あなた何年社会人やってんですか?」(28年です‥‥)という失態をやらかす。
駅から車で25分くらいだろうか、市街地を抜けた風光明媚なところに月見の里学遊館はあった。建物がカッコいい。エントランスを入った右手には屋内プールがあり、正面にワークショップルーム。吹き抜けの高い天井まで何面も縦に大きく取った窓からたっぷりと外光が入り、広々と設計された庭が一望できる気持ちのいいサンルームのような空間だ。子供向けのアートワークショップで制作したものが置いてあった。
いきなり「大野さん」と呼び止められて見たら、知人のアーティストがいた。最近ワークショップのスタッフとして働いているという。ここまで来て知ってる人に会うとは思わなかったのでびっくり。というか世間て狭い。


月見の里学遊館は「複合型ワークショップ・センター」をコンセプトに2001年にオープンした施設で、最初の頃はガンガン有名なアーティストを呼んだりしていたがやがて息切れ状態になり、集客もなかなか思うようにいかずお金も‥‥といった地方の文化施設にはありがちな道を辿りかけたところで、2年前に演出家の大岡淳さんが芸術監督に就任して立て直しを計り、市民ボランティアスタッフも増え軌道に乗ってきた状況らしい。常駐のスタッフと市民スタッフが分け隔てない感じで運営に関わっているようだ。
「しかし人、来るんですかね」「5人くらいだったりして(笑)」などと言いながらシンポジウムの行われる2階の集会室を覗くと、椅子がずらりと50脚くらい並んでいる。‥‥これは埋まらん‥‥のではないか。心配になってきた。
浜松や静岡市の街中ならともかく、ここは正直言ってかなり田舎である。しかも駅から遠い。近くにあるのはジャスコだけ。超有名人でも呼んでいるのでない限り、よほど「行くぞ」という気持ちがないと来れない気がする。


和室でお昼ご飯を頂きながら簡単な打ち合わせと雑談。
パネリストの一人で東京からいらした平井洋さんは、クラシック系のコンサートのプロデューサーで、音楽と金の問題については言わばオーソリティだ。高橋悠治江藤俊哉藤原真理五嶋みどりといった錚々たる演奏家のマネジメントを務め、長年音楽業界を見てらしただけあって、とても話が面白い。
「オーケストラのバイオリンのポスト一つに100人も殺到するんですよ。何故かとゆうと‥‥」「へぇ〜」
美空ひばりは当時まだ小僧みたいな坂本龍一のことを「先生」って呼んでたんですよ、何故かとゆうと‥‥」「へぇ〜」
もうシンポやめてここで寛ぎながらいろんな話を聞いていたいなーと思っているところに、スタッフの戸館さんが「そろそろ時間です」と呼びにきた。「お客さんは?」「結構入ってますよ。最前列に大野さんの本持った若者がいます」。ひょえぇ。



客席はざっと見たところ6〜7割埋まっていた。内心冗談抜きで一桁かもしれないと思っていたので、ほっとした。館のこれまでの実績とスタッフの方々の尽力だろう。静岡西部方面のアーティストも何人か来ていた模様。静岡文化芸術大学の学生さんたちも。
最初に大岡さんから「誰もが自己表現できる時代に、アーティストに残された役割とは?」についての問題提起があった。
「文芸誌の発行部数よりも新人賞応募者の方がはるかに数が多い」という話から、ネットのコミュニケーションツールの拡充まで、アマチュア表現者の数がこれだけ増えた状況で、プロとは何か?プロ/アマを隔てるものは何か?と。


それを受けて平井さんの話。主にクラシック音楽業界でプロの立たされた厳しい状況について。最初にご自分が音楽に関わるきっかけから話された。平井さん自身は大学では応用物理学を専攻されているが、音楽人には理系の人が多いらしい。
メモをとってなかったので記憶でごくかいつまんで書かせて頂くと、「クラシックでは一握りの人を除いては、プロがなかなか食っていけない時代である。少し前なら演奏家で二番手ならオーケストラに入り、三番手の人はヤマハ音楽教室で教え、その次は自宅でピアノ教師をするというように、食べていく手段がそれなりにあった。しかし今はオーケストラの団員の空きに人が殺到し、少子化音楽教室には人が集まらない。不況で親も金がないし住宅事情も良くないから、子供にピアノなどを習わせる余裕がない。どこの音楽ホールもお金が無く運営に苦心している。そしてアーティストもお金が無い。でもむしろ、これが当たり前なんだと考えるべき。無いのが普通で、そこから何ができるか考え工夫することが大切」


次に大野の話。現代アートの裾野で観察した「アーティスト症候群」というユルい状況について。私も平井さんに倣って美術に関わったきっかけから。美術方面に進路を決める前にクラシックピアノをやっていて中二で挫折した話をした。以下はその後の話の要約。
「80年代にアートの脱領域化、私小説化、サブカル化という現象が始まり、「アートは誰にでもわかるもの」という言説も広まった。アートは依然として資本主義社会のブランド商品的面があるが、クラシック音楽と異なり、今のアートが一見「これなら自分にもできそう」「センスがあれば何とかなりそう」と思わせるような幅のある点は、ジャンルへの参入障壁を低くしている。こうした中での若者のアーティスト願望の根底には、オンリーワンである自分を承認してほしいという欲求がある。そこではアートが、人との軋轢や同調圧力によるコミュニケーション疲れによって失われた自己肯定感を取り戻したり、特定の社会的役割や立場という圧力から解放されたい気持ちの受け皿として機能しているのではないか」



しかし、えらいことレンジの広い話になったものである。これは大岡さんの(普通ではまずありえない)パネリストの人選によるところが大きい。
それと、演劇、クラシック音楽現代アートという、隣接分野ながらそれぞれのジャンルでの「アーティスト」のあり方が少しずつ違う点。ちょっと比較してみよう。


演劇は誰でもアマチュアから始めて劇団に入り、その中でプロになる人もいるという、言わば裾野の非常に広いジャンルだ。やろうと思えば身一つで始められ、大概グループワークだから他人との関わりが深くなる(私の印象では演劇人が一番議論好きが多い)。大岡さんによれば、首都圏だけで三千四千という数の劇団が存在し、自称「セミプロ俳優」は数万人規模で存在しているという。バンドと似ているかもしれない。まさにアマチュア王国なジャンルだ。
クラシック音楽演奏家は専門教育を受け(教育には金もかかり)、厳しい修練を積み重ねてあるレベル以上の技術と表現力を身につけねば人前でその結果を披露できない、という点でまず入り口が狭い。その分プロのハードルも高い。そして既にある作品を再現する(もちろんそこに新しい解釈や演奏者の個性は反映される)という点では、伝統芸能の継承にも近い部分がある。
アート(美術)は音楽と同じく、芸術の二大ジャンルとして学校教育に組み込まれている。プロを目指す場合は大抵専門教育を受けるが、身につけた技術が最終的に必ず表現に使われるとは限らない。写真の登場によって再現技術(のみ)に存在意義を見いだすことはできなくなったし、モダン以降のアートの至上命題はアートという概念を書き換えることだったからだ。今では実質「アートと名指されるものがアート」というような底の抜けた状態になっている。
そして、いずれのジャンルもプロで(つまり公演やコンサートや展覧会だけで)食っていくのは非常に厳しい世界で、需要に対して供給過剰の現状があり、このご時世どこもお金がない。


現代アートのアーティストに対応するのは、音楽では現代音楽の作曲家であって、クラシック音楽演奏家はまた位相が違ってくるので、話としてはそこにちょっと捻れがある。クラシックの楽曲に対応するのは、美術ではヨーロッパの同時代の絵画や彫刻であろうが、クラシックの演奏家に対応する美術家って何だろう。‥‥思いつかない。
日本ではよく年末になるとベートーベンの第九の演奏が聴かれる。プロからアマまで演奏し合唱する。そもそもベートーベンの第九は、どこのオーケストラと合唱団が、いつどこで何回演奏しても良いわけだ。それを聴いて楽しむ人々がいる限り。
しかし美術にこういうことはない。ダ・ヴィンチモナリザが素晴らしいからと言って、それを模写して発表しても誰も作品とは認めないだろう(90'シミュレーショニズムなどの確信犯的な意図がわかるのでない限り)し、喜んで見たいとも思わないだろう。モナリザをモチーフにして作られた作品であれば、別かもしれないが。
つまり美術作品が主として一点ものの物としてある限り、最終的な着地点はその物を所有する以外になくなるが、音楽はスコアがあるだけで誰がいつどこでそれを演奏しても良く、人々はその時間を何度でも共有できる、という違いがある。


後半は時間が押して、とても一時間半では足りない感じだった。そもそもテーマがデカいし、こういうシンポの常として何かまとまった結論が出たということはない。主な論点だけあげておく。
平井「クラシックではプロとアマの違いは厳然としてある。誰もが表現をするようになったとは言え、アーティストのハードルは高い。プロはそのジャンルについて誰よりも深く追求した者だが、プロか否かの基準はその人の中にあるのではなく、客観的な判断。要は「あの人に頼みたい」と思って依頼した人の側にあるということ」
大野「時間に関わる音楽や演劇と異なり、アート作品の多くは物として所有できる形をとどめているが故に高額商品として売買される。しかし最終的に重要なのは物ではなく人との関係、人と何が共有できるのかを考え実現することだとすれば、アートのあり方が物の所有から時間や空間の共有といった関係性へと軸を移すのは必然だし、それはいつかアートと名付けられなくても良いものになるかもしれない」
客席との質疑応答の時間が十分に取れなかったのはちょっと残念だったが、終わった後、拙書の読者や思いがけずこのブログの読者の人と少しお話できたのと、お客さんから面白かったと声をかけて頂いたのが嬉しかった。皆さん来て下さって、本当にありがとうございました!



さて、このシンポジウムとセットで開催されるのが、クラシックマニアだというスタッフの戸館さんが企画したコンサート。集会室から降りていくと既に百人以上小ホールの入り口に並んでいた。こじんまりとした雰囲気の良いホールである。
出演するのはウェールズ弦楽四重奏団。「第一位を出さないことで有名な世界的音楽コンクール、ミュンヘン国際音楽コンクールで第三位に入賞した」という、スイスはバーゼルを拠点に活動している日本人の若者四人組。プロフィールを見ると全員1980年代後半生まれの20代前半。わっかぁ‥‥。「ウェールズ」とはラテン語で「誠実な」という意味らしい。
かなりシブいプログラム(ヴォルフの「イタリアン・セレナード ト長調」、ベートーベンの「弦楽四重奏曲第16番 ヘ長調 作品135」、シューマンの「弦楽四重奏曲第3番 イ長調 作品41-3」)だったが、妙な色気やけれん味のない真っすぐでキレのある清冽な演奏がすばらしかった。「若々しいですね」「邪気がないよね」「若いっていいね」と、客席の中年パネリスト三人はささやき合った。
ウェールズ・カルテット、凱旋デビューしたらブレイクするのではないだろうか。これは絶対ファンがつきますね。CD出たら私も買います。


「お客さんが普通な感じなのがいい」と平井さんが言った。たしかに老若男女さまざまで小さい子供連れもちらほらいて、全体にいわゆるクラシックマニアという感じではない。一般受けしない演目なのに皆集中して聴いていて(子供も大人しく)、堅苦しくはないが良い緊張感が漂っていた。地味なシンポに何十人も人が来たのにも驚いたが、こういうコンサートが地方の人口9万に満たない規模の街で行われてそこそこ成功しているというのは、かなり奇跡的なことではないかと思う。
後でいろいろ話を聞いてみると、こうした公共施設だと「もっと有名な曲をやれ」(とか、有名な人を呼べ)といった注文があって集客のためにそっちに流れていきがちだが、そういう迎合的なやり方をせずに地道にアプローチしていった結果、この数年でだんだんとお客さんが育ってきているということだった。8月にはジャズミュージシャンの菊池成孔が来るそうだ。これまた贅沢な企画。


月の里学遊館の年間プログラムを見たり、スタッフの人々の話を聞いていると、文化施設にありがちな「偉い人呼んできたので聞きに来なさい」「有名なアーティストだから見に来なさい」的な上から目線、あるいは「皆さんこういうのが好きなんでしょ?」といった客への媚び(実はバカにしている)が最初から一切なく、事業運営の主体をあくまで市民スタッフに置こうとするニュートラルで開かれた姿勢が感じられ、非常に好感をもった。芸術監督の大岡さんを初め、皆さんフットワークが軽い感じだ(大岡さんからは地元の行政との駆け引きなど興味深い裏話も聞かせて頂いた)。
たくさんの文化施設やホールを見ていらした平井さんも、「ここはほんとに珍しくうまくいってるとこかもしれないですね」と言っていた。
私の住まいはちょっと遠いのでふらっと気軽に行けないのが残念だけれども、静岡方面の方は是非一度足を運んでみてはいかがでしょうか。