「新しいってどういうこと?」(『宗方姉妹』再見)

小津安二郎監督、1950年の作品。
古風な姉(田中絹代)とモダンな妹(高峰秀子)を中心に、失業中で不貞腐れている姉の夫(山村聰)、姉に想いを寄せる優しいがやや優柔不断な元恋人(上原謙)、その彼に想いを寄せるリッチで勝ち気な未亡人(高杉早苗)、姉妹を見守る癌で余命幾ばくもない父(笠智衆)などの人間関係が、戦後間もない東京、神戸、京都、奈良などを舞台に描かれる。


旧い世代と新しい世代の考え方や感覚のずれ、そこに見られる変わっていくものと変わらないものの姿を、しばしば親子の関係で描いている小津安二郎だが、ここではそれが歳の離れた姉(今の感覚だと老けて見えるが、多分30そこそこくらいの設定)と妹(20代前半〜半ば)の対比に表現されている。
いつも着物姿で登場し、どことなく"戦前の日本の女"風な面長の少し寂しげな顔立ちで芯の強い姉役、田中絹代(当時41歳)。スーツやブラウスやフレアスカートに愛嬌のある丸顔で、思ったことをズバズバ口に出して言う、現代っ子の妹役の高峰秀子(当時26歳)。
特に小津映画に初出演の高峰秀子は、何か言ってはペロッと舌を出したり、わざわざ変な顔を作ってみたり、姉を想う上原謙をからかったり、バーテンダー相手にぶっきらぼうな男言葉で喋ったり、後の『秋日和』(1960)の"オヤジ転がし"岡田茉莉子的なかなり弾けたキャラになっている。


姉夫婦と妹は、京都で隠居中の父と離れ、東京の家に同居している。求職中の姉の夫は毎晩のように飲みに出歩き、家の中に明るい雰囲気はない。ある夜、遅くに帰った妹を姉が叱る。ここから始まる姉妹の口喧嘩がこの作品のハイライトだ。
「早く家に帰ったってちっとも面白くありゃしない」「私、お兄さんの顔見たくないのよ」と文句を言う妹を姉はいかにも姉らしい態度でたしなめるが、妹はここぞとばかりに日頃の不満をぶちまけ、「私、お姉さんにだって言いたいことたくさんあんのよ」「あんなお兄さんに我慢してることないわ」と逆襲に出る。
姉の「お互いに我慢しあってこそやっていけるのよ。そういうもんなのよ」という言葉に妹はますます反発し、
「嫌い。そんな古い考え方」
「何が古いのよ」
「古いわよ、古い古い、お姉さん古い!」
と投げつけるように言い放って自分の部屋に籠り、そこに聞き捨てならぬことを言われたと思った姉がやってくる。
この後のやりとりをそのまま抜き書きしてみよう。


「満里ちゃん、私そんなに古い? ね、あんたの新しいってどういうこと? どういうことなの?」
「お姉さん自分では古くないと思ってらっしゃるの?」
「だからあんたに訊いてんのよ」
「お姉さん、京都行ったってお庭見て歩いたりお寺回ったり」
「それが古いことなの? それがそんなにいけないこと?」
「‥‥‥」
「私は古くならないことが新しいことだと思うのよ。ほんとに新しいことはいつまでたっても古くならないことだと思ってんのよ。そうじゃない? あんたの新しいってこと、去年流行った長いスカートが今年は短くなるってことじゃない? みんなが爪を赤くすれば自分も赤く染めなきゃ気がすまないってことじゃないの? 明日古くなるものでも今日だけ新しく見えさえすりゃ、あんたそれが好き? 前島さん(家計を支える姉がママを勤めるバーのバーテンダー)見てご覧なさい。戦争中先に立って特攻隊に飛び込んだ人が、今じゃそんなことケロッと忘れてダンスや競輪に夢中になってるじゃないの。あれがあんたの言う新しいことなの?」
「だって世の中がそうなってるんだもの」
「それがいいことだと思ってんの?」
「だってしょうがないわよ。いいことか悪いことか、そうしなきゃ遅れちゃうんだもの。満里子、みんなに遅れたくないのよ」
「いいじゃないの遅れたって」
「厭なの。そこがお姉さんと私とは違うのよ。育った世の中が違うんだもの。私はこういうふうに育てられてきたの。悪いとは思ってないの」


この後、妹は京都に父を訪ね、姉と自分とどっちが正しいと思うか訊くが、老父は「どっちがいいとか悪いとかいうことじゃないよ。おまえはおまえのいいようにやるさ。ただ人がやるから自分もやるというんじゃつまらないね。自分が本当にいいと思ったらすればいいさ。自分を大切にするんだね」といった、まあ笠智衆が訥々と言うからそれなりに含蓄があるように聞こえるが、よく考えればごく常識的な返事をするのだ。
それでも妹の心には姉の言葉が印象深く残ったらしく、後でバーテンダーの前島に向かって「ほんとに新しいことはいつまでたっても古くならないことなんだよ」と、そっくり自分の言われた姉の台詞を言っているのが面白い。



ところでこの映画が撮影、公開された1950年(昭和25年)当時、田中絹代は、たった一つの振る舞いによって、逆風のまっただ中にいた。
その年の初め、日米親善大使としてハリウッドに招かれた田中絹代は、日本を代表する大女優、大スターとして高価な能衣装に身を包み、歓呼の声に送られてロスに旅立つ。「たった一つの振る舞い」とは、帰国時のことだ。行きとは一転して流行の洋装、サングラス、真っ赤な口紅をつけ、出迎えのファンと報道陣に投げキッスを送った。
既に戦前から評価が定まり当時はどちらかというと次の一手を出しあぐねていた彼女としては、渡米によって華麗なる変身を遂げた"ニュー田中絹代"を披露したつもりであったらしい。
しかし「大和撫子田中絹代」(戦争には負けたが、日本の誇る我らが「大和撫子」はアメリカを平伏させたはず!)を待ち望んでいた人々はショックを受け、次いで轟々たるバッシングが始まった。


当時の模様を高峰秀子は著書で詳しく述懐している。以下『わたしの渡世日記』(文春文庫)より抜粋。

 それからの田中絹代に向けられた非難の竜巻は、まるで彼女を粉微塵にして殲滅せんばかりのいきおいで猛りに猛った。田中絹代という名前の出るところには、常に彼女に対する「非難」や「揶揄」や「誹謗」や「侮蔑」が喧々囂々とうずまいた。
「サングラスに投げキッス‥‥」
「インタビューは片言の英語で‥‥」
「アメション女優のアメリカかぶれ‥‥」
 どの新聞、どの雑誌の記事も、絹代自身にとっては、蝶のように変身したいと願ったことばかりなのに、事実はすべて裏目に出た。田中絹代に関する記事という記事はおそろしい凶器と変じ、容赦のない反感と悪意がペンの先をとがらせて彼女を責めさいなんだ。
 しかし、それまではまだよかった。彼女の帰朝第一作の映画、そして第二作の映画‥‥彼女の出演した映画の批評は、これも「田中絹代に関する限り」申しあわせた如く不評で、映画とは関係ないゴシップまで書きならべられていた。
 それを読んだとき、私の胸にはじめて体が震えるほどの怒りがこみ上げてきた。マスコミという媒体が如何に冷酷残酷で尻馬に乗るものかということは、私にしても、いまさら知ったことではない。役者、俳優にはプライバシーのないことも知っている。その槍玉にあがってキリキリ舞いをしている大先輩の田中絹代にも、第三者の私からみればたしかに大きな誤算があったと思う。
 けれども、いったい、田中絹代がどんな大それた罪をおかしたというのだろう? サングラスをかけ、投げキッスをしたことぐらいで、えいえいとして築きあげた大女優としての地位まで取りあげられてしまうほど、破廉恥な行為を田中絹代がしたというのだろうか?‥‥。
(『わたしの渡世日記(上)』p.223〜p.224)


先輩女優の突然の苦境に「負けないで欲しい」と高峰秀子は願うが、「彼女が徐々に自信を失い、徐々に意気消沈してゆくさまは、スクリーンの画の中に正直に表れていた」。
そんな中で、「日本映画の演出家の中でも、もっとも厳しいといわれる」小津安二郎監督のもと、田中絹代高峰秀子は『宗方姉妹』(原作、大佛次郎)で姉妹を演じることになる。

[‥‥] 私は田中絹代とは戦前から戦後にわたって何本も共演をしたが、「宗方姉妹」の撮影だけは彼女の演技に、なんともいえない迷いや逡巡が感じられ、その様子が小津監督をいらだたせて、彼女が焦れば焦るほどその結果は芳しくなかった。
「苦しんでいるんだ‥‥マスコミに殺されかかった、気の毒な田中先生‥‥」
 信じられないほどの回数のテストがくりかえし、くりかえされた。まだ二十六歳そこそこの私には、慰めの言葉も、励ましの言葉もなくただ胸が痛んでならなかった。
 あれは、奈良の薬師寺のロケ先であったか、大船のステージであったか、またはロケバスの中で隣り合わせに座った時であったか‥‥。場所は忘れてしまったが、田中絹代が私に向かって独り言のように小さな声をもらした。
鎌倉山のね、私の家のそばに崖があるでしょう?‥‥あそこから、飛び降りようと、したの‥‥何度も何度も、ね。そうすればみんなお終いになるから‥‥」
 私は絶句した。私がそれまで、殺す、殺される、と考えていたのは、あくまで彼女の女優としての生命のことで、人間としての生命のことではなかった。しかし、彼女は真実、自分の生命を絶とうとするまでに深く傷つき、苦しんでいたのだ。私の目に涙がにじんだ。彼女への同情の涙などは通り越した、血のように濃い口惜し涙だった‥‥。私にとっての田中絹代は真実姉のような存在であったのだから。
(『わたしの渡世日記(上)』p.224〜p.225)


その後の長い「努力と意地と苦しみ」は田中絹代の演技を冴え渡らせてゆき、溝口健二監督の『西鶴一代女』や『雨月物語』など多数の名作に出演し*1 、20年後に紫綬褒章まで授与された。新聞でそれを知った高峰秀子は思わず「ざまあみやがれ‥‥」と言ったという。


にしても、それまでの古い殻を脱ぎ捨てた「新しい今風の女」を付け焼き刃で自己演出しようとしてドン引きされ叩かれた女優に、終始一貫着物姿の昔気質の女を演じさせ、「新しいってどういうこと?」「ほんとに新しいことはいつまでたっても古くならないことだと思ってんのよ」という台詞を言わせた小津安二郎
なんという女優虐め。意地悪な監督だなと一瞬思った。
田中絹代が何度もやり直しをさせられたのは、もしかしたらこの台詞があまりに彼女の心に深く突き刺さったためではないかと思えてくる。


しかしこの姉の台詞は、内容、長さ共に『宗方姉妹』でもっとも印象に残る台詞だ。それを穏やかな面持ちで淡々と言う姉に、妹の方は口を尖らせながらもたじたじである。
また、カメラがきちんと正座して微動だにしない田中絹代を真正面から撮っているのに対し、高峰秀子は横からのアングル(田中絹代目線)で捉えられ、彼女は台詞を言うのに首をこちらに向けねばならない姿勢になっている。
たしかにこの映画の田中絹代の台詞回しはいささか固いのだけれども、どう見てもこの場面は「田中絹代の場面」だ。そして彼女は物語の最後に、世俗的計算や俗情からはかけ離れた自己の倫理を通し、「私、自分に嘘をつかないことが一番大事だと思ったの」と涼しい顔で妹に告げる。監督が自分の一番言いたいことをこの女優に言わせているのがよくわかる。
小津安二郎は、かつてない悪評と誹謗中傷に塗れ、失意と迷いと自信喪失のどん底にあった今最も使いづらいであろう大女優田中絹代に、変わりゆく時代の中で地味に筋を通す「変わらない女」を演じさせた。改めてすごい監督だと思った。


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*1:小津作品でも『彼岸花』(1958)で、結婚前の娘をもつ夫婦役を佐分利信と好演。個人的には成瀬巳喜男の『流れる』での置屋の女中さんが、淡々といい味を出していて好きだ。