図工の時間は楽しかったですか?

(※追記あり)


Togetter - 「「絵の描き方」を習った覚えがないよ」
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義務教育の図画工作、美術の時間に絵の描き方を習っていないという話は最初の方だけで、途中から学校教育全体の話になっていたが、ブックマークコメントは「絵の描き方教わったよ」「教わってないよ」話が多く、そのせいかブクマが伸びた。
「絵の描き方」というのは、対象を再現的、写実的に描くためのノウハウ、つまり線遠近法を基礎とした古典的なデッサン技法のことを指しているようだ。
ブコメ、メタブコメのいくつかにコメントは書いたので、それ以外で思ったことを。

義務教育でデッサンの基礎力をつけるとすると

世間一般でもその傾向はあるかもしれないが、とりわけ子どもにとって「上手い絵」というのは、「本物そっくりな絵」「まるで生きているようなリアルな絵」である。抽象画を面白がる子より、リアルな絵に「すげー」と感心する子の方が圧倒的に多い。
彼らが普段見ているマンガやアニメは、人の顔形にせよかなり抽象化されているが、それでも全体に現実を参照した再現的な描写が組み込まれているから、楽しむことができる。マンガを早くから描き始める子は、正面は描けるが斜めの顔が上手く描けないといった悩みをもったりする。
見た通りに、不自然に見えないように描きたい。こうした気持ちを抱き始めるのは、個人差もあるがだいたい小学校の3、4年くらいからだ。それで学校でも、花瓶の花や校庭の樹木などを「よく観察して丁寧に描写しよう」といった課題をやることがある。


例えば林檎と紙と鉛筆を渡され、「林檎をよく観察して、見た通りに描いてごらん」と言われたら、子どもは(大人もか)まず最初に輪郭を描く。輪郭の中をササッと大雑把に塗ってそれで終わりにする子もいれば、輪郭の端から順に表面の表情や明暗を細かく写し取るという手間のかかることを始める子もいる。
そして、「描き方を教えて」と言う子もいるだろう。
だが「絵の描き方」というのは実はない。あるのは「ものの見方」だけである。写実的に描くためのノウハウの土台にあるのは、ルネサンス期に誕生し西欧を中心とした世界を席巻したある一つの「ものの見方」であって、別の見方、別のリアリティを採用すれば別の技法が登場する。


‥‥‥のではあるけれども、西欧型写実的再現的な表現技法は絵画からマンガまで幅広く浸透しており、そういうオーソドックスなデッサンの基礎力があれば、人でも風景でも身の回りのものでも、そう苦労せずに描けるのは確かである。そして何でもそれらしく形にでき、自分の思った感じが出せると、描くのが楽しくなるというのもまた確か。それ自体は使い古されていて今更芸術的な価値はなくても、何らかの技術をもっていて損をするということもない。
従って、何を学び身につけたのかわからないまま終わってしまいがちな義務教育の図工、美術において、そういう「ものの見方」→「絵の描き方」を基礎の基礎からきちんと教えたほうが良い、それを小・中と続けていけば、誰でもある程度は普通の絵、形の狂ってないまともな絵を描けるようになるはずだ、という意見も出てくる。


ではそこに到達するのに、実際どのくらいの時間がかかるだろうか。
小中学校の教員の経験はないのだが、過去30年くらいの間に合わせて千人近い美術志望の高校生と高卒生、デザイン専門学校生(他、若干の中学生と社会人)のデッサン指導をした。20時間程度でノウハウを体得する人もいれば、100時間以上トレーニングしても無理な人もいた。年間に何十枚も描く美術予備校の学生においてさえ、驚くほどの差があった。*1 
私の行っているデザイン専門学校では、多いクラスでデッサンが年間に160時間ほどある。一回の授業は90分×2。それを二年間やって、やっとズブの素人が少しは見られるものを描けるようになるわけだが、やはり著しく個人差が出る。きちんと教わっていても、三ヶ月経つと最初にやった立方体の描き方を忘れている学生などザラにいる。
それ以前の、別に美術やデザイン志望でも何でもない子ども達なら、器用か不器用か興味があるかないかで、なおさら大きく差が開くだろう。


だがまあ個人差なんてものは、何もやっても出てくることである。それより問題は児童・生徒の持続力だ。
たとえば線遠近法が理解できそうな小学校の4年から中学3年までの6年間で、毎時間デッサン技法の基礎を叩き込むとして、総授業時間数は小学校で160時間、中学で115時間、合わせて275時間。
単純計算して6時間のデッサン(着彩する場合も含む。6時間は子どもには長く感じられるだろうが、一枚にそのくらいかけないと効果は出ない)が中学卒業までに45枚描けることになるが、透視図法の説明や画材、技法の指導、個別モチーフの導入説明、参考作品の鑑賞、講評、準備や後片付けなどの時間を除くと、実質的に描きあげられるのは40枚程度だろう。
そのすべてを、毎回おしゃべりをせず集中して描き、指導されたことを次の時間まで忘れないようにし、一枚二ヶ月近くに渡ってじっくり取り組むという姿勢がキープできるだろうか。


まず無理だと思う。
小学校の授業時間45分、中学校50分では、実質10人から多くて15人くらいにしか丁寧な個人指導ができない。45分間、形が狂いっぱなしで描いていて、次の週に指摘されざっくり直されてちょっと凹んで集中力が落ちて、気を取り直してやりかけたところでその時間が終わって‥‥の連続になる生徒が続出するはずだ。特別描くのが好きなわけでもない者には相当しんどいと思う。
毎時間毎時間デッサンの繰り返し。まともな形が描けるか描けないか。たったそれだけのことで優劣がつけられる。興味を持たせるためのどれだけ創意工夫を凝らした授業をしても、おそらく大半の子がうんざりして美術の時間が嫌いになるだろう。


そもそも美術=再現描写ではないので、学校の授業では、絵画(想像画や抽象表現を含む)以外に平面、立体のさまざまな造形遊びやインスタレーション、版画、紙工作、木工、金工、塑像、コラージュ、コンポジションや色彩、デザイン、鑑賞など、美術、デザイン、工芸のジャンルに関わるプログラムが、広く浅く組まれるようになっている。共同制作もよく行われる。バラエティがあることが肝なのだ。
その中で、写実的な絵も描く。そういう絵が苦手な子供でも、工作や塑像は得意かもしれないし、共同制作で力を発揮するかもしれない。一つ二つ興味を持って楽しく取り組めそうなものがあれば、それで良し。現場では概ねそんな感じではないかと思う。

「図画工作を勉強しても,生活や社会にどのように役立つのか分からない」

で、学校教育としては何が目指されているのか、学習指導要領を見てみると‥‥
小学校・図画工作
中学校・美術


なんだか抽象的な美辞麗句が並んでいるが、おそらく芸術というものの公的位置づけから考えて、学校教育の目標として言えるのはこんなところかと思う。これについてはまた後で。
興味深かったのが、Q&Aのページだ。

8.図画工作・美術に関すること


(小・中学校)問8−1
 〔共通事項〕を新設した趣旨は何ですか。〔共通事項〕の指導に当たりどのような点に留意すればいいですか。


答8−1
 小学校図画工作科に関しては,いろいろな調査などから,児童が図画工作を勉強しても,生活や社会にどのように役立つのか分からないと感じていることが分かりました。また,中央教育審議会などで,膨大な視覚情報にさらされている児童に必要な力を身につけてほしいという声がありました。そこで,表現でも鑑賞でも,造形遊びでも絵や立体,工作でも,共通して働いている資質や能力を〔共通事項〕としてまとめ,これをもとに指導を行うことを示しました。具体的には,児童が自分の感覚や活動を通して形,色,動きや奥行きなどの造形的な特徴をとらえ,これを基に自分のイメージをもつことが十分に行われるように学習活動を検討する必要があります。
 中学校美術科において,生徒一人一人の表現や鑑賞の能力を豊かに育成していくためには,発想や構想をする場面,創造的な技能を働かせる場面,鑑賞の場面のそれぞれにおいて,形や色彩,材料などの性質や感情などに意識を向けて考えさせたり,対象のイメージをとらえさせたりすることが重要です。そのためには具体的に感じ取ったりイメージしたりするための視点や,指導の手立てが必要となります。このため,今回の改訂では〔共通事項〕を設け,表現及び鑑賞の学習の中で共通に指導する事項として位置付けました。
 〔共通事項〕は,形や色彩,材料などの性質や,それらがもたらす感情を理解したり,対象のイメージをとらえたりするなどの資質や能力を育成し,表現や鑑賞の能力を高めることをねらいとしています。これらは,表現及び鑑賞の学習の基盤となるものであり,すべての学習活動において共通に指導することが大切です。


図画工作は「勉強」するものという感覚は私はあまりなかったな‥‥という個人的感想はさて措き、「生活や社会にどのように役立つのか分からない」とは、要は、将来の受験科目にない授業なんてやっても無駄じゃね?という本音を含んでいると推測。絵とか工作とか、どこで何の役に立つの? 全員がやる必要あるの? 「何のために」を考える生徒にとって、出るべくして出てくる疑問だろう。
音楽の同じページにこの指摘がなかったのは、音楽の方が閾が低く感じられ身近だからだと思われる。美術は準備も後片付けも面倒臭いのでやりたくないといった、案外素朴な理由も混じっているかもしれない。
実際、義務教育の図工、美術ほど、特に強い興味もない生徒に主体的に取り組ませるのに難しい科目はないのではないかと思う(好きな子は放っておいても勝手にやるが)。だから往々にして、その時間は息抜きの時間、おしゃべりの時間になる。


「どのように役に立つのか分からない」という子どもの疑問と、「膨大な視覚情報にさらされている児童に必要な力を身につけさせてほしい」(メディアリテラシーをつけさせよということなのか、画一的になりがちな発想を豊かにしてほしい*2ということなのか)という専門家の意見を受けて書かれていることが、また大変抽象的で今いちわかりにくいのだが、平たく言うとこういうことだろう。
授業で次々といろんな課題をやっても、課題間の繋がりが見えなければ児童にとってはただいろんなことをやったというだけになり、美術、デザインの基礎となっている色や形や素材やイメージの働き([共通事項]。多くの人がそれを共有できる感覚として持っている)について認識することも、それらがさまざまな表現において伝達手段としてどのように使用されるのか学ぶこともできない。
つまり美術、デザインである程度共通して使われている視覚言語の働きを、各課題を通じて自らの認識の中に発見するようなかたちで学ばせ、それが「生活や社会にどのように役立つのか」(どのように機能しているか)を理解させることが、授業の意味づけにとって大事。そのために、[共通事項]を意識したプログラムを組んでいく必要があると。コミュニケーションや鑑賞が重視されているのも、これと関連するだろう。


デザインはともかく、美術は別に生活や社会に役立たなくていいんだ(時には「毒」だ)と思わず言いたくなる人もいると思う。が、少なくとも学校教育=公において美術は、薬にしろ毒にしろ結果的に何らかのかたちで生活や社会の「豊かさ」(多様性と言い換えてもいいが)に貢献するものとされている以上、こういう方向の重みづけが出てくるのは必然だ。
子どもの「何のためにこんな勉強やるの」に、逐一具体的な答えを用意する必要が果たしてあるのか?表現とは然るべき理由を作ってからやるものなのか?(そういう場合もあるだろうが)という問いは、ここにはない。だから答えようとした段階で、どうしたって優等生的な答えにしかならない。


それを受けて、あらゆる表現は一定のルールを持った「生活や社会に役立つ」合目的的なもの‥‥といった捉え方をもし子どもがした場合、制作や鑑賞が狭い観念に拘束され自由度が失われることもありうるだろう。そうならないために指導側には、より高い専門性と広い知識とバランス感覚ときめ細かい指導技術が求められるだろう。大変なことである。
そもそも学校の美術教育は(幼児造形教育の延長線で)、それぞれの発達段階にある子どもの自己表出やコミュニケーション手段の一つとしての造形活動を援助するという側面が強く、美学や美術理論、美術史その他の言語ゲームで構成されるアートとは若干位相を異にする。子どもの美術とアートの違いを踏まえた上で、しかしそれを完全に分断するのでない繋がりを持たせたかたちで子どもに感得させるのは、かなり難易度が高い。
図工や美術の時間が削減されている中でこうした理想や目標を掲げて、どれだけそれを実行できる環境があり、教員がいるのか、私には想像もつかない。


こちらは開隆堂という出版社の教科書の紹介ページ。一昔前に比べてオーソドックスな課題は少なめで、多様な素材の導入とコミュニケーションを目的とした表現が目につく印象。
だが、どんな内容豊富な教科書を使い、より良い素材を与え、お手本の指導案を実行したとしても、結局指導者によって授業の効果は大きく違ってくる。
実は仕事先の大学のある学部で、幼稚園あるいは小学校の教員を目指す学生向けの図画工作(1年)と造形実技(2年)の授業を持っている。作業を面倒がったり手が汚れることを嫌がる学生がたまにいてびっくりする。もちろん全員が教職に就く(就ける)わけではないけれども。
‥‥‥と書いていてだんだん気分が重くなってきたので、まとまらないがこのへんで。



● 資料
日本の美術教育の変遷
明治4年から平成11年まで130年余りの流れが俯瞰できる。「生活に役立てる」「写実」から「創造性を伸ばす」「造形」というような変化が見られ興味深い。「実利」に重点が置かれたのが「情操」教育へと変わっていく様子がわかる(アートの領域が拡大するのにある程度対応して、美術教育も内容的な幅を持つことになり、結果子どもにとっては何をやっているのかわからなくなるということはありそうだ)。


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*1:だからというわけではないが、芸大の入試では単純にデッサン力だけが問われることはない。

*2:こういう物言いがまた画一的なのだが。