自分の身体を中心化した支配欲の現れ、「セクハラサイコロ」

仰天!小学校「セクハラサイコロ」事件の真相 作成、行使の教諭「金八以上」と児童・保護者・卒業生が擁護 - MSN産経ニュースという記事につけた自分のブコメ

生徒にとって良い先生てのとは別に、「罰」の内容が全部この教師の身体や行為(する真似だったにせよ)を通したものである点が、生徒への直接的な支配欲を感じさせて気持ちが悪い。罰として掃除をやるとかないし

の補足として。


多くの生徒や父兄にはかなり慕われ信頼されていたという報道のように、この教師は別に「変態エロ教師」ではなかったのだろうが、やっていることはセクハラであり、しかもそれを「セクハラサイコロ」と堂々と名付けて生徒たちに受け入れさせている点で、二重の過失を犯している。
その点だけは思慮が足りなかったが、それを除けば良い先生だった、ちょっと不注意だった‥‥という見方もあるかもしれない。しかし、この教師の「良い先生」ぶりと、「セクハラサイコロ」というアイデアは、深く結び付いていたのではないだろうか。さまざまな報道を見ていてそう思った。


昔はよく、生徒の親身になって面倒を看ようとする教師、生徒との距離を詰め心を掴もうとする教師の中で、時に生徒を殴ることで教育目的を達成しようとする人がいた。「熱血先生」は、裏返すと暴力(体罰)教師‥‥というのはよくある話だった。だが殴られても生徒は、「自分が悪いということを体でわからせてくれた」「その時は嫌だったが、生徒思いの先生だからだと思った」などと言うし、父兄の評判も悪くないのだ。
当然その教師の中でも「殴る=生徒のため」という公式ができており、生徒への"愛情"から、別の罰(半日廊下に立たせるとか)を与えるより、あえて自分の手を使って「殴る」ことを選んでいたりする。


「自分の身体を使って相手の身体に直接働きかけるような行為」は一般に、相手に対する一定以上の感情を抱くことから現れる。暴力であれ抱擁であれ(それも時に「暴力」となるが)何であれ、相手との身体距離を縮め、時にその境を曖昧にするような直接的な行為は、相手の情動に強く働きかけたい時に出る。そこにあるのは、「相手をコントロールしたい」「支配したい」という欲望だ。
そして、何をどう取り繕っても教室にあるのは教師 - 生徒の「権力関係」である以上、教師から生徒への直接的身体行為を「支配」と完全に切り離すのは(‥‥少なくとも切り離していると看做されるのは)難しい。


このことが、今回の事例にもあると思う。
まず一番の疑問は、なぜ生徒が「悪いことをした罰」が、その教師による生徒への「キス」「ハグ」「ハナクソ」「ハゲうつし」「くつのにおい」「顔ケツタッチ」「恋人指切り」「肩組み」「頭なでなで」「ツバほっぺ」なのだろうということだ。なぜ「窓拭きをする」とか「一週間花壇の係」とか「○○について調べてきて発表する」といった生徒側の自律した行為ではなく、全部、その教師から生徒の身体への一方的で直接的な行為になっているのだろうか。
いくら「これは生徒にとっては嫌なことだろう(だから罰になる)」と教師自身に自覚されていたとしても、すべての「罰」が「生徒が自分でしなければならない行為」ではなく「教師が生徒に一方的にするか、共にすることを強要する行為」であり、一貫して彼の身体が中心化されているのはちょっと異様だ。
これは、自分と相手との身体距離を縮め、時にその境を曖昧にすることで相手の情動に強く働きかけたいという、支配欲求の現れではないだろうか。


「セクハラ」というものを軽々しく弄んで、子どもに誤解を与えたり良くない影響を及ぼしたのはもちろん問題だが、そもそもそういうアイデアを指導熱心で皆に慕われる「良い先生」だった小学校教師が思いついてしまった(「実際にはしていない。する真似だけだった」というのはもちろん関係ない)ところに、根深いものを感じる。
教師という職業とどうにも不可分の、だからこそ振る舞いを慎重にコントロールしなければならない"愛情"=支配欲の問題と深く関わる事件だと思った。