男は「代用品」を愛する(なぜフェティシズムは基本的に男のものなのか)

フェティシズム、セクハラ、ロリコン(前記事への反応に応えて)


しつこいですが短めに。
フェティシズムはもともと「神の宿った呪物」を奉る物神(フェティッシュ)崇拝から来ており、本来のものではなくその「代用品」を目的化し崇拝の対象にするということ。精神病理としてのフェティシズムで例に出される女性の下着や靴への執着(それなしには性的に興奮できない)も、マルクスが指摘した資本主義社会における貨幣への信仰(只の紙切れが特別な意味を帯びる)も、プロセスや手段となるべきものが目的化している、「代用品」への偏愛であるという点において同じである。
性的嗜好としてのフェティシズムの世界を見渡すと男が多いのは何故か。男にとって女とはファム・ファタールから制服の処女まで常に「妄想の女」であり、妄想=代用品を通してしか男は欲情できないからである。それなしにもし"女の実像"に到達すれば、ファンタジーは消滅し性的興奮は失われるのである。
いや"女の実像"などというものはそもそもないかもしれない。"そこ"はただのブラックホールかもしれない。そうした恐ろしい事態に直面するのを回避し、欲望の経済圏を維持するために、男は「妄想の女」=女の代用品を求める。
女の身体を細分化してその部分に欲情してみたり、女の身につけるものに欲情してみたり、女を奇妙なシチュエーションに置いて欲情してみたり、女に奇妙な付属品をくっつけて欲情してみたり。男はありとあらゆる方法で女をモノ化し、その上で欲情する。ここまでの"変態的"なバリエーションの豊富さとそれに賭ける無為な情熱の底知れなさは、女のフェティシズムには欠けている。
そのようにして、現実の女に出会う前から代用品に馴染んだために現実に失望して代用品に後戻りしている男もいれば、現実の女とは現実的なつきあいをしつつ別口で代用品を追い求める男もいれば、代用品としての「女」を巧みに装着した女に騙され利用される男もいれば、現実の女を代用品として扱い嫌われる男もいる。それらに疲れた男は最後に、「女はわからん」と呟く。女はこんなことは言わない。女は男がわかろうがわかるまいが割とどうでもいい(ことが多い)。
男のフェティシズムの根深さは、男が"女の実像"(を女自身も知らないが)に対面するのを恐れるがためである。フェティッシュの元の意味は「呪物」であった。「女」はヘテロ男のセクシュアリティに取り憑いた呪いである。
おしまい。



(詳しくは拙書『「女」が邪魔をする』をお読み下さい)