母なるものに覆われゆく社会 - 『トイレの神様」に感動し「タイガーマスク運動」に癒される

トイレの神様が大嫌いな奥様


この「トイレ」を連呼する曲の何がそんなにいいんだ?と首を傾げていてYouTubeに付いた絶賛コメントを見て仰天したのが半年ほど前だったが、当然アンチもいるわけで、上の2ちゃんスレには、小学生の作文で感動押し売り、老人受けのお涙頂戴、ドヤ顔の婚活ソング、介護も手伝わず「待っててくれたんやね」は虫がいい、などなどdisが溢れている。
その中で、目に止まった発言。

683 :可愛い奥様:2011/01/13(木) 11:48:52 ID:X+dBXoAv0
この曲で感動する人達≒伊達直人 な気がしてきたw


実際はどうだかわからないが、「‥‥な気がして」くるのは確かだ。トイレ掃除というのは一般に誰もが一番やりたくない汚れ仕事だから、それを積極的に行うことに意義が見出される。児童養護施設への匿名の寄付も地味で利他的な行為。いずれも重要視されているのは、目立たないもの/ことへの素朴な奉仕の精神。
こうして私的な場所でも公的な場所でも、「自分にできる範囲で役に立つことをしようよ」という、誰も表立っては反対できない道徳的雰囲気が醸成されていくのだろう。『トイレの神様』は小学校の道徳の授業でも使われたという経緯があるらしいので、「タイガーマスク運動」も早速格好のネタになっているだろう。




455 :可愛い奥様:2011/01/10(月) 17:54:05 id:AWF7PSC/0
この歌って実家が隣にあるのに虐待か何かされて
親と一緒に暮らせないかわいそうな子の作った歌でしょ


そうなの? 虐待親だったら子どもを隣に遊びに行かせない(行ったら連れ帰って折檻とか)のではないだろうか。
私は違う解釈をした。


隣に実家があるのに「小3の頃からなぜだかおばあちゃんと暮らしてた」のは、要は家族が事実上崩壊していたので、娘は隣に住む祖母の家に入り浸っていたということだ。親は共稼ぎでこの娘はおそらく鍵っ子である。母は普段昼間は仕事で家におらず、休日は溜まった家事に追われている。お母さんにちっとも構ってもらえないという不満が、おばあちゃんへの過剰な依存に向かったのだ。
仕事が忙しく夫から家事育児の協力も得られず、円満で居心地の良い巣作りがうまくいかなかった母。しかし娘に、母に協力せず家庭崩壊を食い止めようとしなかった父親への批判はないだろう。父の機能をなくした父親は、娘の視界に入っていない。


娘が比べているのは、「お母さん」と「おばあちゃん」という、自分に先立つ二人の女だ。その二人のどちらの生き方を参照するべきか。
娘が選んだのはおばあちゃんの価値観である。それは言ってみれば、「いくら女が外で頑張って働いていてもべっぴんさんにはなれないよ。トイレをいつもピカピカにしている女だけがべっぴんさんになれるんだよ」だ。
この歌の根底にあるのは、母ではなく祖母が「ちゃんと育ててくれた」という認識をもつ娘の、自分を欲望しない母への怨恨である。


子どもの頃はそんなふうにしか思うことができなくても、大人になればなぜ母が「おばあちゃん」のように自分を構うことができなかったのか、そういう余裕を母から奪ったものは何か、少しは違う視点から見るようになるものである。
自分が上京し一度も帰郷しない間、病気になった祖母の介護をしてきたであろう母の苦労を偲ぶこともできるはずだ。年金暮らしのおばあちゃんは暇だから孫を構うことができたのであり、自分の生活を支えていたのは親の経済力だったということに思い至るはずだ。
ところがこの娘はそれをしない。「おばあちゃん」の「恩」を感謝し「ありがとう」を繰り返す分、母への怨恨はおそらく深い。


お母さんがそんなふうだから家族がよそよそしくなって、わたしはおばあちゃんのところしか「居場所」がなかった。「おばあちゃんとぶつかった」時、「家族ともうまくやれなくて 居場所がなくなった」のは、巣作りに失敗したお母さんのせいだ。だから「休みの日も家に帰らず 彼氏と遊んだりし」、「ひとりきり家をはなれ」るしかなかった。そんなわたしはお母さんと違って「気立ての良いお嫁さんになるのが夢だった」。‥‥‥これらの言葉が働く母への復讐でなくて何だろう。
惜しみなく与える「おばあちゃん」こそが、娘にとって母そのものである。この歌が素朴に賞賛されたのは、そうした母なるものに回帰したいという欲望が、薄く広く蔓延しているからではないかと思う。



オイディプスの神話 - 男の魂に火をつけろ!


タイガーマスク』の原作者、梶原一騎は、「主人公の前に立ちはだかって試練を与える巨大な父性に対し、それを超えようともがく者たちの姿を描いてい」るが、「どの作品においても、けっきょく主人公たちは父性を超えることができずに終わる」という。
超えられない高い山として、息子の前に抑圧的に立ちはだかる父。少年漫画に限らず、スター・ウォーズからエヴァンゲリオンまで、オイディプスの神話=父に対する息子の葛藤がベースになっている物語は多いだろう。


しかし現実では、父性や父権といったものは減退、失墜していると言われて久しい。むしろ父親不在の家庭が増えている。父親になったのにさまざまな理由からその役目が充分に果たせない男性も少なくない。だから「イクメン」がもてはやされるのだ。
イクメン」などといういかにも男女共同参画な"女への媚"を含んだものではなく、あくまで権威を象徴する父として振る舞おうとすると、一挙に石原慎太郎のような滑稽な男根主義者になってしまう。
母と娘が密着し、母親が息子離れしない傾向が強くなれば、父は家庭の中で孤立する。母子一体の蜜月はいつまでも続き、父がその間に割って入る機会は失われる。
こうして、ますます母親の欲望が全面に出てくる。抑圧するのではなく、惜しみなく与え奉仕することで支配しようとする母親の欲望が。


父を演じたくても演じられない男たちは、足長おじさん的な覆面の疑似ファーザー(伊達直人)として、疑似チルドレン(児童養護施設の子供たち)に贈り物をしたいと思うのかもしれない。
だがそれは抑圧的な父 ---- 母子の間を引き裂き蜜月を終わらせ、子供を厳しい社会へと押し出すオイディプスの父ではない。父の仮面を被った母である。


好むと好まざるとに関わらずそこに「恩」を生じさせる一方通行の贈り物は、母の欲望そのものだ。家族という最も身近な親密圏の成立と維持が困難になった分、贈り物欲はいきなり「恵まれた大人- 恵まれない子供」のレベルに飛躍する。これが「ちょっといい話」として喧伝される社会は、母なるものに全体が覆われゆく社会である。
いつか超克し殺すべき相手としての父の存在しない社会で、誰も表立っては反対できない真綿のような母の欲望に、私たちはゆっくりと慣らされ、締め殺されていくだろう。