「寛容」という言葉

日本人が失ったのは「寛容」ではなく「身内」では? - シロクマの屑籠(汎適所属)


「昔の日本人が寛容だった」というのはあくまで「身内」に対してであり、かつてのような地域社会の密接な人間関係が崩壊した結果、「身内」と呼べるような相手がいなくなったのと同時に、「寛容」に振る舞う契機も失われた(ネットの村コミュニティがそれを代替している)‥‥‥という主旨なんですが。
別にこのエントリ(が言わんとするところ)への反論ではないのだけど、「寛容」という言葉の使い方が気になった。
SNSなどネットのコミュニティに参加する人の多くが求めているのは、「触れ合い」じゃないかな。その副産物としてあるのは、「寛容」と言うよりむしろ「(被)承認」じゃないかな。


そもそも異質な者を排除した「身内」に対する「甘さ」を、果たして「寛容」と呼べるのか?という疑問がある。
「寛容」という言葉は、英語のtolerationを訳したものですね。wikiを見てみましょう。

寛容(かんよう、英: toleration)とは自分と異なる意見・宗教を持っていたり、異なる民族の人々に対して一定の理解を示し、許容する態度である。

日本語の「寛容」は、明治になって翻訳された語である。英語"Tolerance"の語源を調べてみると、endurance, fortitude とあり、もともとは、「耐える」、「我慢する」という意味をもつ言葉である。次第に、「相手を受け入れる」の意味をも含むようになったが、無条件に相手を受け入れるというより、自分の機軸にあったものだけを許す、という意味あいが強い。 [1]
現在使われている「寛容」(Tolerance) は、近世ヨーロッパ社会において産み出された概念である。というのも、「十六世紀の宗教改革の結果として、カトリック普遍主義が崩壊すると共に、多くの同時代人が宗教的な寛容を重要な課題または争点として認識するようになった」[2]からである。更にいえば、「まず宗派間の対立感情が頂点に達する宗教戦争の時代には、寛容は信仰の弱さの表現として否定的に考えられたが、やがて宗教戦争から平和に移行する段階になると、寛容はいわば必要悪として暫時的にではあるが肯定され、信仰の問題というよりも国家理性を優先する立場からカトリックプロテスタントの平和的共存が実現される」[2]という状況になったからである。 これは、積極的に相手を尊重するのではなく、「異端信仰という罪悪または誤謬を排除することのできない場合に、やむをえずそれを容認する行為であり、社会の安寧のため、また慈悲の精神から、多少とも見下した態度で、蒙昧な隣人を許容する行為」[3]をするためであった。 これは、宗教戦争を経験したヨーロッパにおける特殊事情が、「寛容」を強要されたわけであり、仕方無しの「許容」である。


異なる民族や異なる宗教、価値観がぶつかり合うヨーロッパで、異なる者と共存することにより自分も生き延びていくという知恵から、一種の紳士協定として「寛容の精神」が生まれた。
お前のことは今いち気に入らないが、喧嘩するのも互いに労力の無駄遣いだからまあ大目に見てやるよ、その代わりこっちのことも我慢しろ。この均衡が崩れたら戦争です。生易しい観念ではなかったわけです。
それも互いが共存することで何らかの利が得られる関係においてであって、そうでない場合は「寛容の精神」など発揮せず潰しにかかる。魔女狩りはそうやって行われた。


広辞苑の「寛容」の項目。

1 寛大で、よく人をゆるし受けいれること。咎めだてしないこと。「―の精神」「―な態度をとる」
2 他人の罪過をきびしく責めないというキリスト教の重要な徳目。
3 異端的な少数意見発表の自由を認め、そうした意見の人を差別待遇しないこと


「ゆるし」「咎め」「罪過」「異端」などの言葉を見るに、主流派正統派を自認する立場から異なる者を容認するという意味合いが刻まれているのがわかる。容認とは相手の立場や存在にケチをつけない、スルーするということだ。
元ネタのTogetter - 「「最近日本から寛容さが失われている」のは何故か」の中に、「関心を持ち過ぎて他者を傷つけるなら無関心の方が100倍マシだろう」という意見があった。それを「儀礼的無関心」だと捉えれば「寛容」に入るかもしれない。


もちろんp_shirokumaさんが「寛容」の語源を知らなかったということはないと思うのだけど、同質性を前提とした「身内」に対して、異質な外部者をあえて容認する「寛容」を使うのはやはりそぐわない気がする。記事で書かれているように、それは「身内贔屓」だ。
そして身内贔屓も、「身内」という共同体の結束を固め、自分たちが生き延びるための作法として使われてきた。そこで異質、異端な者は村八分となる。魔女狩りと同じく。


エスニック・マイノリティ、セクシュアル・マイノリティに対して、「寛容」という言葉が使われるのを見たことがある。「慈悲」と同じで、ちょっと失礼な上から目線になるだろう。「寛容」はあくまで主流の感覚、正統的価値観を自認する、余裕ある者の態度。異なる者として互いを認め合う言葉には「尊重」を使いたい。*1
ただ、「最近日本から寛容さが失われている」という現象が仮にあったとしても、多くの人に寛容さを求めるのは"無理"のある事柄と、そうでない事柄とが混在しているのが実情だ。その際の"無理"はマジョリティの感覚、価値観に基づいているわけだから、その感覚、価値観を当て嵌めるのが本当に妥当かどうかの検証も含めて、結局は一つ一つの事例について丁寧に見ていくしかないということだと思う。

*1:とは言え、「寛容」も「尊重」もいろんな意味で自分の立場を利するために政治的に使われている、価値の飽和した言葉かもしれない。