後から発見されるもの

おおまかな内容を決め、骨組みを作り、最終地点を予測し、必要な情報などを揃え、それに沿って比較的スムースに書いてきた25、6枚の原稿があと数枚というところでピタッと止まってしまい、全然前に進まなくなった。諦めて数日、関係ない本などを読んだりしていたら、突然突破口のようなものが。大幅書き直し。
スムースに書けてきたある程度のボリュームの文章が、あるところで止まって進まない原因とは何だろう。人によって違うと思うが、私の場合は何か些細な(に思える)観点を無視してきたことに依る。それは一見、構想している内容には沿わない、論旨の流れに逆らうノイズ、異物だ。だから無視。これを大概無意識のうちに、最初の段階でやっている。


何かを伝達する時に、ノイズをできるだけ排除した方がいいという考え方がある。その方がメッセージはクリアにストレートに相手に届く。主張にもコストがかからない。
じゃあそんな邪魔なものは入れてなくて良かったじゃん。
ところが、異物を、全体の流れを滞らせるから邪魔なものだと考えると、落とし穴に嵌るのだ。
異物がなかったことによってあるところまでスラスラ書けた、それがそもそも落とし穴だ。何の抵抗も感じずに書けているということは、大抵何かに目を瞑っている状態だから。短い雑記や覚え書き程度ならそうアラも出なかったりするが、少し長めの文章で何かを論じようとする時この態度は通せない。最後の方になればなるほど、論はやせ細り話は尻すぼみになっていき、あるところで止まってしまう。


異物はわかりやすいメッセージに抵抗する。その抵抗は、テキストのあちこちでスムースな流れを滞らせ、軋轢を起し、論の単純化を妨げ、結果的に全体を活性化させる。
数行の文章か短いフレーズかはいろいろだ。それがあるとちょっと話がややこしくなるというような、まとめるのが大変になるというような、全体に逆らう厄介な一要素。そういうものをあらかじめ放り込んで組み立てていかないと、あるところで必ず展開に行き詰まるということを、私は経験的に知った。


そこまでわかっているなら、その異物を最初から取り込んでおけばよかったじゃん。
その通りだ。でも最初に書いたように、異物の無視は無意識のうちにやっているのだ。その上で、おおまかな内容を決め、骨組みを作り、最終地点を予測し、必要な情報などを揃え、今回はこれこれの要素で展開できると踏んでいる。
だからあるところで手が止まっても、自分が何を捨てていたのだか俄にはわからない。いくら書いたものをつついてみても、私程度の頭ではわからない。
半分諦めかけて関係ない本などを読んだりして、頭の別の部分を使っている時に突然、自分が無視していたものが浮かび上がってくる。ただそうなるのはわりと幸運なことで、わからないまま、メッセージがストレートなだけの駄文を完成させてしまうこともままある。


異物は一旦排除され、その後から必要なものとして発見される。何故か一旦は排除の憂き目を見る。
そして後で、それを包み取り入れることが、全体の活性化にとって重要であったという反省とともに、見出される。
だが、その「後」がいつ来るのかはわからない。
これは多分、文章を書く時に限ったことではない気がする。