カンディンスキーの「あれ?」と地図をひっくり返した小学生

デザイン専門学校のデッサンの時間、幾何形態の形の狂いに気づかないで描いている学生に、「紙を横向きにしてみて」と言う。なんで?という顔をしながら画用紙をぐるっと90度回してみると、「あれ?」。なんか変。
形の間違いがそのままで発見できればそれに越したことはないが、少しばかりの狂いはわからない。ずっと見ていればいるほど、見慣れてしまうので。でも見方を変えるとわかったりする。「普通」にしているとわからないことがね。
などと言いながら「じゃ直してみよか」と紙を横向きから元通りにすると、「えーと‥‥」。どこがどう狂っていたんだっけ、またわからなくなっちゃった。「普通」ってこわいですね。


横向きの絵からインスピレーションを得たという、カンディンスキーの有名なエピソードがある。
カンディンスキーがまだ具象的な絵を描いていた時のこと。ある日、帰宅した彼は、アトリエの片隅に「神秘的な輝きに満ちた美しい作品」が立てかけてあるのに気づいた。驚いてよく見たら、なんだ自分の描いた馬の絵ではないか(自分のアトリエだから当たり前だ)。たまたまキャンバスを横向きにして置いてあったので、一瞬わからなかったのだ。
具体的な対象の形が認識できなかったことによって、ストレートに目に飛び込んできた色彩の「神秘的な輝き」。だが一旦気づいてしまうと、後は何をどうやって見てもただの馬の絵にしか見えず、最初の「あれ?」という新鮮な驚きは蘇ってこなかった。カンディンスキーが凄かったのは、そこから「じゃあ、絵画の美にとって具体的な対象は邪魔じゃない?」と考えたことだ。そうやって彼は抽象絵画の道を歩み出した。
凡庸な絵描きなら、「なんだ錯覚だったのか」で終わりだろう。そこに働いているのは、「これは普通の見方ではない」という考え方だ。「普通」に囚われないで「あれ?」と思った時の感覚を強烈に自分の中に刻みつけ、この先に何か面白いことがあると信じられる人だけが、the next doorを開けるのだなぁ‥‥ということがよくわかる話である。


カンディンスキーが活躍し始めた頃から以降のアートの歴史は、「普通」を無限にひっくり返していく試みの歴史だった。ありとあらゆる手が出尽くしたと思われながら、アーティストはまだ見ぬ「あれ?」を求めて呻吟した。
デザイン専門学校のデッサンでの目標は、言わば「普通」を正しくまっとうすることだから、「横向きの方が絵として面白いので、これでいきます」という発想は封じられる。というか、発想を封じはしないがそれは別のところでやってねということになる。これはアートじゃないからね。



10年ほど前の話だが、世界地図をモチーフにしたパズル作品を作ったことがあった。パズルのピースは693個。すべて15ミリ角の立方体。だからピースの位置を正しい場所に嵌めなくてもパズルは完成する(めちゃくちゃな世界地図になるが)。ピースの裏面は、表の地図に使われている色別で9色に塗り分けた。
まったく同じ世界地図パズルを三点制作し、その内二点はある観点に沿ってピースを組み替えたものにし、三番目だけビジターが好きな地図を作れるように、ボードの上にピースをごちゃごちゃにして置いた。例えばバーレーンの両隣にスコットランドの北半分とアリゾナの一部があって東シナ海に面している‥‥なんてシュールな地図も作ろうと思えばできる。
最初はバンコクのギャラリーで発表した。たくさんのピースの中からタイにあたる部分を探し出し本国の地図を作っている人。かけ離れた国に流れている河だけを繋げて遊んでいる人。適当に選んだピースを組み合わせて「自分の島」を作っている人。皆、勝手に地図パズルを楽しんでいた。(ここまで前置き)


さて、これを別の企画展に出品した時のことだ。
ビジター用のパズルはどんなふうになってるかなあと楽しみにしながら最終日に会場に行って、私は思わず「あれ?」と言った。そこで目に飛び込んできたのは、観客が遊んだ後の、ピースの散らかったカオス状態ではなかった。
すべてのピースは一つ残らず、ボードにきっちりと嵌め込まれていた。そしてその表面は地図ではなく、整然とした9色の縞模様になっていた。
会場の係の人によれば、昨日小学生の一団がやってきて、ワイワイいいながらピースを色別に分けて列にして嵌めていったらしい。彼らは地図を作ることには興味を示さず(まあ日本を探し出すだけでも大変だ)、ピースの裏面の色に反応したわけだ。
普通はああいうふうに置いてあったら、「参加型の作品か」ということで何らかの地図作りを試みるはず(「好きなように地図を作って遊んで下さい」というキャプションもあったし)‥‥という私の中の「普通」は、小学生にあっけなくひっくり返された。まさしく(ピースの)裏が表にひっくり返されることによって。
カンディンスキーのような人ならこれをきっかけにthe next doorを開くのかもしれないが、私はその二年後にアートから足を洗ってしまったので、体験をブログに書き記すのみである。