使われる物なのに使えない物

薄くて、ふんわり軽くて、柔らかくて、うっとりするほどきれいで、繊細で、丁寧に扱わないといけなくて、とてもいい匂いのするもの。しかもあっけなく捨てられる運命にあるもの。
バラの花びら以外にそんなものが世の中にあるとは、5歳までは思っていなかった。


水洗トイレがまだ家庭に完全に普及していない1960年代、トイレのロールペーパーは私の記憶ではデパートのトイレくらいにしかなく、家のトイレには、四角いB5くらいの大きさのちり紙が浅めの箱に入れて置いてあった。ちり紙は少しグレーがかっていて何となくごわごわしていて、使い心地はよくなかった。
しばらくしてもっと薄くて白いちり紙になった。そのちり紙をいつも5、6枚重ねて四つ折りにして、母は私の幼稚園のバッグにハンカチと一緒に入れた。鼻をかむ鼻紙の代わりに。ポケットティッシュなんてもちろんない時代。


ある日、幼稚園の友達がとてもきれいな鼻紙を持ってきていた。薄いピンクで、大輪のバラの花の透かし模様が全体的に入っている、今まで見たことがないような大人っぽくて繊細なやつ。目が釘付け。
「きれーだねー」という私の声には明らかに、「それ、ほしいな。一枚くれないかな」という期待が混じっていただろう。
「ほしい?」「うん」
察しが良く気前もいい友達は鼻紙の束から丁寧に一枚を引きはがし、つまんで差し出したそれを私は両掌で受けた。
「きれー‥‥」。鼻を近づけるとふわぁ‥‥と、白粉のような香水のようないい匂いがした。一枚だけの鼻紙はどこかに飛んでいってしまいそうな頼りなさで、バラの花模様も一層優雅に見える。子どもの目には結構複雑なその模様を、隅から隅までじっくり眺めた。


きれいなものは身近に幾つもあった。ガラスケースに入った人形とか、クリスマスのツリーの飾りとか、ケーキの下に敷いてある白いレースとか、花壇の花とか、母の指輪とか。
だが私にとっての世界はまだ非常に小さいものだったので、今手にしている薄いバラの透かし模様の鼻紙くらいきれいなものは、この世にはないと思った。
世界一美しい鼻紙は、「使いなさい」という表向きのメッセージを発しつつ、「使えないでしょ」と囁いていた。その相反する2つのメッセージが醸し出す存在の不穏な魅惑が、5歳の私をしっかりと捉えていた。それが最初の「使われる物なのに使えない物」との出会いだった。


その後、「使われる物なのに使えない物」が"宝箱"の中に溜まっていった。内藤ルネのイラストのノート、白雪姫の絵のついた鉛筆、マーブル模様の消しゴム、高橋真琴バレリーナのハンカチ、ガラスのボタン、中原淳一のポストカード、ワッペンやシール。
時々その箱を開けて一つ一つの品物を取り出して眺めながら、分裂した妙な気分を味わった。「使いなさい」「使えないでしょ」。誘惑しながら拒み、拒みながら誘惑する。相反する2つのメッセージを同時に発するものは、人を魅了し少し不安にさせる。


現在、自分の身の回りを見渡してみると、「使われる物なのに使えない物」は少ない。昔、衝動買いして使い途のない便箋セットやポストカードが残っているくらいだ。その引き出しを開ける度、やれやれという気分になる。「消耗品だけどきれいだから保存しておくために入手する」という価値観を捨ててしまった今は。
しかし街を歩いていて、ショーウィンドウや店先などに何か美しいものがあるのに気づき、吸い寄せられて近づいて見る時、大抵それは「使われる物なのに(自分には)使えない物」である。繊細なカッティングを施されたクリスタルのシャンパングラスとか、真っ白な高級リネンとか。もし大枚はたいて手に入れたとしても、壊したり汚したりするのが怖くてきっとなかなか使えないままになるな‥‥と思いながら、私はそこから立ち去る。一個一万円以上するバカラのグラスも幼稚園の友達に貰ったバラの透かし模様の鼻紙も、私には同じ美しくて不穏な物だ。



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