あらしが来るとは誰も思っていなかった ---- ドラ・ド・ヨング『あらしの前/あらしのあと』

『あらしの前/あらしのあと』(岩波少年少女文学全集、1961、吉野源三郎訳)を、久しぶりに再読した。
著者のドラ・ド・ヨングはオランダ人女性だが、「あらしの前」(原題:THE LEVEL LAND)は1950年にアメリカで出版されて好評を得、その7年後に「あらしのあと」(原題:RETURN TO THE LEVEL LAND)が出されている。
私の持っているのは、この二冊が一緒になっている50年前の古い単行本。今は岩波少年文庫に別冊で収められている。日本に紹介されている欧米の児童文学の中では、わりと地味な部類に入るこの本を手に取ったのはもちろん、「不安の中でどう振る舞うのが正しいか」のヒントがどこかに書いてなかったかなと思ったからだ。

あらしの前 (岩波少年文庫)

あらしの前 (岩波少年文庫)

あらしのあと (岩波少年文庫)

あらしのあと (岩波少年文庫)


オランダのユトレヒトから東に行ったアルネムという街に近い村の、お医者さん一家の物語である。「あらし」とは第二次世界大戦のこと。「あらしの前」は、1939年の晩秋から翌年の5月にかけて、つまりまだ平和な暮らしが保たれていた頃からドイツ軍のオランダ侵攻が始まるまでの約半年余りを、「あらしのあと」は戦争が終わり復興しつつある頃を描いている。
村の人々に信頼されている医者の父、父を支える母、しっかり者で正義感の強いミープ(長女)、音楽の才能のあるヤップ(長男)、少し屈折しているヤン(次男)、ヤン思いの優しいルト(次女)、腕白なピーター・ピム(三男)、アンネ(末っ子の赤ちゃん)の大家族。その他、古株の家政婦のサーシャ、ドイツから亡命し一家の元に身を寄せるユダヤ人の少年ヴェルネルなど、登場人物は多い。
「あらしの前」では、戦争の影が近づいてきているとは言え基本的には幸福な家族の日常の、ちょっとした波乱や人間模様が描かれている。両親が欠点の見当たらない安定したタイプで、家族間の軋轢があまりなく、あったとしても大事には発展しないので、物語展開はやや冗長に感じられるが、日々の暮らし、子ども達の冬の遊び、クリスマス、家族旅行、復活祭など、戦前のオランダの中流家庭の生活文化の細部描写はなかなか楽しめる。


人物で面白いのは、屈折を抱えているヤンだ。父親のように医者になりたいという強い願望を持ちながら、学校の勉強についていけてないことで内心焦りつつ、自分のことを案じてあれこれ手助けしようとするルトがいささか疎ましい。よくできた妹だけに、落ちこぼれの兄にはその心遣いが却って負担なのだ。そんな兄にも、妹が病気で寝込んだ時、つらく当ったことを激しく悔やむというかわいいところがあったりする。
このヤンだけが「あらしのあと」には登場しない。ドイツ占領下で地下活動中に捕らえられそれきり戻ってこなかったことが、さらっと触れられているのみである。心理描写が比較的丁寧になされている人物だけに、ちょっと意表を突かれる。「あらしのあと」は、アメリカに亡命した後に米兵となったヴェルネルの訪問と、少し大人になったルトが兄の死を乗り越えていく姿を中心に描かれている。

あらしの前

子どもの頃に読んだ時はほとんど知識がなかったのでピンとこなかったが、再読して興味深かったのは、第二次世界大戦勃発時のオランダの一般市民が、隣国ドイツの動向についてはいかに安心していたかという描写が、ちょくちょくある点だ。
オランダは長年ドイツとは友好的な関係を保ってきた国であり、1939年にドイツがポーランドに侵攻し、英、仏が宣戦布告して戦争が始まった後も、中立を保持しようとしていた。1940年の春頃まで、オランダの多くの国民は、まさか大きな「あらし」が自分たちに襲いかかってくるとは思っていなかった。郊外ののどかな地域に暮らしている人々なら尚更だろう。
その一家の中でも、危機感を表しているのは、アムステルダムの学校に行っているミープだけである。以下は、お手伝いさんのヘーシャが「ドイツ人だってまさかこの国にやってこようとは、いたしますまい」と言ったのに、彼女が反応するシーン。

「まあ、そう思っていましょうね。」とミープはいいましたが、そう信じきってはないふうでした。
 おとうさんは、びっくりして、ミープをみつめました。
「おまえは、それを信じないのかい、ミープ。」
「あたし、ドイツ人は、あたしたちの国に侵入しよう、と考えていると思います。どうして、こないはずがあるでしょう。」
「気がちがってるよ、そんなこと。」と、ヤップがいきりたちました––––「ねえさん、アムステルダムの、バカなやつのいうことをきくんだね。」
「そのことを、いいあらそうのはやめましょう。あたしも、あたしのほうが、まちがいだってことに、なってもらいたいわ。」ミープは、テーブルの上をかたづけにかかりました。彼女は、じぶんのいったことを、人々がとんでもないと考えているのを、よく知っていました。ここではだれもかれも、ミープのいうことを、バカにして笑いました。しかし、アムステルダムには、ミープと同じことを、心配している人々がいました。


きな臭い噂話に、ドイツ軍が本当に侵入してくるのではないかと不安になってきた母親に、ヘーシャが言う。

「いいえ、いいえ、」ヘーシャは、おかあさんを安心させようとしていいました–––––「そんなことは、ただの噂でございます、政治家のする手でございますよ、おくさま。この前の戦争のときだって、やってきませんでした。こんども、やってくる気はありませんでしょう。」


父親は、苛立ちを見せた長男を諭す。

「おまえ、わかったろうね、必要なことは、もうみんなやってあるんだ。アムステルダムとか、ロッテルダムのような大きな都市では、防空壕が必要だが、この村のような小さな村では、爆撃の危険はないよ。とにかく、前にもいったように、私たちはワーテル線で守られているんだ。われわれは強いし、ドイツ人もそれはわかっている、その点についておまえが十分に考えなかった、ということは、おまえ自身が証明しているよ。おまえは、ほかの連中とまったく同じように、戦争心理にさらわれているんだ。それこそドイツ人の求めていることだ。ドイツ人は、私たちオランダが中立だとこまるので、私たちの士気をくじこうと思っているんだ。ミープのような人たちがいるんで、みんなが不安にとりつかれる。私たちはしっかりしていよう、そして、これから起こることを、覚悟をきめて待ち受けよう。わかったね、ヤップ。」


「あらしの前」の最後の章で、ヤンが夜、機影を見つけ父親に告げるが、「訓練をしているのだろう」といなされる。しかし一時間後には、ドイツ軍が来襲したことを一家は知る。それからオランダ降伏までの六日間、村は何度か爆撃を受け、父親は運ばれてくる負傷者の手当てにてんてこまいになり、屋敷は病院兼避難所と化す。ミープは怪我をしながらアムステルダムからジープで駆けつけてヴェルネルを亡命させるために連れてゆき、母が残った家族を励ます場面で終わっている。


都会にいてさまざまな情報を得、近い将来を見通していたミープが正しくて、田舎にいてそれを信じていなかった呑気な他の人々が愚かだったというふうには、ヨングはもちろん描いていない。振る舞いとしてはどちらも正しかったのである。
大丈夫。安心しなさい。そういうメッセージを家族によく発しているのは、父親とヘーシャだ。実際は「大丈夫」でも「安心」でもなかったわけだが、彼らの置かれた立場と状況を考えれば、大切なのは大状況の正確な予測のために奔走することではなく、目の前の不安でささくれ立った心を少しでも宥めようとする努力だっただろう。
不安がまったくないわけではないけれども、自分まで平常心を失って取り乱したら、この人はもっと不安と恐怖に苛まれるという小状況の予測を立て、一時的にでも相手の気持ちを救うことで結果的に自分も救われ、当面の日々の仕事に邁進できる。それは長い間の生活の知恵だ。その背後にはある種の達観も感じられる。


これは舞台がオランダであること、書き手がオランダ人であることと、大きく関わっているようにも思われる。低地にあり農業国のオランダにとって脅威はまず海という自然だったから、長年こつこつと堤防を建設して国土を守ることにエネルギーを傾けてきた。第二次世界大戦以前の百年の間、オランダは洪水に見舞われたことはあっても、戦争は知らない国だった。第一次大戦も中立を守り、亡命してきたドイツのヴィルヘルム2世を手厚く保護した。ドイツ占領下では少なからぬオランダ人がユダヤ人を助けた。*1
勤勉で穏やかで寛容なオランダ人‥‥というイメージは一面的に過ぎようが、もしオランダがナチズムに影響されて軍備を急速に強化し、好戦的な気分を煽って国民を戦争に駆り立て、多くの人々がその熱狂に呑み込まれていくような国であったら、父親やヘーシャのような人物を「ごく普通の大人達」として描くのは難しかったのではないかと思う。

あらしのあと

5年が経った「あらしのあと」、まだ物資がなく不便ながらも生活が立て直されつつある中で、印象的な台詞を言っているのが母親である。

ある日、子どもたちのひとりが、いつものように、きげんが悪いのは、戦争のせいだといった時、おかあさんは、じぶんの考えていることを、はっきりいったのです。夕食のときでした。
「おきき。」おかあさんは、たいへんきっぱりといいました。
「そんなこと、おかあさん、もう二度とききたくありません。もうこれからは、あなたがた、じぶんでやることには、ちゃんとじぶんで責任をおとりなさい。戦争はもうすっかりすんだんじゃありませんか。私たちはまた、ちゃんとふつうの暮らしにかえっています。そして、私たちが何をしようと、それは戦争のせいじゃなくって、私たちがするからするのです。そのときどきに、何かわけがあってするので、戦争のせいじゃありません。わかりましたね?」


これを聞いて子ども達はしゅんとなる。ただルトは後で、「だけどねえ、どうして考えないでいられるの? だってね、いろんなことが、ひどく変わっちゃったでしょう?‥‥」云々と、割り切れない自分の気持ちに共感してほしくてピムに問いかける。が、過酷な「あらし」を経て12歳という年齢のわりに大人びてしまった弟は、姉の問いには答えない。
答えないけれども戦争中、ヤンと同じように危険な抵抗運動をしていたピム少年の心の中では、まだ戦争は完全には終わっていない。このことが、ミープの4歳の息子ロビーに影響を及ぼしている様子も描かれる。
アメリカ兵になってドイツに駐屯していたヴェルネルが、さまざまなプレゼントをもって一家を訪れ、「ドイツにもこんなに物資があるのか」と聞かれて答えた時の、ピムとロビーの反応。

「そりゃ奴ら、持ってるさ。」と、ピムがいいました。「あいつたち、みんなぼくらから盗んでいったんだもの。」
「それで、このアメリカの兵隊さんがドイツ人のところから取ってきて、ぼくたちにかえしてくれたんだね。」とロビーがいいました。

この後、初対面のヴェルネルが自分へのプレゼントを持ってきていなかったことに拗ねて、ロビーがブツクサ言う。

「あの人ったら、ぼくには、スウェーターくれないんだもの、ほかの人はもらったくせに。どうしてドイツの子どもからスウェーターを、ぼくにとってきてくれなかったの?」
 ロビーがミープにつれられて寝室にいってしまうと、おとうさんはピムにむかっていいました。
「ごらん、ドイツ人がわれわれのものをとったなんて、ロビーの前でいえば、どんなことになるか、わかったろう? ドイツの子どもたちは、スウェーターを脱いでよこさなければいけないなんて、ロビーが思いこむようになるんだ。そんなことはまちがっているよ、ピム。また、そんなふうに話すのは、どう見たって、まちがっている。戦争はもう終わったのだ。いまでは私たちは、さきのことに心をむけていくんだね。」
 けれど、ピムは何かナチスのことを口のなかでいうと、部屋から出てゆきました。


「人のせいにするな」「前向きであれ」と子ども達に言う大人。ナチス・ドイツ支配下に5年もあって、それまでの平穏な日常をすべて奪われ苦難を舐めさせられた子どもに(大人にとっても)、それはあまりに厳しい言葉ではないかとも思う。
やっと生活は再建されてきても今、ここの苦しみや理不尽は戦争のせいであり、”ドイツ人のせい”であり、傷は簡単には癒されない。敵意や恨みも簡単には消えない。そんな中で、「理想の言葉」を正面から受け止めきれないのは当たり前だ。だが、ずっとネガティブな感情を抱えている自分もあまり好きになれない。どうしたらいいんだろう。そのあたりの傷ついた子どもの葛藤と立ち直りの経過が、妙に感情移入し過ぎることなく、だが暖かみをもって描写されている点が良い。
一家にすばらしいサプライズをもたらすユダヤアメリカ人のヴェルネルも、「英雄」という扱いではなく、彼の口からアメリカ人の長所と短所が忌憚なく語られる。また父親が、「ナチスは、ユダヤ人を迫害する前に抵抗したドイツ人を沢山殺しているということは忘れられがちだ」と、「ドイツ人憎し」に傾きがちな子ども達を牽制する場面もある。あちこちに慎重でフェアな目が行き届いているという印象を受ける。 


ドイツの侵入当時29歳だったヨングは、家族をアムネルに残してモロッコに亡命し、苦労を重ねた後アメリカに渡った。つまり「あらしの前」は彼女のオランダでの生活体験が元になっており、「あらしのあと」は戦後故郷を訪れてから書かれている。
訳者あとがきによれば、1950年に出版された「あらしの前」には、「この本をお父さまへ ----- どこにいらっしゃろうとも」と記されているという。生き別れになったのだとすれば、彼女の中では他の人々と同じく、戦争さえ起こらなければ‥‥ドイツがやってこなければ‥‥という怨嗟と悲しみが長い間渦巻いていただろう。そしてどのような事情があったにせよ、自分だけ難を逃れたという自責の念もまったくなかったとは言えないだろう。
そうした中でヨングは、「あらし」が迫り来る前と後の、「ごく普通の大人達」の我慢強く品位を失わなかった態度を、少年少女達に向けて丁寧に語ることで、自分自身を恢復させていったのかもしれない。

*1:長女ミープの行動は、アンネ・フランク一家の生活支援をし、日記を保管したミープ・ヒースを思い出させる。