「他者の承認」の外へ - 『めぐりあう時間たち』再見

「言葉たち」とか「思い出たち」とか生き物でないものに「たち」を付けるのを気持ち悪く感じるので、この映画のタイトル(原題は『The Hours』)はゾッとしなかったし、モチーフになっているヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』も未読だったのだが、友人に勧められてロードショーを観、ついでに小説も読んだのが8年前。その時に書いた感想文の書き直し(ネタばれあり)。



めぐりあう時間たち [DVD]

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問題を抱えたヒロインがおり、その問題は他者からの疎外感となって現れ、その中で彼女は「私って何?」と問い、様々な経験を経てようやく「私」を承認してくれる他者と出会い、自分を受け入れていく‥‥。承認を通じて癒しと自己肯定へと至る物語は、一つのパターンとして時々見られる。
そんな中で、この"女性映画"の日本公開時に付されたキャッチコピーの一つ「あなたは誰のために生きますか」への答は、言うまでもなく「自分のために生きる」ということになるのだろう。しかし、「自分のために生きる」ことが具体的にどういうことなのかを描くこのドラマに、「私」を承認してくれる他者は存在しないし、安易な癒しもない。


1923年のある日、精神を病みイギリスはリッチモンドで静養しているヴァージニア・ウルフニコール・キッドマン)は、新しい小説『ダロウェイ夫人』の執筆を始める。午後には久しぶりに姉が訪ねてくることになっている。
1957年のロサンジェルス、『ダロウェイ夫人』を読んでいた主婦のローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)は、誕生日を迎えた夫のためにケーキを焼こうとしている。幼い息子のリチャードがそれを見守っている。
2001年のニューヨーク、編集者のクラリッサ(メリル・ストリープ/「クラリッサ」はダロウェイ夫人の名前)は、詩人リチャードの受賞パーティを開く準備のために、花を買いに行く。
小説『ダロウェイ夫人』を軸として、異なる時代に生きる三人の女性のある一日の出来事が、互い違いに進行しリンクしていく。


それぞれのヒロインが抱えている問題は、「他者の承認」をめぐっている。そのことに対し本人の決定的な選択が示されているのが、ヴァージニアとローラの物語。現代のクラリッサには明確な結末はない。
ヴァージニアとローラはあらゆる点において対照的だ。戦前のヨーロッパと戦後のアメリカ、小説家と読者、仕事を持つ女と子持ちの専業主婦。まずこの両者を比較してみる。


ヴァージニアは、郊外で療養しながら執筆活動をしているが、必要なのは隔離された環境の静けさではなく、ロンドンの喧噪と刺激であるとの「診断」を自身に下している。
ヴァージニアの「抵抗」は、単独でロンドンに行こうとした彼女を夫が追ってきた駅の場面に、最もよく現れている。彼女の訴えとは端的に「自己決定権を持ちたい」ということであり、自分一人で判断し判断の全責任を一人で負える人間として自分を扱ってほしいという欲求を夫に激しくぶつける。
当時のイギリスで、モダニストであり精神的独立をめざす新しい女性のモデルだったヴァージニア・ウルフの切実な承認願望は、周囲の人々との大小のずれや歪みを通して描かれている。


それに比べ、24年後のローラは表立った抵抗や主張をしない。彼女は外部に対し徹底して内面の表出を避ける、自己主張しないヒロインであり、その言動はジェンダー規範の下にコントロールされている。唯一彼女の息子だけが、母親の異変を敏感に感じ取っている。
第二次世界大戦後、政治・経済・文化のすべての面でアメリカがヘゲモニーを握ろうとしていたこの「豊かな時代」において、中流家庭の専業主婦に求められていたのは、大戦で疲れた男達を癒す「良妻賢母」という型を正確になぞり反復していくことだった。女性の理想的ライフスタイルと喧伝されたこうした限定的なかたちでのみ、多くの女性達は承認を得ることができた。
その中でローラの抱える深刻な閉塞感は、ヴァージニアのような抵抗というかたちを取らず、自殺願望に向っている。


ヴァージニアとローラ、二つの物語には、悩みを抱える身近な同性への「愛」が突発的に示される場面として、キスシーンが一回ずつある。
訪ねてきた姉へのヴァージニアのキスは直情的で激しく、主婦キティへのローラのキスには躊躇いがある。いずれの場合も、思わず踏み出してしまった行為、その場に沿ぐわない行為の唐突さが印象づけられるが、次の瞬間にその唐突さは日常性の中に埋没し流れていってしまう。
レズビアンの傾向があったというヴァージニアの行為は、エキセントリックな「芸術家」らしいとも見ることは可能かもしれない。しかしローラは平凡な主婦であるがゆえに、その行為は控えめであっても、ヘテロセクシズムに覆われた風景の中ではより一層逸脱したものを感じさせずにはおかない。
そこにあるのは性愛欲求以前に、人知れず苦しんでいる同性への労りと「あなたは私だ」という強い共感だろう。それが具体的な言葉ではなく突発的な行為としてしか現れず、どこにも行き着かずあたかも何かの間違いだったかのように消え去ってしまうところに、女性達の分断された位相が浮かび上がってくる。


この後にヴァージニアが小説家としての「生」を求めてロンドンへ行こうと行動を起こすのに対し、ローラは自殺願望が嵩じて「死」に接近する。ヴァージニアには自己を生かす場所が明確にイメージされていたが、ローラはそうした具体的な自己実現のイメージは持ちようがなかった。では彼女達の最終的な選択はどうだったのだろうか。
ヴァージニアが選んだのは死ぬことであり、ローラが選んだ道は一人で生きることだった。「ある一日」に描かれた二人の言動と最終的な選択の関係は、見事に逆転している。


ヴァージニアはなぜ死を選んだのか。
彼女は「闘う女」である以上、その内面の運動は常に激しく垂直方向に向かっていた。小説家としての到達点も、獲得すべき自由も彼女の頭上にあり、それを掴むには絶えずジャンプを敢行せねばならない。それは精神を病んだ(一説には躁鬱病統合失調症の合併らしいが詳しいことはわからない)彼女を消耗させ、「生」の持久力を奪う闘いだった。
自力で闘い抜く力が最早ないと悟り、ポケットに石を詰めて入水する彼女の姿は、上空へのジャンプを断念した者がそのまま下方に沈んでいく、文字通り垂直腺の運動の延長線上にある。
冒頭とラストに、ヴァージニアが河に入り水の中に身体が呑まれていく映像が出てくる。葛藤から解き放たれ永遠の平安へと身を委ねる身体の緩やかな動き。溺死の悲惨さを消去し静謐なビジュアルとして描かれる女性の死。観客はそこに「美」すら見い出したかもしれない。


ローラは、自殺を回避し家出を決心した。
睡眠薬を持ってホテルに行きベッドに横たわったローラを俯瞰で捉えたシーンで、突然ホテルの床に大量の水が溢れ、彼女の身体を揺さぶる。ローラの夢を表象するかのような幻想的な場面だが、ヴァージニアが死に際して水に呑まれるのと同様、ローラも生死の境目で水に包まれている。
この自殺の断念を妊娠に気づいたためだったと考えると、ローラを囲んだ水は生そのもの、つまり彼女の胎児を包んだ羊水のようにも思われる。しかし"計画変更"が元の鞘に戻ることではなかった証拠に、彼女はその夜、子どもを産んでから家出することを決断している。
ある朝家を出てバスに乗り、そのまま見知らぬ遠い土地に行くことは、空間を横へ横へと移動していくということだ。ローラは一貫して抵抗も主張もしない、ヴァージニアのような垂直の運動性が伺えない女だが、最後に突然大きく水平移動するのだ。そのようにして彼女は、「他者の承認」を求める者の受動的位置からずれていく。



ヴァージニアの生きた時代から約80年、ローラの時代から約50年を経て、三番目の女クラリッサは、かつての女性達の「夢と願望」をとりあえず実現している存在だ。編集者としての仕事をもつ同性愛者の彼女に、前の二人にあった環境に適応できないという明確な自覚はない。
しかし、共に暮らすパートナーも専門的職業も子どももあり、理想に近い形で自己実現を果たしているように見えるクラリッサは、エイズに冒された友人への献身に没頭し、それに依存することでようやく自分を維持している。
クラリッサ役のメリル・ストリープは、79年に『クレイマー、クレイマー』で、女性のパートナーを作って夫と離婚する"進んだ女"を演じていたが、その20数年後は決して幸せではないのだ。


昔の恋人リチャードの介護を通して、クラリッサは、過去へのノスタルジーと自己犠牲のメンタリティを満足させている。積極的に他人の面倒を見たりパーティに伴う雑事に紛れつつ、あれやこれやと迷い思い悩み、だが自己分析にまでは至らず、他人の振る舞いには神経症的に反応する。彼女のかなり目立つイヤリングや両腕に重ねてつけられたバングルは、自己の空虚さを隠すための擬装のようだ。
垂直方向にも水平方向にも動けず、一つところでぐるぐると自問自答的円運動をしているクラリッサ。この「現代的」な女性を通して、ヴァージニアの時代から続く女性の権利獲得闘争が収束していく一方で、女性が囚われているのは依然として、強迫的な「他者の承認」願望ではないかという問いが見えてくる。


リチャードの自死という出来事は、クラリッサにとって依存の対象が消え、不安のまっただ中に放り出されることを意味した。その混乱の中、かつて幼いリチャードともう一人の子どもを置き去りにしたローラが現れる。ここでクラリッサは完全にローラに圧倒されている。
老いたローラの短い独白を通して想像される、最も保守的な時代に夫と子供を捨てようやく職を得て一人で生きてきた女性の半生の苛酷さが、60年代以降のリベラルな気運に後押しされて生き方を選択できた「フェミニスト」クラリッサを、打ちのめしているというだけではない。クラリッサが圧倒されるのは、ローラが非難を受けることはあっても同情、共感はされないイバラの道を選んだことに何の後悔もしておらず、それが彼女の静かな言葉の端々に見い出されることだ。


ローラの佇まいは、社会の片隅で孤独に慎ましく生きてきた老女そのものである。だが言葉少なに独白する顔の正面アップは、おそらくこの先も誰に許されることもないであろう自己の行いに対する、絶対的な肯定に溢れている。
クラリッサの娘ジュリアがローラを形容した言葉は、「怪物」である。ローラという女性の心性は、一応観客が理解可能なギリギリ感情移入のできる範囲で描かれているが、その生き方は「悲劇のヒロイン」というフィルターを通して見ることのできない「反社会的」なものだ。
だが本人は、何かを破壊しようとしたのではない。「そうするしかなかった」「死より生を選んだ」というだけだった。何もかも手放し「他者の承認」の外に自ら出ることによって、彼女は初めて「生」を手に入れた。
ローラの話を聞くクラリッサはローラから目を離すことができず、またローラを直視できない。クラリッサの引き裂かれた表情は、それを見つめる私の顔と同じだ。