「ふるーりい」

軽く二日酔いの頭痛で起きた朝、今日は人前でベラベラ喋りたくないなぁと思ったが、その程度で休講にするわけにもいかないのでバファリン飲んで車を運転して学校に向かった。
幼稚園及び小学校教諭志望者の図画工作。最近やっているのはフロッタージュやデカルコマニーやスパッタリング*1や吹き流し*2などの所謂モダンテクニックと呼ばれるもの。
偶然性に左右され、基本的に絵の上手下手、センスの有る無しの関係ない課題で、技法と手順と応用制作の方法を説明した後は、学生の間をぶらぶら歩いて見回っていればいい。そんなに喋ることもない。今日のような、調子が今いちの日はこういう課題は有り難い。


一人の学生のところで足を止めて、制作した糸引き絵を見ていた。
糸引き絵とは、B5くらいの画用紙の右半分に絵の具に浸したタコ糸を適当に垂らして置き(端は持っている)、画用紙左半分を折り重ねて上からしっかり押えながら糸を素早く引くと、その軌跡が紙に思いがけない曲線を描くというもの。出来上がりが決して予測がつかないという点で案外面白い。
その学生は自分なりに工夫したらしく、糸の半分をピンク、半分を緑に染めていて、不思議な色合いのエレガントにカーブした模様ができていた。
何か感想を言うのだろうと学生は私の顔を見ていた。でも「きれいだね」とか「おもしろいね」とか「○○に見えるね」とか当たり前のことを言うのが今日はタルい。
「‥‥‥ふるーりい」
そういう音の並びが何となく口をついて出た。学生は怪訝な面持ちになった。
「ふるーりいって?」
「なんかそう感じたので言ってみた」
「意味わかんない」 
「私のは?」と隣の学生が言った。
「‥‥ひょらあ」
「ひょらあだってw」
「先生こわれた」
「これは?」
「ぶりりん」
「これは?」
「えー、すぱーすか」
とかやっているうちに、学生同士で「これは?」「ぬおーん」「はぁ?w」「ぬおおおおーーん」みたいなやりとりを勝手に始めてしまいカオス。


糸引き絵は最終的に何かの形に見立ててタイトルを付けることになっている。
子どもは、抽象的な形を自分の見知っている物の形に見立てるということをする。天井の木目を馬に見立ててみたり人の顔に見立ててみたり。糸引き絵でできる「絵」は極めて抽象度の高いものだから、見立てによって落としどころを作るというわけだ。幼児向けの造形教材集ではそうなっていた。
見知らぬ何かを知っている何かに見立てる。わけのわからないものをわかるものに置き換える。混沌に秩序を与える。子どもの造形活動の中にはそうした「社会化」のプロセスがある。課題では、馬に見えるなら「馬」、鳥に見えるなら「鳥」などとタイトルをつけて終わりにする予定だった。


でも「ふるーりい」で何かがずれてしまった。「ぬおーん」だの「うにゅー」だの「しゅるるる」だの「びひょーん」だの、わけのわからない言葉が教室のあちこちで飛び交っている。
もう誰も見立てをしてタイトルをつける気配がない。私も改めてそれをやれという気がなくなった。
もういいや。もうこれでいいや、今日は。「びひょーん」を無理矢理何かに落とし込まなくても、「びひょーん」のまま投げ出しとけ‥‥‥。


ところが授業後、回収した作品を見たら、約8割がちゃんと隅に見立てのタイトルを記入していた。
こちらとしては安心すべきことである。最初に説明した課題の意図を理解して忘れなかった学生が多かったわけだから。
なのになんだろ、この「うぐぐう」な気持ちは。

*1:歯ブラシに絵の具をつけて画用紙の上にかざした細かい金網を擦る。

*2:画用紙に絵の具を垂らしストローで吹く。