白い水玉模様の赤いワンピースの女

「赤を着る歳になったねぇ、あなたも」と、友人がからかい気味に言った。
その日私は購入したばかりの、白の細かい変形水玉模様の赤いブラウスを着ていた。襟ぐりはやや大きめにVに開いていて、ドルマンスリーブの袖口とウエストがシャーリングになっている。下は綿麻のハーフパンツ。
年齢×服装だけで言えば、まるで有閑マダムのバカンスファッションだ。自分では「大人のラブリー」(笑。ひー、書いてて恥ずかしい)のつもりだが、他人から見れば単に若作りのおばさんであろう。3年くらい着倒したら処分するかもしれない。そうしても惜しくないお値段のもの。ファッション誌に載っている年齢相応(?)のハイブランドなどには手が出ない。


友人の「赤を着る歳になったねぇ」の前提になっているのは、「赤は若い人が着るより、むしろ中年以降に相応しい色」である。その上で、「大野さんは黒やグレーや青いのばかり着ていて赤なんて滅多に手を出さなかったのに、歳喰ってついに開き直ったね」という意味合いがある。
赤はエネルギーを象徴する色だから、若い人が赤い服を着ていると(あまり見かけないが)、何か"過剰"な感じになる。だが歳を取り全体的に少しエネルギーが衰えてきた時、色で自分を鼓舞するのと元気で若々しい感じに見せるために、パキッとした赤を着る女性はいるのではないかと思う。私も40くらいから「赤なんて‥‥」という心理的抵抗感が薄れてきた。純度の高い赤はグレーと組み合わせるときれいだ。
しかし赤地に白ドット柄はなかったな‥‥と考えていて、大昔一度だけそういうのを着た(着せられた)ことがあったのを思い出したので書く。



件の友人は、若い頃から服大好きなオシャレな人で大変な衣装持ちでもあった。20代半ば頃、「着ない服が溜まってるんだけど、良かったら貰ってくれない?」と言われて彼女の家に行った。部屋には既に足の踏み場もないほど大量の服が散乱していた。「どれでも好きなの持ってっていいよ」。わーい。
私が物色している間、クローゼットをガサゴソかき回していた彼女が、「ちょっと、これ着てみて」と何か取り出した。見ると、真っ赤な地に白い水玉模様のワンピース。
「うわっ、なにそれ。そんなの着てた?」
「いや、ステージ(一緒にバンドやってた)で冗談っぽく着ようかと思って買ったけど着なかった」
水玉は直径1センチくらい。大きめのシャツカラー、ずらりと並んだ包みボタン、共布のベルト、ギャザーの入ったたっぷりした袖のデザインからして、70年代初め頃の古着だろう。売れなかった元アイドル歌手が地方巡業で着ていたような代物である。
そんなド派手な服を地味好みの私に着ろとは酷だと抵抗したが、「いいからいいから。案外そういう童顔に合うんだから」と無理矢理着せられてしまった。


姿見に映った自分の姿を、今でも忘れない。我ながら異様だった。
私の顔の個性がもっと強く、服のデザインがシンプルで水玉がもう少し大きかったら、草間彌生風になれたかもしれないがそういうアート方面ではなく、もちろんロリ風なコスプレでもない。
何か、タガが外れているというか、よくわからないヤバいものが剥き出しになっているというか。ごく控えめな言い方で、昔の吉本新喜劇に出てきそうな少し頭のネジのユルい女‥‥という形容を思いついた。
「うは、面白い」と友人は喜んだ。「着てる人と服の組み合わせが(笑)。みんなに見せたい」。私は憮然として服を脱いだ。


にも関わらず、私はそのヤバいワンピースを貰ってきたのである。ここまで自分を異様に見せる服に、妙な執着が湧いた。
クローゼットの中で、その服は完全に浮いていた。それは、私が普段人の目から隠している、自己顕示欲に駆られて場違いな自己主張をしたがる自分自身のようだった。あるいは、わかりやすい「女」を安売りしわかりやすい男に言い寄られて安心する自分。
そうした、自分ですら知らないことにしている「私」を、水玉の赤いワンピースは正直に代弁しているように見えた。
だからそれを着た自分を正視できなかったのである。「こういう人に見られたい」という私の見栄や自尊心や趣味といったものを木っ端微塵にするような破壊力が、その服にはあった。


以降、一度もそれを着ることができず、かといって捨てる気にもなれず、白い水玉の赤いワンピースを着た女(=もう一人の自分)という鏡像を、私はクローゼットの中に閉じ込め続けた。
こんなベタな服、貧乏臭くも小便臭くもならずに堂々と着こなせるのは、女優のモニカ・ベルッチ岩井志麻子センセイくらいのものよ‥‥。
そして何度目かの引っ越しの時に、ダンボールに入れて実家に預けたまま10年以上忘れていた。もう捨てられている可能性が高い。


今開き直って着ている水玉の赤いブラウスなど、あのワンピースに比べれば安全な趣味の範疇にある。うっすら滲み出てきそうな異様さを「若々しさ」に希釈しようとしているという点で、私はまだまだ煩悩まみれだ。
あのワンピースを(まだ家にあるとして)着て外を歩くには、少なくともあと10年くらいの、煩悩が一つずつアメ玉みたいに溶けていく時間が必要だろう。いや20年くらいかな。生きていれば、だけど。
髪がほとんど白くなり、顔に深い皺が刻まれ、痩せて萎んで背の丸くなった私の着る、白い水玉模様の赤いワンピース。老婆の私はボタンをきっちり上まで留め、カートを押してスーパーに買い物に行くのだ。
これはこれでやや別種の異様さが漂いそうである。醜く見えるかもしれない。だが諦めも開き直りもとうの昔に通り過ぎた地点でなら、自分の醜さも黙って受け入れられる気がしている。



着倒れ方丈記 HAPPY VICTIMS

着倒れ方丈記 HAPPY VICTIMS

本題と直接関係ないが、友人がくれた本。服オタ達のマニアックで熱狂的な小宇宙。見ているだけで楽しい。