彼女の顔には細部がない・・・アニメの中の描写の落差について

(※長めの追記をしました)


借りぐらしのアリエッティ』のDVDを借りてきて見ていた時のこと。
室内の描写が凝っている。その部屋の中に登場人物が入ってきたところで、覚えのある違和感が。写実的な背景と、非写実的な人物が、不釣り合いに感じる。まるできっちり作られた三次元の舞台に、二次元の人間がいるみたい。


背景と人物の描写のレベルが明らかに違う点については、前から多少気になっていた。
背景の描写が陰影も含めて細かくリアルに描き込まれているのに、そこに登場する人物はベタ塗りでペラッとしていて所謂アニメ絵。ジブリに限らず日本のアニメの「美術」は、背景画だけで展覧会が開催されるほどのレベルに至っていたりするので、結果、人物とのギャップが生まれ易くなる。*1


ヨーロッパのアニメは例えばチェコ・アニメにしても、背景と人物とのテイストや描写レベルの落差がなく、概ね全体的な統一が図られているという印象がある。ディズニーは人物に比べて背景の描き込みがかなり丁寧だが、人物に施されたようなデフォルメやファンタジックな配色によって全体がまとめられており、不統一だと感じることはほとんどない。
なぜジブリだけが(日本の他の商業アニメもその傾向があるとは思うが)、背景=具象絵画、人物=アニメ絵に分裂しているのだろう。


とっくに論じられているのかもしれないが、その方面にあまり明るくないので、同じ疑問を持ってる人を探してググってみたら、やっぱりいた。
どうしてアニメは人物より背景のほうが丁寧に書き込まれているのですか?(1/3)|OKWave


主な回答をまとめると、
▶アニメは美術作品のように絵それ自体では成り立たず、人物を動かすことが前提なので、描き込み過ぎると見辛い。
ジブリアニメにおいてはキャラクターを重要視していない。一方、背景は世界観を表現しているので描き込まれる必要がある。
▶背景が人物に従属している西洋絵画ではなく、背景と人物が等価の日本画の影響がある(アニメでは人物が動くことにより、その描き込み不足が補填される)。
▶一度描けばよい背景と違い、セル画の(動く)人物は枚数が必要なので、描き込んでいたら質を一定に保つのが難しくなり、費用も膨大になる。


それぞれ「ふーん、なるほどね‥‥」と感じつつ、強いて言えば最後の回答(要は予算不足)が一番実情に即しているのかなと思ったが、そこで納得するのもつまらないので別の角度から考えてみた。



ジブリ以外のアニメも含めて見れば、背景がそれほど細かく描かれていない場合はよくある。
ただその場合でも、デッサンはそのままで描写の密度を上げていけば、かなり写実的な感じの絵になるだろうという予測が立つ。特別遠近感などを強調している場合を除いて、自然や街などの「環境」は、手を細かく入れているか入れてないかの違いがあるくらいで、だいたいリアリズムに則って描かれている。


ところが人物になると違う。
年齢によってプロポーションの違いを強調した描き分けがされているのはわかるとしても、パーツが明らかに現実の人間とは異なっている。例えばジブリアニメの少年や少女の首は頭の大きさに比して異様に華奢で、目はかなり大きく且つ本来の形からかけ離れており、鼻は小さ過ぎで、唇の存在感がまるでない。衣服や髪の表情は丁寧に描かれる場合があるのに、顔は非常に記号的。
つまりデッサンはそのままで描写の密度を上げていっても、本物の人間の感じには絶対に近づかない。むしろ不自然になるだろう。なぜならそれはアニメ表現の中にしか存在しない形だからだ。もともとリアルな細部描写ができないようになっているのだ。


借りぐらしのアリエッティ』を見ていて、翔の顔が画面一杯にクローズアップされた時にも同じ違和感を覚えた。
この作品は小人が主人公だから、スケールが縮まる分だけディティールがクローズアップされている。カメラアイは小人の目となって、普段はじっくり見ることのない物や場所の細かい表情や陰影を映し出し、観客を楽しませてくれる。少々"教育的"に言えば、視点を変えればこれまで何気なく見ていた世界も思いがけない様相を見せるのだ、ということを気づかせるような作品だ。
そのカメラ(アリエッティの目)が間近に捉えた翔の顔が、なんと細部に欠けていたか。あれだけクローズアップしたら、小人の目には、人間の太い眉毛や睫毛の一本一本や巨大な鼻梁の高さや鼻孔周りの微妙なカーブや唇の複雑な凹凸までリアルに見えるはずなのに、瞳孔が描かれ少し眼球が水っぽい質感になっているくらいで、他はそれまでとほぼ変わらない。ツルリとした樹脂のフィギュアを至近距離で見ているようだった。


つまり、ジブリアニメでは人間の顔にだけ細部が存在しない。人間の顔だけ現実離れしている。
空も樹も草も河も家屋も家具もビルも道も車もバイクも電車も、ありとあらゆる「環境」物が現実の様態に即してデッサンされ、必要に応じて細部まで写実的に描き込まれてリアリティを与えられている*2のに、人間の顔はそこから除外されている。
人物=キャラは動かすものだから周囲の事物とは作画が別扱い、周囲の事物にしても当然ディティールは選択、整理されている‥‥といった理由も、両者のギャップの大きさをうまく説明できないように思う。



写真から起したような写実的な水彩画風に描かれた街や自然の中に、ベタ塗りアニメ絵のヒロインという図は、ジブリに限らずよく見る。背景と人物の描写のレベルがわりと一致しているので今思いつくのは大友克洋今敏だが、全体からすると少ないのではないだろうか。
だがそもそも、今のように「美術」にあらん限りの工夫と技術が傾注されていなければ、人物の顔に細部が存在しないなどということも、いちいち気にしなかったはずだ。背景があたかも一幅の絵画の如く描かれるようになって初めて、そこから取り残されている顔が気になってきたのだ。


マンガやアニメの顔は基本的にデフォルメされ、記号化されているのが常だった。私も子どもの頃(60年代)からそういうマンガやアニメを見てきた。女の子の目はあくまでパッチリと丸く大きく、鼻は正面から見ると存在感がないが横から見ると西洋人のように付け根から高くツンと尖っているのが通常(今も多くのアニメ顔がそうだ)。パーツを見る限りとても日本人とは思えないが、作品の中ではれっきとした日本人。
アニメは物語においてのみならず、「人の形」においても夢や理想を描いていた。そこには日本人の欧米コンプレックスが隠れていたと思う。日本のアニメに影響される前のアジア各国のアニメは見たことがないが、ここまで民族の顔とマンガ・アニメに描かれる顔が乖離している国も珍しいのではないか。


尤も、老人や異形の者の顔に皺や窪みなどの陰影描写がされたり、存在感のある鼻や唇の表現によって中年男女の顔に「人間臭さ」が表現されていることはある。だが彼らは概ね、感情移入の対象ではない。むしろ「環境」を構成する一部に近い。
それに対し、少年少女は主役であり、当然感情移入もされる。とりわけその顔は、「萌え」も含めて観客のさまざまな情動を投影する「場」だ。
つまりヒロイン達の顔は、「環境」物やそれに準じる他の人物のように冷徹なリアリズムに晒してはならないイコン=聖域なのだ。それらは最初から、さまざまな情報に溢れた現実の顔とは違い、夢や理想だけを表すべく造形されている。
そう考えると、「背景=具象絵画/人物=アニメ絵」の分裂は、やはり単に見易さや作画上の要請やコスト問題だけに帰するものではない気がしてくる。


仮にあらゆる背景、「環境」物が実写と見紛うほどに描き込まれ(あるいはCG処理も施され)、人物の衣服や装身具の表現がリアルを極めたとしても、顔が全面的にそれに倣うことはないだろう。そこは「聖域」だから。
そして、アニメ制作における「美術」の仕事のクオリティが上がれば上がるほど、背景のディティールが加われば加わるほど、そこからあくまで排除される部位であるところのヒロイン達、とりわけその顔が「イコン」として際立ってくることになる。
欧米の追随を許さないと言われる日本のマンガ・アニメ文化の、細部に満ちた超具象的な背景の中から浮き上がる、欧米コンプレックスの裏返しとして理想化され抽象化された中で出来上がった、細部の存在しないアニメ顔。
もちろん"アニメ的感性"(というのがあるかどうか知らないが、リテラシーがあるんだから多分あるだろう)にとっては、これは分裂でも倒錯でもないのだろう*3けど、一つ一つの絵の中に描写、テイストレベルで明らかな落差があり、その一方の具体性ゆえの魅力ともう一方の抽象性ゆえの魅力とが同時に受容されているというのは、改めて考えるとかなり特異な現象に思える。



●少し長い追記・・・「欧米コンプレックス」について
ブコメを見るに、「日本のアニメ顔に欧米コンプレックスはない」という見方がデフォルトらしい。"今のアニメは"そうなんだろうと私も思う。


ただ、私の子どもの頃(60〜70年代)の女の子向けアニメやマンガには、明らかに西洋的なものへの憧れがあった。
例えばその少し前の人気イラストレータ中原淳一の少女は明らかにオードリー・ヘップバーンをモデルにしていたし、今も活躍している高橋真琴の少女はどれも西洋風だったし、60年代から70年代にかけての少女マンガの類型化された女の子の顔も、より日本人的なイメージから遠ざかることを目指していた。ヒロインの父親の顔など、日本人よりアメリカ人に近く感じられるような描写も見られた。
それは、その時代の日本人のメンタリティ及び生活文化の中に、欧米へのコンプレックスと憧れがあったからだ。
特に身体と顔についての美の基準は、常に欧米が参照されていた。例えば今盛んに行われている、目を大きく二重にし、鼻梁を高くし小鼻を目立たなくするといった美容整形の方向性も、元は西欧の美(人)を基準にしたものだ。


この美意識が、アニメやマンガの中ではある時完全に断絶し払拭され、突如純粋培養された新しい日本的アニメ顔が生まれたのだろうか。‥‥とは思えないのだ(細かい例証を挙げて根拠を述べるべきなのだろうが、そんなにアニメをたくさん見ているわけではないので、それは私にはできない。だから肯定でも否定でも例証や根拠を挙げた説得的なテキストがあったら、是非読んでみたい)。
表向きの造形は既に日本独自のものになっているのだろうが、そうなるまでの根底のところには、欧米的な造形美へのコンプレックスがあったのではないだろうか。だから、
>欧米コンプレックスの裏返しとして理想化され抽象化された中で出来上がった、細部の存在しないアニメ顔
と書いた。
美少女アニメだけでなく、BLに描かれる美少年などの造形にもそれを感じることがある。正面や斜めから見た輪郭は欧米人の骨格ではなくむしろ子どもの骨格だが、横から見ると鼻梁に対して目がずっと奥まっているのは欧米的だ。欧米の子どもと言ったらいいか。欧米/日本というより、大人/子どもと言うべきかもしれない。
目の大きさは、最近の若い女性はアニメ顔に似せたアイメイクをしていたりするので、それと比較して日本人顔だと言うのは若干無理があるように思う。


で、「コンプレックス」と書いただけであたかも非難しているように受け取られているのは何故だろうと思った。
話はずれるが私自身は美術畑で、日本のアートの欧米コンプレックスや、それが捻れ変形した自意識は嫌というほど見てきたので、その根の深さはそれなりに知っている。日本の戦後の現代アートの命題はある時期まで、欧米の影響からいかに脱するかだった。今はむしろマンガ・アニメなどの影響からいかに脱するか(難しいと思うが)がテーマかもしれない。
その点、日本のアニメはほぼ完全に独自の発達を遂げたジャンルだが、「造形表現」があるという点では、アート/アニメというジャンルを越えたところでフラットに見ることも可能だと思う。例えば、現代の造形表現はいずれもその中に複合的な美意識、意匠を抱え込んでおり、その一つがアニメの背景と人物の描写レベルのギャップだ、という見方も成り立つだろう。この記事はそのとっかかりの意味で書いた(日本画との関連は村上隆絡みで既にされているだろうから回避)。
それでも、「日本のアニメには独自のルールやコンテクストがあるので、アートを参照したり欧米基準の美意識の影響を見たりするのはナンセンス」ということになるだろうか。
(だとすればそれは、現代アートの人がオタクの人に「アートにはアートのルールやコンテクストがあるんだから云々」と言うのとどこか似てくるように思う。)




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三次元ヌードへの拒否反応

*1:マンガではアニメより以前から詳細でリアルな背景描写がよく見られたが、基本的にモノクロのせいでリアリティに限界があるため、人物とのギャップはあまり感じられないのではないだろうか。因にマンガもアニメも絵が細かく丁寧に描き込まれたものが上等という価値観は私にはない。

*2:現実には存在しない空想上の物も、あたかもそれを目の前にしているかのようにリアルっぽく描かれる。

*3:分裂や倒錯として楽しむのは80年代の現代アートに見られた。