義父の従軍記

数ヶ月前、夫の実家に行った時、義父が「実は自伝を書いておってな」と言った。
「自伝って子どもの時からの?」と訊くとそうではなく、戦争に行った時のことを思い出して書いていると。
義父は毎年ずっと「戦友会」に出席し、長い間幹事もしているらしい。その「戦友」達もほとんど他界してしまい、残りの人ともあまり会うことがなくなった。共通の話題を持つ者が少なくなって、ふと「従軍記」を書く気になったらしい。


昭和2年(1927年)に生まれ、岐阜県の山村に育った義父は16歳で陸軍の少年航空兵に志願し、兵学校での訓練を経てベトナムカンボジアインドネシアなどの南方に行っていた。
現地に到着するまでの間に、一度船団がグラマンに襲撃されて海に投げ出されたが助かり、上陸後はあまり戦闘らしい戦闘はなく、捕虜になって一年過ごしてから帰国したという。捕虜生活は比較的自由で、異国の風物を楽しむゆとりさえあったそうだ。
「んだで、中国に行かされたもんには正直申し訳ないと思っとる」
現地で初めて飲んだコーヒーや初めて食べた蟹やマンゴーの話をした後、義父はポツリと付け加えた。
そういう話にわりと興味があるので、「できあがったら読ませてね」と言っておいた。


ついこの間、お盆でまた夫の実家に行くと、「前編が書けた」とプリントアウトしたA5くらいの小冊子を渡された。「日記を書いておらなんだもんで、今思い出して書くのはちいと難儀だったわ」。
50数ページある。ちゃんと表紙もついていて、戦闘機をバックにした若い飛行兵の上半身が印刷されている。昔の雑誌に使われていたような写真だ。
「これ、おとうさん‥‥じゃないよね」
「それはネットから適当に拝借した」
ま、出版するものじゃないからいいか。
「でな、ちょっと添削してくれんかの」
添削? バイトで受験生の小論文を添削したことはあるが、それとは勝手が違うし困った。校正みたいなことならできないこともないけど。
「誤字脱字のチェックでいい?」
「うむ。あと、おかしなところがあったらちょいと直してくれんかの。文章あまり自信がないもんで」
と、義父はやや照れくさそうに言った。


小冊子を預かり、家に帰って赤ペン片手に読み出した。
義父は元刑事だったせいか、全体としては淡々としたまるで供述調書のような飾り気皆無の文体だったが、その中に時々やけに古風でベタな言い回しがあったりする。どういう飛行訓練をしたかという箇所がやたら詳しく、私にはピンとこない専門用語が一杯。昔の人なので当て字も含めて難しい漢字が多い。作文としては少しぎこちないかもしれない。
しかし行間からは、兵隊になって戦争に行き華々しく戦って「英雄」となることへの、少年の痛々しいくらいの「憧れ」が伝わってきた。義父は、完全に当時の十代の自分になって書いてるのだなと思った。
「どうしても飛行機乗りになりたくてな」と義父は言っていた。「あれは本当に格好いいと思っておったな、その当時は」。



夫は、父親から戦争の話を聞かされたことがないと言う。
確かに義父はどちらかと言うと口の重い人ではあるが、そもそも仕事に忙殺されて息子との会話もあまりなかったようだ。息子が高校生くらいになって、自分とは違うむしろ"サヨクがかった人間"になっていると知ってからは、ますます戦争については貝のように口を閉ざしていたらしい。
「少しでも軍隊生活を偲ぶようなことを言えば、俺に突っ込まれると思っていたんだろ。オヤジ右寄りだから」
と、夫は言った。


義父より一つ年上の昭和元年生まれ(追記:後で確認したら私の覚え違いで大正13年だった)の私の父も、飛行機乗りだった。海軍の制服に憧れて予科練に入り、パイロットになって神風特別攻撃隊に配属された。しかし訓練中に着陸に失敗して大怪我を負い入院したりしているうち終戦となったので、特攻しないで済んだ。
そして戦後、軍国青年から打って変わって反戦平和主義者&社会主義者になり、ガチガチのオールドレフトとして半生を送ってきた(今はボケも入ってそういうことはもうどうでもよくなったみたいだが)。
子どもの頃、父からよく戦争の話を聞かされた。戦争がいかに悲惨で憎むべきものかという話、自分も含めて日本人はいかに間違っていたかという話を。その頃は飲み会で『同期の桜』を歌う人々がまだいたようだが、そういうことも父は忌み嫌っていたし、日の丸・君が代も忌み嫌っていた。
しかし父は一方で、海軍時代の外套や飯盒などの持ち物を大切に取ってあり、時々懐かしそうに飛行機を操縦した時の話もするのだった。


一方は体育会系の元・刑事、もう一方は文系の元・左翼教師。どちらも公務員という堅い職に就いていたが、義父と父は、思想的にはおそらくほぼ正反対である。
しかし二人とも、少年時代に自分を強力に捉えた「憧れ」から完全に自由ではないという点で、似ているように思う。
編隊を組んで飛ぶ戦闘機や軍服で行進する兵士に皆が歓呼の声を上げる環境にいて、国のため天皇陛下のために戦って死ぬのが立派な男子の生き方であると刷り込まれた。後になって「その考え方は間違いでした」と言われ、頭では理解し納得もした。
しかしそういう「考え方」とは別のレベルで、一度少年の頃の感受性に強く刻み付けられたものは、簡単には変更されないのではないだろうか。それはたぶん抑圧されたかたちで、いつまでも潜在し続けるのではないかと思う。



さて「添削」は、やっているうちに思っていたより直しが多くなってしまった。「こんなに赤くして失礼じゃないかな‥‥でも、読みやすい方がいいよね」と思いつつ手紙を添えて送ると、翌日電話がかかってきて大層喜んでもらえたようなので安心した。
「今、続きを書いておるで、悪いがまた頼むね」
「楽しみにしてます」
誰に読ませるために書いているのだろう?と思ったが、聞きそびれた。
「俺に読ませたいんじゃね?」と夫は言った。そう‥‥かなぁ。「添削」を人に頼むくらいだから、整った文章にしてから他人に読んでもらいたいという気持ちはあるのだろうけど。
「でも、ほんとのところは自分で確認したくて書いているんじゃないかなぁ」と私は言った。


第二次世界大戦末期に従軍し戦地に行かされたと言えば、大変だったに違いないと普通は思う。しかし義父にしてみれば自分はかなりマシな方で、大した怪我も病気もしなかった。むしろ戦争でもなければ行くことのなかった外国の珍しい風物を見聞し、社会見学をしたような気にすらなった。一方で過酷な体験をし悲惨な死を遂げた「仲間」がたくさんいたのに。
そのことを義父は長い間、重い荷物のように感じていたのかもしれない。だから家族には戦争の話をしないできた。戦友も多くが他界し人生も残り少なくなった今、やっとすべてをありのままに率直に吐き出してしまいたい(しまってもいい)という気になったのではないだろうか。
そんなふうに私は想像している。



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