『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』を観て

覆面のストリートアーティスト、バンクシー*1の初監督作品。
”アート業界への痛烈な皮肉”だけには留まらない深さをもった傑作ドキュメンタリー。*2
やっと先日観てきた。


まずざっと内容紹介を(ネタばれあり)。
主人公は、ロスの古着ショップがそこそこ成功しているフランス系アメリカ人のティエリー・グエッタ。何でもかんでもヴィデオ撮影するのが趣味のティエリーは、たまたまいとこがストリートアーティストだったことから、警察の目をかいくぐって行われる彼らの活動に興味をもち、どこへでも付いて行って撮影しているうち、ある日ひょんなことから世界的なストリートアーティスト、バンクシーと知り合う。すっかりストリートアートに魅せられていたティエリーは大興奮。
最初は警戒していたバンクシーも、ティエリーの人の良さと忠義ぶりにほだされ、次第に信頼関係を築いていく。「ストリートアートを撮ったのを、一本の作品にまとめないのか」というバンクシーの言葉に、ティエリーは勇んで何千本ものフィルムを編集して見せるが、センスも何もない素人臭い出来にバンクシーは失望。
こいつはドキュメンタリー作家としてはダメだと見切ったバンクシーは、「君もアート作品作って発表してみれば」とアドバイス。それを新たなミッションと受取ったティエリーは、私財を投げ打ってスタジオを借り設備投資し何人ものスタッフを雇い、初個展のための「作品」の大量生産を始める。目指すはセレブも訪れたバンクシーの展覧会。
あざとい宣伝活動と人海戦術のお陰で表面的には派手だが、どう見ても素人芸の一夜漬けのデビューショーが大成功してしまい、見よう見まねで作った作品は飛ぶように売れ、ティエリーは「Mr.ブレインウォッシュ」の名で一躍人気アーティストの仲間入りを果たす。予想もしなかった展開に、バンクシーら筋金入りのストリートアーティスト達は、複雑な心境を隠しきれないのであった。


‥‥‥というストーリー。
ティエリーの振る舞いを中心に笑えるポイントが一杯だったが、なぜか場内(名古屋パルコ・センチュリーシネマ)は結構マジメな雰囲気で一回軽くクスッというのはあったものの笑い声が起こるまではいかず、何度もこみ上げるのを押し殺して腹筋が痛くなった。



前半は、ヴィデオカメラを持った一人の好奇心旺盛な野次馬の視線を通して、ストリート(グラフィック)アートの隠された制作現場を覗き見する楽しさとスリルが味わえる。ティエリーというやたら行動的な天然おじさんの、ミーハー丸出しのアーティストへの憧れと邪気のなさも微笑ましい。
今一つよくわかってないような気がするが、やけに興味津々で近づいてくる人の良いアート(アーティスト)好きなおじさんやおばさん、アート業界の周辺でちょくちょく見かける。もちろんお客さんなので無下にはできない。まして危険な作業を手伝ったりしてくれるなら尚更。
「ディズニーランド事件」で自分のために体を張ってくれたティエリーを、バンクシーが「盟友」と呼ぶところまでは、ほとんど爽やかと言ってもいい雰囲気だ。男と男の友情物語に見えないこともない。
それが後半、状況が意外な方向に転がっていくことで、笑いの中にもだんだんイタくて苦いものが滲み出てくる。イタいのはティエリー。苦さを味わうのはバンクシーと映画を観ている観客である。


と言っても、単に「いい話になる予定だったのに、こんなオチがついてしまった」という印象ではなく、後半の思いがけない展開に繋がる伏線が前半部にきちんとある。
たとえば冒頭近く、古着屋ティエリーが、「大量に仕入れたリーバイスを原価の100倍で売って儲けてる」などと得意気に喋るシーン。これが最後の、大量に生産(労働するのは主に日雇いスタッフ)した作品を高価格で売り捌こうとする場面に呼応している。古着とアート、どちらも付加価値をつり上げ、イメージで売る側面を強く持った商品として共通している。
そもそもウォーホルの作品の劣化コピーに、バンクシーらストリートアーティストの作品のグラフィカルなエッセンスを巧妙に振りかけたようなティエリーの作品群そのものが、「アートの古着」みたいなもの。世界中にいる自称アーティストやアートスクールの学生のうち、最低でも500人くらいはあれと似たようなもの作っていそうである。アイデア思いついたがあまりに安易で恥ずかしいのでやめたという人なら、もっと多そう(因に、ティエリーは著作権違反で敗訴しているとのこと。参照


観ていて恥ずかしくなるようなティエリーの振る舞いは数々ある。
初個展に際し、バンクシーがティエリーに頼まれて書いた(勧めた手前、義理からだろうが)短い推薦文をデカデカと看板にしちゃうわ、ノンキャリアのアーティストなのに「先着2000人にはオリジナルTシャツプレゼント」を考案するわ、オープニング直前のセッティングの指示より雑誌のインタビューを優先するわ‥‥。
業界の人間がもう少しスマートに(要は気取って)やるところを、ティエリーは泥臭くあからさまにやってしまい、それが当たってしまう。いずれにせよ彼に、アーティストとしての才能はさておき、間違いなく商売人としての才能はあるだろう。


実績がなくても作品がどれだけ付け焼き刃でも、商才と少しの器用さと度胸さえあれば、一夜にして有名アーティストになれることをティエリー=Mr.ブレインウォッシュは示した。パクリにしか見えない安っぽい作品も、観客が逆に良い方向に‥‥この狙った安さが今っぽくて面白いとか、ウォーホルを堂々とパクってるところはむしろウォーホルの後継者だとか‥‥都合良く意味を読み込み"理解"し賞賛してくれたりする。
そこに群がるメディアとアートディーラー達。一度こういう流れができたらしめたものだ。長期的にはわからないが、短期的には高値で売れるだろうと見込んで寄ってくる投資家もいるだろう。
かつてそこに身を置いた者が今更言うのも何だが、まことにアート業界とは魑魅魍魎の跋扈する世界、原価100円のジーンズを一万円で売るかの如き摩訶不思議なネタの使い回し業界である(もちろん元が取れないケースも多いけど)。



しかし結局のところティエリーは、ストリートアーティスト達を何年も撮影し行動を共にしていたのに、彼らから度胸と行動力以外にアートの何を学んだのだろうか。バンクシーが語られる時によく持ち出される「反権力」や「反資本主義」ではないことは確かだ。
一つだけ上げるならそれは「絵柄のわかりやすさ」ということだろうと思う。かつてヒップホップから派生したどちらかと言うと内輪向けのストリートペインティングとも、キース・ヘリングのようなポップで明るく記号的な表現とも違い、バンクシーの作品は一見して誰にでも解る具象的でシンプルな図像と、それが描かれり置かれたりした場所の文脈との絡みで、ブラックユーモアと共に強い政治的社会的メッセージを発するものが多い。
その「内容」はスルーして、わかりやすい表層の「スタイル」だけをティエリーは真似ている。*3


もっとも、ティエリーが表層の人であることは、中盤に出てくる彼の製作した”ドキュメンタリー・フィルム”で既に見えてはいた。ストリートアートの内容も意味も伝達しない、ただ徒に激しくショットの切り替わる、学生の自主制作実験映画の一番ダメなやつみたいな代物だったからだ。
撮影時のティエリーにあったのは「非合法アート活動の現場にいるワクワク感」、編集時にあったのは「なんとなくそれ風の感じにでっちあげる」ということだけだったのだろう。後に量産するアート作品も、同じスタンスで作っているように見える。


だがもしかすると彼の中には、自分がアーティストとして成功することで、憧れのバンクシーと同じ土俵に立てる、彼に本当に認めてもらえるという思いもあったのかもしれない。単にえげつない商売根性だけで、あれだけのことを一挙にやってしまったとも思えないのだ。
そういう子どもっぽさをどこかに感じさせる点で、「アーティスト症候群」(笑)に罹り、横紙破りな方法で強引にアーティストになってしまったティエリーというおじさんは、最後まで憎めないキャラであった。



では、所謂既存のアートワールドとは一線を画した活動をしてきたバンクシーはどうかというと、もちろんそれらと決して無縁ではない。たとえば公衆電話ボックスを弄った「作品」は、後日サザビーズで55万ドルで落札されている。
深夜、電話ボックスを仲間と共にトラックに積み込んで盗み出し、スタジオで手間暇かけて切断、接合してから元の場所に再設置し、その後に通りがかりの人々がさまざまな反応を示す一連のシークエンス(ティエリー撮影)は、クスリとさせるものだった。
が、その”器物損壊物件”が村上隆の作品などと共にサザビーズで取引されている場面で、私は思わず吹きそうになった。あの場所にあって初めて意味と効果を持つストリートアートを、場所から切り離して商品として扱うというナンセンス。冗談キツ過ぎる。


しかしそれも、バンクシーが世界中にファンを持つ著名なアーティストであり、あれが彼の「作品」だとわかっているからこそ起こった出来事である。
つまりそこで売買されているのは実質的には、バンクシーというブランド名に他ならない。


ストリートアートは概ね非合法アートであり、あってはならない場所にある、見つかれば消される運命にある(本人も捕まる)という存在の形式が、商品として売買されるアートに対する批評を孕むものだった。
しかしバンクシーの名が知れ渡った今、彼が落書きしたりこっそりそこに付け加えたりした物は、有名アーティストの作品となり高値がつく。バンクシーに壁に落書きされて怒る人は、「アートに疎い人」でしかなくなった。バンクシーが展示に紛れ込ませた「偽の古代壁画の欠片」を、大英博物館が撤去しないでそのままにした*4時、彼のゲリラ活動の重要な意味の一つは失われたのである。


そのようにして、業界の「外」にあったストリートアート、アーティストは有名になり、マーケットが介入し、「展覧会」まで開かれるようになっている。*5
半ば金持ちのためのステイタスシンボルや投資の対象となっているアート。それに批判的なポジションにいるバンクシーと、商売に野心満々で業界のメーンストリートを走りたいティエリーは、いずれもアートというシステムを補完する存在という意味において、同じなのだ。
バンクシーのゲリラ的アート活動が賞賛され名前がブランド化していくのと、ティエリーの個展が成功し「Mr.ブレインウォッシュ」という名の元に作品が売れていくのとは、まったく同じ原理だからだ。
反業界的でヤバめの社会派アートが好きな人は前者を支持し、お手頃にポップでそこそこゴージャスな話題の商品の欲しい人は後者に行く、というだけのことだ。


こうしたことを、バンクシーは十分解っているだろう。
彼のブランド名の絶大な効力が、「Mr.ブレインウォッシュ」の成功に寄与したことは明らかである。また、「Mr.ブレインウォッシュ」の成功を支えているアートという商品への信憑構造と、バンクシーのアート活動における信条が両立するものではないことも明らかである。
だが、アートワールドが金のかかる大掛かりなジョークのようなシステムと化している今、どんなにその外で「反権力」や「反資本主義」を、ストリートアートという”危険な賭け”を通して訴えたとしても、それらもいずれは「権力」や「資本主義」に覆われたシステム存続の一部となるのだとしたら、いっそティエリーのように売れ線を狙い金儲けする方が、欲望に正直と言えるかもしれないのだ。


「ヴィデオが趣味の古着屋から有名アーティストへ」というティエリーの辿った道と、そこに関わった自分自身を見せるこのドキュメンタリーは、アーティストとしてのバンクシーの依って立つ足下まで照らし出そうとしている。
そういう意味ではこの作品自体が、「アート業界への痛烈な皮肉」というレベルを超えた”危険な賭け”となっていると思う。それらの一切を淡々とユーモアをもって投げ出し、観客に問うたバンクシーの誠実さに私は感動した。

*1:バンクシーについてはこちらの解説がよくまとまっている。

*2:最初予定されていたタイトルは、「クソのような作品をバカに売りつける方法」。

*3:別にこういうことをやるのはティエリーだけではない。日本の美大あたりにも村上隆奈良美智エピゴーネンがたくさんいる。

*4:追記:バンクシー自らが一旦それを引き上げ、自分の個展で「大英博物館からの貸与」として展示した後、大英博物館のコレクションに加えられた。

*5:ストリートアートをギャラリーで展示するって、どう考えてもおかしい気がするが、アーティストもより広く活動を知られたいし活動資金も得たいという理由から出品するのだろう(バンクシーは入場料を一部自己負担しているらしい→参照)。