授業中断

予備校講師の知人が職場で倒れて救急車で病院に運ばれたというので、先日、夫と見舞いに行った。脳卒中らしい。右手と右足が軽い麻痺。幸いにもそれほど深刻な事態には至らず、しばらく入院してリハビリに励むそうだ。
「ともかくトイレに行きたくてたまんなかったんだけど、その時は喋れないじゃん。誰も訊いてくれないしさ、俺もうチビりそうだったわ」と知人。えらいことでしたなぁ。でも授業中でなくて、まだようござんしたね。
「明日は我が身だ」と、帰りの車の中で夫と話した。私たちは50代の前半でこれまで大した病気もしていないが、特別健康管理に気を配っている方とも言えないので、まあいつどうなるのかはわからない。
しかし授業中に倒れるのだけは避けたいものだ。学生の前で、突然ろれつが回らなくなり、ポトリとチョークが手から落ち、意識が遠のいてドサッと教壇に崩れおちる。そして尿失禁‥‥‥想像したくないです。


ところで季節の変わり目のせいか、先週の終わりから風邪でもないのに咳がよく出て困った。一旦発作のように咳き込み出すと止まらない。数分の間は、短い間隔を置いてゲホゲホ苦しみ、その後は喉が痛くて声が出にくい。でも咳止め薬を飲むと、半日くらいはそこまでいかずに収まっている。
前も同じ時期に同じ症状があったので、しばらくしたら直るだろうと、昨日の朝は薬を飲んで授業に行った。90分×2、ほとんど喋りまくる予定。どうか発作が起きませんように。


あらかじめ「ちょっと喉の調子が悪くて薬を飲んではいますが、咳が出ちゃうかもしれません。もし聞き苦しいところがあったらごめんなさい」と断って、一限目を無事に乗り切り、この調子なら大丈夫だと思いながら二限目始まって20分くらい経った頃、喉にチクリとした違和を覚え、喋りが止まった。
あ、ヤバい、出ないでくれと思った瞬間、「ゴホッ、ゴホンゲホゴホ」と大変厭なノイズが喉から一方的にせり上がってきたので、急いで胸元のマイクをオフにした。ピンチ。
講師が涙目で咳き込み続けていたら、学生も目のやり場に困る。やむを得ず「ゴホッ、ちょ、ゲホッ、すみ、ませゴホ、失礼ゲホゴホ」と廊下に。
咳、全然止まりません。これはまずい。収まれ〜収まれ〜と念じながらゲホゲホすること2分ほど。学生にとっては空白の2分である。授業の2分と言ったら結構長い。
少し収まってきたのでとりあえず教室に戻り、「悪いけど、プリント、読んでて、くれますか」。喉が辛いより、自分の声が明らかに苦しそうなのがわかるのが辛い。しかし万一のためにと思って、最初にプリントを配っておいてよかった。時間稼ぎの間、また外に。


数分経って戻った。まだ喉に地雷を抱えている気分だ。「えー‥‥すみません」と恐る恐る小さい声を出してみる。
「えー。えへん‥‥。プリント、どのへんまで読めました? あー。コホッ。あー。あ。なんか、ちょっと戻ってきました。コホッ。あー。大丈夫、です。はい。えと、どうも失礼しました。えー。回復したようです。ではさっきの話に戻ります‥‥」
というわけで、なんとか軌道修正完了。その後は中断した分を少しまくりながら進行して、普通に終えた。こんなことは初めてだ。やれやれ。


小学校から大学まで、たくさんの先生のたくさんの授業を受けてきた。眠くなる退屈な授業もあったし、面白くて楽しみな授業もあった。きっちり時間厳守の先生もいれば、比較的ルーズな先生もいた。
しかし先生の都合で授業が中断したことは、一度もなかった。頭が痛くなったので、ちょっと休憩していい?なんてことはなかった。45分なり60分なり90分なりのステージを、どの先生も休みなしで勤めていた。そういう仕事だから当たり前だ。
なのに、自分の健康管理の甘さで中断してしまった。5分くらいの中断で、授業取りやめに至らずに済んだのはよかったが、落ち込む。体調を崩して休講にする場合の方が、まだましな気がする。


喩えはやや不適当かもしれないが、歌手が急病でコンサートを取りやめにするのと、コンサートの最中に急に咳込んで歌えなくなって中断するのとでは、後者の方がお客さんに与えるがっかり感が大きいだろう。「こんな無様を晒すなんてプロ失格」と思われるはずだ。
歌手と大学の非常勤じゃ、仕事の内容も負荷もお客さんの期待値も違い過ぎますよ? はい、たしかに。でもお客の前に出る側からしたら、そこは失敗の許されないステージであり、満足して帰ってもらえるようなパフォーマンスを遂行せねばならないという点では、同じだ。
あんな無様を晒すなんて講師失格。そう思われても仕方ないぞと思いながら、回収した出席票をチマチマとチェックしていたら、「風邪、大丈夫ですか?」と欄外に書いている人がいた。‥‥沁みた。優しいのう(風邪じゃないけど)。
心配は有り難い。でもこういうことを学生に書かせたらやっぱりダメだ。反省して、来週は医者に行く。