ミスコンは女装コン

この間、仕事先の大学の学園祭のパンフを見た。この私立芸大はキャンパスが少し離れた二カ所に分かれていて、学園祭の実行委員会も別。私が見たのは音楽学部の方のパンフだが、「ステージ」のプログラムの中に「イケコン」とあり、その下に小さく「ミスコン・イケメンコンテスト・逆ミスコンあるよ♪」とあった。
やっぱりやってるんだなぁと思いつつ、「逆ミスコン」がわからなかったので学生に訊くと、「女装コンテストです」。
かなり前、美術学部のキャンパスの方で女装コンテストをやっているのは知っていたが、今年はこちらでもやるらしい。調べてみたら、東京藝大の「藝祭」でもミスコンと同時に女装コンテストが開催されている(藝大でミスコンが始まったのは、私の在学していた30年くらい前だった)。女装コンテストは最近、学園祭で人気の催し物のようだ。


ミスコンで女子だけを品評するのはアレだという判断から、男子対象のイケコン、女装コンも併催するようになったのかと最初思ったが、学生はそこまでは考えてない気もする。藝大はどうだか知らないが、この大学は女子の方がずっと人数が多いので、パンフの「イケコン」表記からして、誰かが「イケコン(イケメンコンテスト)やろうよ」と言い出した時に、「じゃついでにミスコンも女装コンも」となったのではないかと推測。
いくらイケコンや女装コンなど男子のコンテストを併催しようが、ミスコンの差別性が薄れるわけではあるまい、というミスコン批判はあるだろう。が、それはちょっと措いておいて、印象的だったのは学生の次の会話である。
女子A「ミスコンにわざわざ出てきてアピールする人より、影に隠れててあまり気付かれてないけど、よく見ると可愛いって子がいいよね」
女子B「そうそう。ミスコンって結局女装コンみたいなもんだし。どうせなら男の娘の方が面白い」
傍で頷く男子。


ミスコンは女装コン。その通りだと思う。
ミスコン出場者の皆さんは土台のレベルはあるわけだが、更にスタイル維持や各種メンテナンス、その上に施されるメイクやヘアやファッション、その他外見的な全てのレベルアップを含めて、戦略的に構築された「女装」の完成度を競っている。
それを「わざとらしい」と感じる女子と男子。女子は同性だから舞台裏が見えて引くのだろうし、男子は「女子力高すぎな感じの女子は苦手」といったところか。
そして男子の女装コンが出てきて、「よく考えたらミスコンも似たようなもんじゃね?」という視点が生まれた。だから、女装コンを出場者の性が入れ替わるだけの「逆ミスコン」と呼ぶ。女装コンを基準に考えれば、ミスコンは「逆女装コン」になる。*1



元々は、女が容姿を比べられ男に選ばれてきた歴史があり、いまだにさまざまな場面で、男性より圧倒的に女性の方で容姿が重要視されているという性差別構造が残っており、ミスコンという催しもその一つ‥‥‥これはミスコン批判の中心にある考え方だ。
今回あちこちで盛り上がっていたミスコン批判を見た限りでは、だからと言って個別のミスコンを取り潰せとか出場するなということではなく、ミスコンを擁護あるいは「ミスコン批判」を批判する言説の中に差別構造への等閑視がある、それは問題だという指摘だったと理解している。


じゃあそうした構造を批判するために、女はとりあえずオシャレやメイクをやめるのか? 男社会に強制されてきた女の義務を拒否するのか? と言えば、大抵はしない。
(参照:はてなブックマーク - 女が日常的にやっているケアの一例 - Hatelabo::AnonymousDiary
なぜなら、既に男の趣味などをさしおいて女同士の「美」の競合が行われ、メイクやオシャレの楽しみや褒め合いやナルシシズムを通じての女性の共感的な繋がりや快楽が出来上がっているからだ。「女子力」とか「ゆるふわ」とか「美魔女」とか、男にはたぶんどうでもいい"女の文化"がある。
もちろんその文化は消費促進に繋がるから流行る、流行らせているという面も見逃せない。そして当事者も、時間とエネルギーと金を投入してそれなりの成果が出せたら、その「仕事」(ある種の女にとってそれはもはや仕事の域)を評価されたいという欲望が生まれる。


たとえばミス・ユニバースでは容姿の他に特技や教養(時には恵まれない境遇で努力してきたといった背景)などの美点が加味されて評価されるらしいが、それは容姿で女を品評していることの若干の後ろめたさを隠蔽するものに過ぎない。最重要は容姿だ。
だから出場者もそこへの投資を惜しまずレベルは上がり続け、最終選考に残る人ともなれば目線や立ち振る舞いもプロのモデルか女優並みで、「どうよ」という自信オーラが満ちあふれ、コンテストは一般の男性の欲望する「女」を遥かに超えたところでの「美」の空中戦となっている(一般女性のオシャレやメイクにも同じようなことが言える)。
それは女による女装コンである。


男は、女の「美」について批評し審判する側にいた。でも、美人についていつも「総合的に正しい判断」をしてきたわけではないだろう。個別の場面では女の美しさに悩まされ振り回され、古今東西の小説家はしばしば美(人)を悪(女)として描いてきた。それは、女の「美」とは男にとって、究極的には「よくわからないもの」だったからではないか。
女性同士の競争レベルが高くなっていくと、その「美」はもはや男の欲望を刺激するものではなくなる。叶姉妹(そう言えば最近見ない)のビューティ・ブックは若い女性に受け入れられたが、彼女たちを見る男の目は「異形を見る目」であった。
自己目的化し完璧を目指して作り上げられアピールされる女の女装に、男の欲望は凍結される。


ミスコンでの女性の身体は、ほぼそうした「女装美」の媒体となっている。それを「女性美」のシンボルとして権威づけることで、ホモソーシャルはかりそめの結束と安定を図る。男と共に審査に参加する女は、それを補助している。
シンボル=権威の最もわかりやすい形はミスコン国際親善大使、つまり政治の道具だ。政治こそホモソーシャルの経済圏を駆動する力学だ。
従って、常に批評し審判する側に立ってきた男は、女の誇示する「美」について「総合的に正しい判断」をする自信がないとか欲望を喚起されないからと言って、審査員の座から降りることはできない。「よくわからないもの」を選別する位置から逃れることはできない。
おそらくAVを選んでいる時の方がよほど気楽であろう。



ミスコンも男子の女装コンも、ベースは同じく女装だとしたら。
両者の優勝者で対決させればいいのにね。
女子の多い大学でどういう結果が出るか興味深い。
今度、学生に提案してみよう。
(その前に、学園祭のミスコン及び女装コンとアトリエに展示している自分たちの「アート作品」との関係は、「美」という概念を前提とした場合どうなっているのかを、美術学部の学生に訊くのが先か)



●参照
「実はミスコンは性対象選択ではないのだ」by Midas
↓ブックマーク、メタブックマークのコメント
http://b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/203755
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/203755
http://b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/b.hatena.ne.jp/entry/togetter.com/li/203755

*1:因に、イケコンも女装コンみたいなものだ。美男とはかつては素のままで美しくカッコいい男であり、女のように外見を気にしてあれこれ弄くるのはむしろカッコ悪いとされていたはずだが、最近は男子もスキンケア、ヘア、ファッションとそれなりに手間暇かけて努力し成果を出してる人でないとイケメンとは言われないようになってきたので、その意味では女子の女装とやってることは同じである。