言い張れば通るという感覚 

大学の講義関係で出くわした例について今までも何回か書いたが、今回はこの10年で一番驚いたケースについて。*1


ある時、単位認定レポートの中にネット上にある映画の感想文からの剽窃を数件発見し、不可にして成績表を提出した。証拠としてそれぞれのアドレスも添付。
成績発表日、教務から電話がかかってきた。剽窃で不可になったうちの一人が、自分のレポートのコピー(必ずコピーを取っておくように言ってある)を持って「自分はやってない」と言いに来たという。レポートの半分以上を剽窃したテキストで埋め、ところどころ語尾を変えたり単語を入れ替えたり言い回しを変えたりしていた学生である。無駄な小細工のせいで、却って日本語が不自然になっているところが幾つかあるが、9割方同じだった。やってないなんてことはあり得ない。『七人の侍』と『荒野の七人』くらいあり得ない。いやそんないいものではない。
教務の人曰く、「提出して頂いたネットのアドレスがリンク切れになっているんですが」。ギョッとして、取り急ぎ手元にあるその学生のレポートの表紙に記載したのを確認したら、教務に出した紙に一文字間違えて写していた。あースミマセン。その旨をメールで送り、一件落着。


と思っていたらこれで終わらず、翌日また教務から電話がかかってきた。リンク先のページと学生のレポートを照合したのだが、学生は「そのページは確かにレポートを書く前に見た。でも写した覚えはない」と言い張って聞かないというのである。
「覚えはないって‥‥‥見りゃわかるじゃないですか!(笑)」
俄には信じ難い現実を突きつけられると、人間は思わず笑ってしまうものだ。目の前に確固たる「証拠」が提示されていながら堂々と否認できる”大物”ぶり。それともこういう学生は珍しくなくて、こんなに驚いていてはいけないのか。
四年生で案の定、卒業がかかっていた。でも追試はしないことになっている。学生は頑として剽窃を認めず、押し問答のようになってしまったらしい。どうしても引き下がらない構えの学生に職員も困り果て、とりあえず「成績評価への質問書」というのを書かせて帰した。それをメールで送ったので、悪いが回答をもらえないかと。


「回答を」と言われても。もう剽窃だと証拠を提示してあるんだし、これ以上何をどう説明せよと……と思いつつ、一旦電話を切ってメールを見ると、学生の質問書には「自分はレポート課題に相応しいものを選びたいと思い、ネットでいろいろ調べてその映画を見つけた。その時にテキストに目を通しただけ。どこからも引用はしていない」というようなことが書かれていた。
その映画、私が授業でおすすめしたものだが、それはそれとして。論拠も何もなくても言い張って駄々を捏ねて話を聞いてもらえるのは、幼稚園までである。もしかして、駄々を捏ねているのではなく、「引用」(コピペのまま)はダメだが少しでも手を加えればOKという理屈を捏ねているつもりだろうか。それで通せると踏んでいなければ、こんな自信満々の態度にはなるまい。


「舐めとんのか」という言葉が思わず口をついて出たが怒っていても仕方がないので、ネットのその箇所をコピペし、一文ずつに分けて文の冒頭に○を付け、その下に上の文章をもう一度コピペし冒頭に●を付けてから、学生のレポートを見ながら細部をチマチマ書き変えて対応関係を作った。
○ネットのテキスト(1sentence)
●学生のテキスト(1sentence)
  ↑このセットが20個くらい
実際にやってみると、コピペしてから改変したということが改めてよくわかった。中には読点の位置が違うだけでほとんど同じ文章もあった。
最後に「ネットから丸ごと「引用」して一字一句手を加えていない文章だけが剽窃ではない。同じ言葉を多用した、同じ意味内容の、ほぼ同じ構造の文が元のテキストと同じ順番で並んでいれば、剽窃と見なされる。あなたのレポートの半分以上でそういうことがなされているので、やっていないという主張は認められない」ということをもう少し丁寧に書いて、回答として送った。私にはこれ以上の対応は不可能である。


卒業がかかっているなら、特別に追試をしてあげればいいのにという意見もあるかもしれない。
実は講義をもって間もない頃、別の授業で(出席数不足に)「何とかしてクダサイ」と泣きつかれ、追加課題を出して通した。今の授業でも一回だけ(内容的に不可に対して)「何とかして(やって)クダサイ」と教務と学生二人がかりで泣きつかれ、追試をしギリギリのレベルで通したことがある。
学生が「卒業がかかっているのでそこを何とか」と相手の温情に訴えるのは、心理的には理解できなくもないが、まあ卑怯な手段である。懇願されればされるほど、こちらには「気の毒かもしれないな」という情が湧いてくるし、「これで落としたら相当恨まれるだろうな」と思わざるを得ないからだ。就職だって決まっているかもしれないのだ。「だったらどうして‥‥」と言いたくなるわけだが。
しかし件の学生の場合は、不可の理由が不正行為である。人の文章を写したのだからカンニングと同罪だ。普通は停学(4年なら留年)。大学によっては、その期に取得した単位全部が取り消しになる。その上、嘘をついているのがバレバレなのに主張を翻さなかった。自分の「不正」を「正」として相手に無理矢理認めさせようとしていた。それがわかった時点で私の中のなけなしの情は消えた。
専門課程の方は「真面目」な学生らしく、この大学はあくまで専門重視なので、卒業認定を巡って教授会で問題になったかもしれない。非常勤なのでその後のことは知らない。


学生の態度を教務の人から聞いていて思い出したのは、『オレ様化する子どもたち』(諏訪哲二、中公新書ラクレ、2005)の中に出てくるあるエピソードである。
高校の女子生徒が試験の答案用紙の下にカンニングペーパーを隠していたのを、挙動が不審だったことから教師に発見された。しかし彼女は、それは暗記のために作ったのでカンニングのためではないとその「意図」を否定し、さらにそれを見て答案を書いたという「行為」を否定したという。そこにカンペがあったのは直前まで暗記のために見ていて、仕舞い忘れたのだと。カンペの内容と答案との一致という「状況証拠」を示してもダメだった。
これを読んだ時は「こういうのはモンスター・スチューデントと言った方がいいな」と思ったが、まもなく同じような学生が自分の前に現れたのだった。


諏訪氏はこうした例をいくつか挙げ、自分の内面に絶対的な基準を持つ傾向が、80年代後半以降の子ども(追記:80年代後半以降に生まれた子どもではない。諏訪氏がその時期以降に出合った生徒という意味)の中に現れてきたとしている。
その時代以降の子どもは、共同体の「生活主体」「労働主体」として立ち上がる前に、既に「個」を「消費主体」として自立させている。その結果、子どもにとって学校の教師との関係は共同体的な「贈与」関係ではなく、市民社会的な「交換」関係となった。子どもは「生徒」ではなく「個」として教師に向き合い、自分が学校に来ている見返りとして「自分に合った」「自分にとって不快ではない」対応だけを望むようになった。そして学校は、子どもを「社会化」するという機能を著しく衰弱させたと。
この本では「社会化」を、(フロイトの言う)「去勢」とほぼ同じ意味で使っている。学校はもともと、子どもの全能感を砕き、自分の主観の通用しない客観世界(学問から社会規範まで)に子どもを向き合わせる場所ということだ。初等〜中等教育がそれを担うものとされていたが、役割を果たせなくなった。
それで、最近は大学でやらねばならないはめになっているのね。


オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)

オレ様化する子どもたち (中公新書ラクレ)


●付記
「ネットからの剽窃」を指摘された際にどうやったら言い逃れできるかを、学生の立場になってちょっと考えてみて、「これは私が書いたものなんです」と言い張る(剽窃先が匿名や性別・年齢のわからないHNのテキストの場合に限る)てのを思いついた。「これは○年前に私が書いて投稿した文章です。その時のテキストがパソコンに保存してあったので、一部だけ変えて書いたんです」と。同一人物である証拠は出せないが、相手もそれが同一人物ではないという証拠は出せない。 剽窃行為がグレーで、内容が基準に達していたら、落とせない。
というわけで、今は授業の最初に「一度どこかに書いたものを使ってはダメ」と言っている。


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*1:こういう記事を挙げると、また「学生の許可なしに学生の言動を晒している」などと非難する人々が湧いてくるかもしれないが、いつも学生の匿名性は確保しているので「晒し」ではない。