「死ぬのは生きるより難儀」‥‥義父のこと

数日前の午後、義母(79歳)から電話がかかってきた。
「○○(夫)、いる?」
「今、ちょっと出かけてるけど。何かあった?」
「あの、お父さんが‥‥」
いつもと違う声の感じ。あまり要領を得ない義母の話を総合すると、こういうことだった。


その日の午前中、義父(84歳)は「図書館に行ってくる」と言って車で家を出た。時々近くの図書館に出かけ、いつもお昼前に帰ってくる。11時頃電話があり、「帰りがちょっと遅くなる」と言った義父は、何故か向かいの人の電話番号を尋ねた。わりと親しく近所付き合いしている家だ。何の用事?と思いつつ特に理由を聞くこともなく教えた。
昼過ぎに向かいの人が家にやってきて言うには、「旦那さんから電話があって、2、3日留守にするので奥さんをよろしくと言ってたよ。あと、留守中奥さんに何かあった時のために、息子さん(夫)の携帯の番号を聞いといてくれとのことだったので、教えてくれんかね」。
驚いて「他に何か言ってなかった?」と聞いたが、それ以上のことは何もわからない。携帯は居間に置きっぱなしだった。向かいの人は「落ち着いてたし、別に心配せんでもいいと思うよ」と言って帰っていったが、こんなこと結婚してから今まで一度もないのでおかしい。


「最近何か変わったことなかった?」と訊いてみる。
「2、3日前、突然思い立ったように一人で在所(義父の親戚一族は岐阜県の田舎に住んでいる)に行ったの。ハッピー(ペットのチワワ)連れて。あっちにハッピーの兄弟がいるから会わせてやる言って。この時期まだ寒いから行ったことないのに、どういう風の吹き回しかなと思った。それと今朝もね、いつも普段着で行くのにカシミヤのよそ行き着て行ったし、部屋を見たらいつもと違ってきちんと片付いてるんよ」
「ボケの徴候は出てなかった?」
「昔に比べりゃ物忘れはするようになったけど、しっかりしてみえたよ。今朝は洗濯とお風呂の掃除もやってくれたし。だいたい、いつも何でも私に話すのに、なんで何も言わずに出て行っちゃったんだろ」
義母はかなりうろたえていた。慎重で控えめな義父の性格からしても、この行動はちょっと意外だ。車を運転して近所の歯医者やスーパーに行くことはあっても、歳なので遠出は避けていたからそれも不安材料。とりあえず夫に連絡を取ってそちらに電話を入れさせるので、あまり心配しないようにと宥めた。


出先から帰ってきた夫は首を傾げていた。彼にも見当がつかないようだった。
「女ができたかな」
「まさか。84歳だよ」
「わからんぞ、どっかの婆さんと図書館で知り合って」
「何かトラブルに巻き込まれてないといいけど」
「それはないだろ。温泉でも行ったんかな。こないだお袋が誘われたが寒いから厭だって断ったらしいから、拗ねて一人で」
そんなことで? もっとマジメな理由かもしれないよ。おかあさんに言えないような。
ちょっとゴルバチョフ似の義父の、ツルリとした頭を思い浮かべて私は考えた。


義父は元刑事だが、実は奉職中、同僚が殉死している。殺人犯はあと一歩のところで掴まらないまま時効となり、事件はお蔵入りになった。それをずっと気に病んでいた義父は、退職後、一人で死んだ同僚の復讐を果たすことを決意し、誰にも知られないように密かに「捜査」をしていた。図書館に時々出かけるのも、当時の新聞や関係の雑誌など資料を漁るためだ。
ある日、ついに証拠に繋がりそうな情報を得た義父は、妻に郷里に行ってくると嘘をついてその現場に出かけ、犯人がまだ生きていることを確かめた。数日家で行動プランを練った後、自室の隠し金庫から昔捜査のどさくさに紛れてネコババした中国製トカレフを取り出して車のトランクに隠し、図書館に行くと言って出かけた。
相手が凶器を携帯していないとは限らない。もしかしたらこのまま死ぬことになるかもしれない。しかしこれをやり遂げないことには、あいつの敵を討ってやらんことには、儂は死ぬに死ねんのだ。
許せ妻よ‥‥!


‥‥‥‥なんて超適当な妄想に耽っていられたのは、その日の夜までだった。



夜8時頃、また義母から電話があった。
義父は長年、警察のOB同期会の会計など役員をいくつか引き受けているのだが、他の役員の人から先ほど、「△△さん(義父)から管理してもらってたお金が突然送られてきた。手紙も何もないのでよくわからないのだけど‥‥」という電話があったという。
預かっているお金を人に託したわけだから、もうその仕事はできないということだ。しかし理由が不明。本人も行方不明。これ、どういうこと? 義母の声は泣きそうだった。一人にしておけないし、部屋をよく調べた方がいいだろうと、車で一時間ほどの義母の家に夫と駆けつける。
机の上には、いろいろな書類がきちんと積み上げられていた。義父は戦友会(少年兵だった)の冊子などを作る仕事も長年引き受けており、それもきちんとまとめて置かれていた。カード類も置かれていた。図書館のカードもある。図書館に行くというのは嘘だった。義母によれば持ってるお金は5、6万のはず。携帯とパソコンを調べてみたが、何も出てこない。


義母はチワワを抱きしめたまま、「もうわけがわからない、どうしたらいいの」と繰り返した。「2〜3日って言ったんだから、せめて明日の夜まで待とう」と夫。「刑事だった親父が警察の世話になるようなことするわけがないだろ。近場の温泉旅館でも泊まってて、明日頃もう飽きてケロッとした顔で帰ってくるよ」。
8割方「自殺」と決め込んでいる義母を小一時間ほど慰め励まして、何かあったらすぐ電話するように言って夫の実家を出た。義母を落ち着かせるために考えられる限りの希望的観測を並べておいたが、私も夫も「自殺目的の家出」の可能性も考えざるを得ない心境になっていた。


数ヶ月前に会った時は「儂は百歳まで生きるよ」とニコニコしながら言っていた義父。持病はあったが今のところ特に問題はなく、年金暮らしで写真が趣味でペットを可愛がり、何の不足もない(ように見えた)。まったく理由が思い当らない。
「戦友会の人も高齢でどんどん死んでいって、自分も死にたくなっちまったんかなぁ‥‥。しかし遺書がないのはおかしい。俺に何か一言言いたいことがあるはずだ。こういうのは全然親父らしくない」と夫は車を運転しながら言った。
「もし突発的に死にたいと思っても、自殺まではできんような気がするな親父には」
「退屈で、みんなに心配されてみたいって変な気持ち起したんじゃないだろか」
「あるかもな。だとしたらすぐ帰ってくる」
それ以外に、私たちはさまざまな可能性について話し合った。しかし家に帰ると夫はすっかり無口になって、何か考え込んでいた。


その夜の明け方、義母からの電話で起された。某高速道路の某サービスエリアの駐車場で倒れていた義父が、病院に搬送されたという。意識はあるらしい。なんでそんな変な時間にサービスエリアにいたのだろうか。どこにも宿泊せず、夜中ぶっ続けであちこち走っていたのか。
急いで犬と猫にごはんをやってから義母宅に車を飛ばすと、義母は既に向かいの人にチワワをペットホテルに預けてくれるように頼んで、入院の用意の大きな包みを作って待っていた。
高速をいくつか梯子して病院に着いた時は、日もだいぶ昇っていた。看護士が義父の車のキーと財布を持ってきた。処置室の簡易ベッドに横になった義父は、顔に擦り傷を作り口回りがやや腫れている他は、特に体に別状はないようだった。脳波も正常だ。問いかけにはかろうじて反応しているが、すぐ目を閉じてしまう。入院して精密検査ということになった。


間もなく義父は病室に入った。
義母と私が事務手続きを済ませている間、夫が病室にいた。出てきた夫に「お父さん、何か喋った?」と尋ねる。
「『お前、今来たのか。一人か』って言ったから、『朝早よからみんなで駆けつけて来たじゃないか』言ったら、黙って向こう向いてしまった。バツが悪そうだった」
しばらくしてから私も病室に行った。
「おとーさん、私わかる? あんまり無茶しないでよ。みんな心配するからね」
義父は半泣き笑いのような顔になった。



義母を病院に残して、夫と私は件のサービスエリアに向かった。上り方面の駐車場に義父の車はなく、次のICで折り返し下り方面の駐車場で発見。
「リクライニングが倒れてる」
「中、調べよう」
おそらく仮眠を取った後、トイレに行きたくなったかして出ようとした時に、原因はわからないがクラッとなって倒れ、そのまま起き上がれなくなったのかと思う。座席とドアの間に割れた眼鏡が落ちていた。
朝の5時頃だから、見つけて救急車を呼んでくれたのはおそらく長距離トラックの運転手だろう。トイレの個室の中で倒れていたら、しばらく発見されなかったかもしれない。ハンドルを握っている最中にそういうことが起きず、他人を巻き込まなかったのが、不幸中の幸いである。
行くのに半日くらいかかるほど遠方ではなかったことも、たまたま夫と私の仕事が休みの時期だったことも、まあ幸運だったかもしれない。


助手席にあったセカンドバッグの中から、高速料金の領収書が幾つか出てきた。そこそこ遠いところまで行っていて、引き返してくる途中だったようだ。家に帰ろうと思っていたのかどうかはわからない。
そして、義母宛の切手を貼った白い封筒が出てきた。夫はすぐに封を切った。上等な和紙の便箋に筆ペンで書いたらしい達筆過ぎて読むのにやや苦労する行書体で、最初に妻への短い感謝の言葉。警察OB同期会と戦友会の雑務についての事後処理や連絡先。一人息子宛に、母を大事にするようにという言葉。それだけだった。明らかに遺書だ。しかしなぜ死のうと思ったかは何も書かれていなかった。
「これはとりあえずお袋に見せない方がいいな」と夫は言って、上着の内ポケットに封筒をしまった。


それから二台の車でまた高速を梯子して夫の実家に向かった。降りてから途中の喫茶店で朝昼兼用の軽食を摂った。家に着き義父の車を車庫に入れ、義母に頼まれた忘れ物を包み、一度自宅に帰って一時間半ほど休んでから、また二人で病院に向かった。
義父も義母も見かけはまだ元気そうでしっかりしているので、私たちは少し油断していたと思う。これからはなるべく暇を見て会いに行こうと話し合った。
夫は父親が無事だったことで緊張が少し緩んだのか、「ったく人騒がせだよなぁ。お袋の身にもなってみろ、自分勝手が過ぎるぞ親父は。だいたい中途半端だ、やってることが」とブツブツ怒っていた。
「それ、お父さんにストレートに言わないでよ」
「わかっとる」



義父は眠っていた。右手首と膝に打撲があったようだ。完全に意識不明で倒れたのではなく、倒れるとわかって手を突いたらしい。もっともノーガードで昏倒していたら、あんな擦り傷では済まない。
担当の医師から話を聞いた。医師には「自殺の可能性」の話はしていないので、認知症の方向から調べたようだ。
「何してたの?と聞いたら、『ドライブ』と答えました」
たしかにドライブだ。
「どこに行こうとしてたの?と聞いたら、『行けるとこまで』と」
思わず夫と顔を見合わせた。
その後、言語療法士が義父に書かせた認知症検査のペーパーテストの話を義母から聞いた。
「だいたいまともに書いてたわ。最後に何か一言書く欄があってね、しばらく考えて『死ぬのは生きるより難儀』って書いたんよ」
義母の顔には「ね、やっぱり‥‥」と書いてあった。


義父が言葉少なに義母に漏らしたことによれば、警察OB同期会の役員も戦友会の役員も辞めたいと思っていたらしい。引き受けた20年前は良かったが、最近は小冊子や会報作り、名簿作り、イベントや会合のセッティング、会計などの煩雑な仕事が本当にしんどくなった。義母はよく「もう断ればいいのに」と言ってはいたが、変なところで体面を重んじる義父はそれを言い出せなかった。
その仕事のために、終日パソコンに向かっていることも多かったという。しかもやり出すと凝り性で几帳面で、手を抜くことができない人である。しかし、特に戦友会の中では年少の方だったので、他にそういう雑務をお願いできる人もおらず、手伝ってくれる人もいない。そもそもかなりの会員が他界して人数も減ってきている。
なのにその組織が存在する限り、義父は引き受けた、というか半ば押し付けられた仕事をやり続けなければならない(と思い込んでいた)。自分から「もうできません」とは、どうしても言えない人なのだ。


「疲れて何もかも厭になったんだね」と義母は言った。「そう言えば前に、もうやりたいこともないし、ただ生きてるだけだねぇ、なんて話を二人でしたことがあったわ」。
だからってそんなことで死のうとしなくてもいいでしょうに‥‥という言葉を私は呑み込んだ。長生きして、もう生きてる意味もないと思ってしまった老人に何と言ったらいいのか、それまで私は考えたことがなかった。
夫は病室の外で義母に「これから親父がどこか行く時はなるべく同行するようにしてくれ。車はもう運転させるな。今回のことはもうしつこく聞くなよ。ちょっとでもおかしいことがあったら電話してくれ」ということを懇々と話していた。
義父は病室で簡易トイレを使うのを拒み、義母に伴われて無理矢理外のトイレに歩いて行くまでに回復していた。「もうほんとにプライド高い人だから困るわ」と義母。念のため彼女は病室に泊まることになり、私と夫は帰宅した。このまま経過良好であれば、退院は翌日の午前中。


職業柄ということもあるだろうが義父はかつてかなりのワーカホリックで、家で家族と食事を共にすることも少なかったらしい。不規則な生活と仕事のし過ぎで体がボロボロになり、50代は入退院を繰り返した。それもあって、60過ぎてからはかなり健康に気を遣ってきたようで、体は歳のわりには丈夫だった。
退職後、いろいろな会の役員を引き受けているうち、またそれが仕事のようになってしまい、歳をとってだんだん負担が大きくなった。そしてある時我慢が限界に達し、しかし自ら「辞める」と言うのは自尊心と責任感が許さないので、”任務”がまっとうできない”責任”を取って死ぬことにした‥‥ということなのだろうか。理由を書けば他人を無用に責めることになるので、「謎の自殺」ということにして。
これがもし実際の職務だったら、オーバーワークに追い詰められての過労自殺だ。昔あまりに仕事人間だった義父は、定年後も職業的な義務感や過剰な責任感を引きずってしまったのだろうか。
駐車場で倒れたのは、義父にとっては計算外のことだっただろう。もう手紙を息子に読まれたことは察しているだろう。「しくじった。みっともないことになってしもた」と内心忸怩たる気持ちかもしれない。他の役員にも言い訳が立たない。
でも義母に正直に漏らしたところ、「認知症になったと言って役員の仕事は全部断っておくから安心しなさい」と言ってくれたので、結果的にはこれで良かったかと思おうとしているかもしれない。


(他人から見れば)バカバカしいようなことで自分を追い込み、身動き取れなくなったと思い詰める人の心境。ましてそれが80を過ぎた老人であれば、リアルに想像するのは難しい。少なくとも今の私には。けれども、そこまでせっぱつまっていたのかと思うと、気の毒になる。
年間三万人台と言われる自殺者の理由は、健康問題と経済問題がダントツで多いという。義父はどちらにも苦しめられていない。夫に言わせれば義父の暴走は「甘え」だが、理由がどうあれ「死にたい」ほどの苦痛はその人固有のものだ。
しかし義母のことを考えると、やっぱりちょっと我がままで身勝手だなとも思う。何の前触れもなく夫に自殺され、その理由もわからないままだったら、妻はどれだけ苦しむだろうか。自分に落ち度があったのかと、死ぬまで自責の念に囚われ続けるかもしれない。私たちにしても、こんなことになるならもっと頻繁に会いに行くべきだったとか、同居してた方が良かったかなどと、ずっと考えざるを得ないと思う。
「本当に死ぬ気はなかったと思うよ」と夫は言った。「最初はその勢いだったとしても、気力が長続きしないって。それに親父、小心者だし」
夫は父親のことを、テストの点が悪かったのを思い詰めて「もう死ぬしかない!」と家出し、うろうろしてるのを補導されて家に帰されたガリ勉中学生のように見ている。そう言われてみると、そんな気もしてくる。



翌日の朝、病院に着いた時、義父はベッドで目を覚ましていた。「気分はどう?」と訊くと、「いろいろすまんかったの」と小さい声で言った。
医師の話では、左脳に少し萎縮があり認知症の気もないことはないが、駐車場で倒れた理由はわからないということだ。
「今まで徘徊は一度もないんですね」
「ありません」
「これからはもしかしたらあるかもしれないので、少し気をつけてて下さい。”足”があるとまた遠出するかもしれないので、車の運転も‥‥」
「もうやめさせます」
今回のは、突然起こった”広域徘徊”と医師は捉えているようだった(広域過ぎる)。いずれにせよ、せっぱつまっての短絡的な行動は、斑ボケの入り始めた高齢の老人にありがちなことなのかもしれない。


自宅に帰る途中、四人で喫茶店に入った。義父はコーヒーが大好きだ。車の中で何度か「すまんかったの」と力なく呟いていた義父は、見るからに悄然としていた。
義父「これ以上長生きしてもな‥‥」
義母「もうそんなこと言うんじゃない」
夫「人には寿命ってものがあるんだよ。そのうち厭でもお迎えが来るんだから、余計なこと考えんとのんびり暮らせよ」


茶店を出てからチワワを迎えにペットホテルに寄った。義父はクンクンと甘えた鼻声を出すチワワを膝に乗せて撫でていた。
「まあまあこの子はなんでこんなに甘ったれた声出すかね」と嬉しそうに義母。
「ハッピー、おとうさんが帰ってきてよかったねー」と後ろの座席に向かって声をかけた。ちょっと微妙な台詞だったかしらん。
帰宅して昼食を摂ると、義父はだいぶ元気になり、笑顔も見せるようになった。それから「眠い」と言って横になった。ほっとして疲れが一気に出てきたようだ。
しばらく義母と話した後、夫の実家を後にした。義母にあの手紙を見せるのは止めにした。


「いよいよ始まったな」と夫が車の中で言った。「少し前にお前の親父もボケ始めたから、こっちも時間の問題とは思ってたけど」。
「しかし『死ぬのは生きるより難儀』って、すごい直球だったね」
「普通は『生きるのは死ぬより難儀』だよなぁ。でもいざとなると、死ぬのもそう簡単にはいかんと」
死にたいと思っても、なかなか簡単には死ねない。そこまでまだ思い切れてない。まだ生きたいのかもしれない。そう思って直前で引き返した人は、自殺者の何倍くらいいるのだろう。
翌朝、義父から改めて「ほんとにすまんかったの」という電話がかかってきた。義母の話では、これまで義父は夜遅くまでパソコンに向かっていたので、何年も二階の自室の隣の部屋に一人で寝ていたが、昨夜は一階の寝室に義母と布団を並べて寝たそうだ。



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