「お母さんを、抱きしめたい!」と父は大声で言った

先日、父(87歳)は原因不明の激しい痙攣を起こし、意識不明となって救急車で運ばれた。救急車で搬送されるのは先月、先々月に続いて三度目だ。連絡を受けてようやく病院に駆けつけると、憔悴しきった顔の母(75歳)が入院の荷物を脇に、ポツンと廊下のベンチに座っていた。私の顔を見るなり、「もう私には無理。もうお父さんが痙攣起こしたとこ見るの厭。卒倒しそうになる。もう無理」と言って泣き出した。


前回の発作の後、父は要介護2の判定を受けている。認知症も進行しつつあり、目を離せない状態になってきた。先日、母が見てないところで転倒してタンスの角に頭を強打し、怪我をしたばかりだ。母が応急手当をしたが、父はどうしても病院に行くのを拒んだ。
夜中にもゴソゴソ動き回る父の心配をしなければならない母は、慢性睡眠不足になっている。体重も30キロを切りそうだ。父は来週から週2でデイケアサービスに通うことになっていたが、自宅介護自体がもう限界にきている。
医師は長期入院できる病院か施設を探しましょうと言い、母も同意して来週その具体的な相談をすることになった。自宅から離れたくない父には気の毒だが、私は今のところ週に2日くらいしか実家に行けないし、母が倒れてしまってからでは遅い。


病室に入ると、父はベッドの上に起き上がろうと体を動かしていた。ベッドを少し起こし、クッションを脇に当てがってやる。目はあいているが、背中をさすって話しかけても反応しない。しきりに手を動かし、同じ動作を繰り返している。医師の話では、痙攣を起した後に特有の症状で、まだ完全には覚醒していないとのことだった。そんな父の姿を見るのは初めてで、父がどこか遠いところに行ってしまった感じがした。
その後、来客があった私は病院に母を残して帰宅したが、父は脳波の検査のためにあちこちに付けられた管などをむしり取ろうとし、看護士に押さえられるとその手を振り払い、声にならない声を出して暴れ、とうとう手に拘束具を付けられたようだ。


翌日、叔父を伴って病院に行った母の話。
「お父さん、ここどこかわかる?って訊いたら、M町って答えたのよ」
M町は、父が結婚前に両親と住んでいた町の名前だ。
「お父さん、私は誰?って訊いたら、じぃっと私の顔を見てから「お母さん」て言った。あそこにいるのは?って訊いたら、「マコト君」って。それはちゃんとわかったようね。でも昨日のことは何も覚えてないみたい。前に入院した時は、朝起きてから、「なんでここにいるんだ」って、どんなに説明しても同じことを何十回も訊いていたじゃない。ああいうのもなし。何にも喋らない」
これはもう元に戻らないのではないかという予感がする。


痙攣を起す前の父の様子も、母から電話で聞いた。
「朝からちょっと様子がおかしかったのよ。御飯食べおわってまだ食卓についている時に、突然大きな声張り上げて「お母さんを、抱きしめたい!」って言ったの。目、カッと開いてまっすぐこっち見てね。びっくりして「やあねぇ、お父さん何言ってるの」て言ったら、また大声で「お母さんを、抱きしめたい!」って。私、急いで窓を全部閉めたわ、ご近所中に聞こえそうな声だったから。で、私が洗い物始めたら後ろでうろうろしてて、そんでまた椅子に座り直しておんなじこと言うのよ、「お母さんを、抱きしめたい!」って。すんごくはっきりと。これは言う通りにしてあげた方がいいと思ってね、「じゃあお父さんこっちいらっしゃい」って手取って立たせて、「私がこうするからお父さんもそうして頂戴」って背中に手を回したの。そしたらまぁ、もの凄い力で抱きしめてきてさ。歯を食いしばって。もう骨が折れそうで思わず「痛い」って言ってやっと振りほどいたわ。その後も小さい子みたいに私について回って離れないから、買い物行くのもやめてねぇ。やめて良かったけど」
その後、南向きの日当りのいい部屋で母に髭を剃ってもらい、耳掃除をしてもらっている時に、父は痙攣に襲われた。


威張り散らし我がまま放題だった父は、全面的に母に介護されるようになってからも、母を気遣ったり感謝したりすることはなかった。ひたすら食べ物だけに反応し、気に入らないことがあると母に当たった。何一つ自分でできないのにプライドだけは異様に高く、病人・老人扱いされることを嫌がった。
そしてどんどんボケていった父。ボケることでタガが外れ、心の奥底に押し込めていた欲望が表に出てきたのではないかと思う。まともな会話ができなくなるという予感もあったのかもしれない。記憶力や言語能力が完全に失われる前に、父が母に言いたかった気持ち。それが「お母さんを、抱きしめたい!」だった。
あまりにストレートなところが父らしいとは思う。母が少しは報われた気持ちになったのかどうかはわからないが、55年も暮らした家で父が母に話しかけたそれが最後の言葉になった。



● 関連記事
老いるということ