夜の人

一週間に2日か3日、だいたい夜の9時頃から、夫と二人で家の近くを散歩するようになった。散歩と行ってもブラブラ歩きではなく、やや歩幅広めの早足でサッサと45分くらい。運動不足解消のため。
コースの三分の一は、田んぼの真ん中を通っている遊歩道である。この時間帯だと、ごくたまに犬の散歩の人とすれ違うくらいだ。街灯は少なく、曇っているとかなり暗いが、水田のせいで風は涼しい。蛙の合唱が聞こえる。


途中に屋根付きの木のベンチがある。遊歩道を歩く人が休憩できるようになっているのだ。
そのベンチにいつも、野球帽を被った労務者風の痩せた男の人が座っている。傍らには自転車。暗いので顔はほとんど見えないが、たぶん50代後半か60代かそのあたり。最初はすぐ近くに行くまでそこに人が座っているとは気付かなかったので、ちょっと驚いた。
台風の近づいている雲行きの怪しい日はいなかったが、それ以外の日は大抵いた。近所のおじさんが散歩の途中で休んでいるという感じでもない。いつも自転車を脇に置き、一人何をするでもなく座っている。


「あの人、あそこで何してるんだろうね」
「ホームレスかなぁ」
「ホームレスだったら家財道具一式自転車に積んでるよ。手ぶらだったじゃん」
「仕事の帰りなのかな」
「あんな時間に一人で休んでるの?」
「すぐに家に帰りたくないのかもしれない」
「家に居場所がなくて仕方なく出てきたとか」
「お父さん、ゴロゴロしてないで散歩でもしてきなさいよ、とか言われてな」
「それか、家にいても暑いから涼んでいるのかもね」
「かもしれんな」
「でも自転車で来てるってことはすぐ近くの人じゃないね」
「あそこをねぐらにしてる人かな」
「だからホームレスじゃないって」


この田舎町にホームレスはいるのだろうか。田畑と住宅が半々のこのあたりは、ホームレスの住処になりそうなところもない。
細々と日銭を稼いでいる貧しい老人はいる。空き缶回収の日に、ゴミ置き場からアルミ缶を集めては、山のように自転車に積んでいる人。鉄屑屋に持っていけばグラム幾らで買ってくれるので、回収車が来る前にあちこちのゴミ置き場を回っているのだ。
ベンチの男性もそういう人の一人だろうか。わからない。


遊歩道に入ると、「今夜もあのおじさんいるかな」と思う。向こうも「あ、またいつもの人達が歩いてきた」と思っているだろう。たまにいないと、「いなかったね」「どうしたんだろね」という会話になる。
そろそろ「こんばんは」と言うべきだろうか。
昼間なら顔が見えるから挨拶できるだろう。夜でも、近所の道ですれ違う人とはどちらからともなく挨拶する。でもその人は遊歩道から少しだけ引っ込んだベンチに座っており、顔は陰になっていて表情がわからない。あまりにひっそりとした孤独な佇まいに、声をかけるのを却って躊躇わせるものがある。人の通らない静かな時間帯に一人だけの時間を楽しんでいて、見知らぬ他人に挨拶などされたくないかもしれないとも思う。


そんなこんなで、いまだに無言でその人の前を通り過ぎる。
その人はほとんど夜の闇に溶け込んでいる。夜の闇が闇を彫刻してそこに作り出した人のように、微動だにしない。あの人はどこから来て、どこに帰っていくのだろうか。