父との会話

入院中の父を夫と見舞いに行った。ちょうど昼食が終わったところで、父はベッドの上に起きていた。
「お父さん、気分どう?」
「‥‥‥ああ」
「お昼、全部食べた?」
「‥‥ここの食事は、おいしくない」
父は言葉がスムーズに出てこないようだった。目を瞑って考え考え、喋る。母からは、「母の具合が良くないので、父は家に帰らず近いうちに”別のもっと良い施設”に入る」ことを、やんわりと父に伝えてくれと言われている。母から直接より、ワンクッション置いた方がいいだろうということで。
「ところでお母さんが体調崩してね、お医者さんにしばらく療養しなさいって言われてるの。もう今までみたいにお父さんの面倒看れないの、お母さんは。だからお父さん、ここ出たらもっと御飯のおいしい、お部屋も広いところに移るからね。お母さんも元気になったら時々来れるから。ね?」
目を閉じて聞いていた父は、薄笑いを浮かべて私を見、
「何言ってるの。あんたのお母さんは、もう死んだがね」*1
と言った。ギョッとして夫と顔を見合わせた。
「え、お母さんよ、お・か・あ・さ・ん。いつも御飯作ってもらってたでしょう。体調悪くて今日は来れなかったんだよ」
「ちがうちがう」
父は手を振った。なんとなく厭な予感。
「お父さん。私は誰だった?」
ニヤリとし、何を当たり前のことを訊いているのだという顔で、父は答えた。
「あんたは、僕のワイフだがね」
父は完全に、私を母だと思っていた。


先日、母と叔父が来た時は、ちゃんと個体認識していたという。夫のことも、最初叔父と間違えたが、訂正したらすぐに了解した。一ヶ月前に夫が話した夏休みの被災地ボランティア授業の話まで覚えていた。なぜ私だけ認識できないのだろう? なぜ、私を母と間違える? 
混乱した父に、なんとかして自分が妻ではなく娘だとわからようとした。見ていた夫が後ろから「もうどっちでもいいじゃないか」と口を挟んだ。「そんなこと言ったって」と言い返さずにはいられなかった。どっちでもいいなんてことないでしょ。
父と私の噛み合わないやりとりにいたたまれなくなったのか、やがて夫は黙って病室の外に出ていった。


「いい?お父さん、お父さんには奥さんがいます。カズコです。そうだね?」
「‥‥あんただがね」
「それから娘もいます。いるね?」
「‥‥‥ああ」
「上がサキコで、下がユリコです。そうだね?」
頷いて、私の言葉を吟味するように父は目を閉じた。
「私はサキコ。あなたの娘。私とユリコのお母さんが、お父さんの奥さん。ね? いつも「お母さん」て呼んでるでしょ」
父は眉間に皺を寄せてぎゅっと固く目を瞑った。そして訴えるように、
「もう、ややこしくしないでくれよぅ」
と言った。


私のしたことは、認知症の老人に対してまったく良くないアプローチだった。
相手が思い違いをしていても、否定してはいけない。無理矢理わからせようとするのもいけない。それとなく話を変えた方が良い。そういうことは知識では知っていた。しかしいざそれが自分の身に降り掛かってきた時、私には余裕がなくなってしまった。父が私を認識できないということがとてつもなく悲しく不安で、その感情に自分が負けてしまった。


その後、実家に寄って母と叔父に父との会話を話した。「あんたのお母さんは、もう死んだがね」を、自分が死んだことにされてしまったと勘違いした母は泣きそうになった。あんた=(私)=お母さんだから、あんたのお母さん=だいぶ前に死んだおばあちゃんということになるので、お母さんは殺されてないよ、と言って宥めた。私と母が一緒に行けば、まだ見分けはつくだろう。
叔父「しかしそれはまあ、ちょっとショックだったわなぁ」
夫 「適当なところでやめときゃいいのに、この人もムキになってポンポン言うもんでさ」
私 「だって‥‥焦ってたんだよ内心」
母 「そのうち、あなたに向かって『お母さんを、抱きしめたい!』って言ったりするかしらねぇ」
私 「うわー。でもそしたら言う通りにしてやるわ」
叔父「おや?お母さんちょっと太ったね、なんて言ったりしてね」(一同大笑い)
最後は笑いも出て、私も母も少し気分がほぐれた。笑いにでも包まないとやってられないという気持ちも少しはある。


夫の知人の話を思い出した。まだそんなにボケの進行していないお母さんが病気で入院し、息子は時々病室に通っていた。ある日もひとしきり世間話をした後で、お母さんは「ところでお宅さん、どちらさんだったかね?」と息子に尋ねた。悲しいというのも通り越した、何とも言えない虚しさと寂しさに、言葉が出なかったという。
私の場合は母と取り違えられたので、「誰だかわからない」ところまでは行っていない。いつかはそうなる可能性が高いにしても。
父に「あんたは、僕のワイフだがね」と言われた時、ごく幼い頃の私の口癖だった(らしい)「パパのお嫁さんになる」に、50年も経って父が答えたような奇妙な感覚に、一瞬囚われた。あのシュールな衝撃を、私は当分忘れないだろう。

*1:「〜(だ)がね」は名古屋弁で、「〜じゃないか」「〜なんだよ」といった、意味を強める語尾。「〜だけどね」ではない。