出席しているのにレポートを出さない学生の謎

レポートを採点し成績表をつけていて、毎年不思議に思っていたことがあった。
私の授業ではたとえば100人履修届けを出していた場合、出席をクリアして単位認定試験(レポート)資格を得るのが80人前後。しかしその全員がレポートを提出しているかというと、そうではない。だいたい10数人は未提出。で、失格となる。今年でジェンダー入門の講義をもって9年目だが、この4、5年でそういう学生が少し目立ってきた。


講義の終わりの方で休みがちになってレポート書くのが面倒臭くなったり、教務科への提出が時間的に間に合わなかったりというケースもあるかもしれないが、それにしても人数が多い気がする。
レポート課題(映画分析5枚以上)については、3週間以上前に授業内で伝達し詳細なプリントまで配っている。他のほとんどの教養科目は試験らしいので、よほどのことがなければ書く時間がなかったということはないはず。
レポート未提出の失格者のうちの半分くらいは、最後の講義までちゃんと出ていてほとんど欠席のない学生。授業内ミニレポートも真面目に書いている。授業内容や単位認定レポートについて質問しにきた学生もいる。
つまりこちらから見ると、単位取る気満々に見える。せっかく講義に出たのだから、内容にあまり自信がなくてもとりあえずレポートは提出する、というのがまあ普通ではないかと思うのだが‥‥。
暇な学生が時間つぶしに受講だけしていたのだろうか。他の大学ではこういうのは一般的なことなのだろうか。


一つ考えられるのは、真面目な学生だけにレベルの高いレポートを仕上げようとして、うまく書けず、妥協もできず、結局出すのを諦めたのではないかということ。
現に今年も、普段のミニレポートの内容からして群を抜いて大人びた優秀な学生がいたが、彼の単位認定レポートの最後のまとめは「未完成」で終わっていた(「時間切れ」と書いてあったので本人的には未完成なんだろう)。レポートの形式としては拙いだろうが、下手に取ってつけたようなまとめでお茶を濁したのより、「ぎりぎりここまで考えてみたが、ここからどうしても進まなかった」というような、思考の跡がくっきり刻まれている点には好感がもてる。私はそういう汗まみれのレポートを読みたい。
しかし実際には、課題違反をしてようが誤字だらけであろうが内容レベルがお粗末であろうが、出せば単位がもらえると思っていたりする学生の方が多く、「こんなレベルじゃ恥ずかしい」と思う学生は稀である。


もう一つ、ごく最近になってわかってきたのは、リピーターがいるということだ。
受講者が多いので名前を逐一はっきりとは覚えていない中、たまに「あれ?この名前去年も見たような‥‥」ということがある。前年に出席不足かレポート不可で落とし再チャレンジする学生もいるけれども、そうではなくほぼ出席はしていて、わざとレポートを出さないで失格となり(単位が取れてしまうと再受講できない)、次の年も受講している人。
これまでの出席簿を調べてみたら、毎年平均2人くらいいるようだ。ある学生のミニレポートの最後には、「今年で3年目なのでそろそろ単位レポート出します」とあった。
こういう学生の存在は嬉しい反面、結構怖い。「あ、去年と同じジョーク言ってんじゃん」とか「ここの説明、去年よりはしょってね?」とか思われてたりするんじゃないかと、なんとなく気にしてしまう。3年も継続して来ていたなら「2年前とほとんど同じ服着てる」とか「この2年で老けたなー」とかも思われたりしてんじゃないの。自意識過剰か。


本や映画が繰返し読まれたり鑑賞されたりする場合、同じ本や映画の内容から受け手が毎回新たに何かを汲み取っている。そういうものが再読、再見に耐える優れた作品と言われる。しかしそれ以上に、受け手の読解力や鑑賞力が時間と共に鍛えられ深まることによって、同じものでも違った角度から読んだり見たりして味わうことができるようになるのだと思う。
私の授業内容は毎年大筋では同じだが、本や映画のように細部まで同じではない。毎年新しいトピックを入れるし、扱う映画にも別の解釈が加わる。自分の思考の変化が講義内容に影響を与えることもある。学生の反応を見て話の仕方を少し変えてみるということはしょっちゅうやっている。今回はうまくやれたと思う日もあれば、いまいちだったと思う日もある。
3年連続して受講した学生が、どこまでそういう細かい揺らぎや変化を感じ取っていたかはわからない。むしろ、性についていろいろな迷いや葛藤を抱いたり、出来事を体験していく二十歳前後という時期にあっては、本人の中で生じている揺らぎや変化の方がずっと大きいだろう。
だから私の授業それ自体が、再受講に耐える優れた講義というわけではないのだ。同じ映画を何度も見、微妙に違いはあるが大筋同じ内容の講義を繰返し受けることが、大人へと変化し続ける彼の中で何らかの意味をもったということなのだろう。