車椅子を押して

昨日、昼で終わった仕事の後、介護施設の父を見舞った。食堂のテレビのすぐ前に、車椅子に乗せられた父がいた。勝手に立とうとして転ばないようにシートベルトをされていた。声を掛けると、夢から醒めたような顔をして私を見、片手を上げた。
「今日は一人で来たよ。名芸の帰り」
父は右手を耳の後ろに当てがった。よく聞こえないらしい。
「午前中、名芸の授業があって、それ終わってから来たの」
「‥‥メーデー? メーデーは5月1日だ」
メーデーじゃなくて名芸。名古屋芸術大学。私、そこで非常勤してるって言ったでしょう、前」
ほお、と初めて聞くような感じで父は小さく頷いてから言った。
「僕もね、つい最近まで勤めをしていたんだが‥‥、今日起きたら、どういうわけだか、ここにいた」
記憶が大幅に飛んでいる。「つい最近まで勤め」には触れず、8月に入所してからの出来事をかいつまんで話すと、父はまたほおと言うように頷いた。


テレビでは何かドラマをやっていた。
「これ見てたの?」「見てない」
そもそもここに来てから、テレビ自体ほとんど見なくなったらしい。家から母に持ってきてもらった本も読めなくなった。そういう類いの情報摂取がもうしんどいのだろう。ただ、部屋に戻すと寝てしまい、夜起きて大声を上げたりするので、昼間は眠らないようにテレビの前に連れて来られているのだ。それで他にすることがないので、内容もわからないテレビ画面をぼんやり眺めている。
食堂には7、8人の老人がいて、ほとんどが車椅子に座っており、数人のおばあさんが固まってポツリポツリと言葉を交わしている以外は、それぞれじっとして起きているのか居眠りしているのかわからない感じだった。父はまだ誰とも馴染めずにいた。父の性格ではこの先も、ここで話し相手はできないのではないかと思った。


「お天気いいから外に行ってみる?」と聞くと頷いたので、スタッフの人に断って、エレベーターで1階のホールに降り、父の車椅子を押して表に出た。
「外に出るのは、初めてだ」と父は言った。実は以前に一回スタッフの人が外の駐車場まで連れ出してくれたのだが、すぐ部屋に戻りたいと言ったらしい。今日は気分がいいのだろう。
高台の閑静な住宅街の中にある施設の前の道は、ゆるやかな上り坂になっている。そこを車椅子を押して上っていくと、「サキちゃん、えらくないか?」と前を向いたまま父が言った。上りだから押すのが辛くないかということだ。「だいじょうぶ。平気」。
空が高く、刷毛で掃いたような雲が浮かんでいる。ほとんど禿げ上がった父の頭の横から後ろにかけて少し残った白髪が、しばらく散髪していないので伸びて、そよそよと秋風にそよいでいる。
連れ出してはみたが、何を喋っていいのかわからない。


坂の途中で道を折れた。少し行くと、大きなキョウチクトウの樹が塀から外に向かって葉を茂らせていた。枝の上の方に、長かった夏の名残りのように、紅色の花がまだいくつかついていた。
「お父さん、キョウチクトウが咲いてる」
父はのろのろと左右を見回した。
「あっち。ほら上の方」
目の前に指差した手を持っていくと、ようやく頭上の花を見つけた父の口が、「あ」というように開いた。
外で花を眺めることもなく、病院と施設の中で過ぎた父の今年の夏。来年はあるのだろうか。


そこから先は急な下り坂だったので、回れ右をして施設に戻ることにした。ゆるやかな下り坂だと思っていたが、車椅子が明らかに下に引っ張られていくので、グリップを握る手に力が入る。ここでうっかり手を離したら大変なことになるなと思った。戦艦ポチョムキンの有名な場面が頭を過る。あれは乳母車か。この場合まあ同じようなものだ。
「今日みたいに、外を散歩をしたのは初めてだ」と、また父が言った。
「気持ち良かった?」
「気持ち良かった」
「じゃあまたお天気のいい日に、一緒に散歩しよ」
父は頷いた。
「おしっこが出た」
「後でオムツ換えてもらお」


突然、一枚の写真を思い出した。毛糸の帽子を被ってベビーカーに乗った私、それを押して歩く母を、父が横から撮った古いアルバムの中の一枚。
その写真の下には父の細かい字で、「母よ 私の乳母車を押せ 轔轔と私の乳母車を押せ」と書き添えられていた。国語の教師だった父は、「轔轔」という難しい漢字の下に几帳面に「りんりん」と仮名を振っていた。

  乳母車     三好達治
  
 母よ──
 淡くかなしきもののふるなり
 紫陽花いろのもののふるなり
 はてしなき並樹のかげを
 そうそうと風のふくなり
  
 時はたそがれ
 母よ 私の乳母車を押せ
 泣きぬれる夕陽にむかつて
 轔轔と私の乳母車を押せ
  
 赤い総ある天鵞絨の帽子を
 つめたき額にかむらせよ
 旅いそぐ鳥の列にも
 季節は空を渡るなり
  
 淡くかなしきもののふ
 紫陽花いろのもののふる道
 母よ 私は知ってゐる
 この道は遠く遠くはてしない道


母に乳母車を押してもらってから半世紀。
「遠く遠くはてしない道」の途中で、私は老父の車椅子を押している。




測量船 (講談社文芸文庫)

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